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『「神道」の虚像と実像』(井上寛司) [読書(教養)]

 「日本や世界の多くの人びとのあいだで、日本の神社や神祇信仰が太古の昔に成立し、今日まで変わることなく連綿と伝えられてきたとの理解が広まっている。しかし、後述するように、こうした理解は明らかな事実誤認にもとづくものといわなければならない」(Kindle版 No.78)

 一般に、日本古来からの民族的宗教と見なされている「神道」。しかし、その理解は正しいのだろうか。神道が持つ宗教としての特異性を、日本史そのものの特異性と表裏一体のものとして読み解いてゆく一冊。新書版(講談社)出版は2011年06月、電子書籍版の出版は2012年09月です。電子書籍版を、Kindle Paperwhiteという電子書籍リーダーで読みました。

 まず、日本人と宗教との関わりの「異常さ」あるいは「不可解さ」を指摘する導入部が素晴らしい。ぐっときます。いわく。

 「国民の圧倒的多数が(中略)みずから「無宗教」(無神論とは異なる)だと称していることである。各種の統計類から、その数は国民の約七割にも達するとされる」(Kindle版 No.28)

 「各種宗教団体から報告される信者数の総計が日本の総人口をはるかに越えている」(Kindle版 No.31)

 「総務省の統計で二十二万もの宗教団体が登録されている(中略)。多数の神々や仏・菩薩が存在し、それらがともに信仰の対象とされている。また、時と処によって適宜使い分けられている」(Kindle版 No.47、61)

 いずれも日本人からすると自然なあり方ですが、冷静に考えてみると、これはかなり薄気味悪い状況ではあります。総人口の二倍を越える信者がいて、ありとあらゆる宗教と宗派が共存し、でも人口の七割が自分は「無宗教」だと自認しており、様々な信仰を適宜「使い分け」ているという。

 こんな国民性は、いったいどういう歴史から生み出されてきたのでしょうか。

 つかみはばっちり。先が気になってどんどん読みふけってしまいます。そもそも「神道」なるものは本当に古代から続く宗教なのか。それは今日いうところの「神道」と同じものか。明治政府が押し進めた「国家神道」なるものは、「本物」の神道を濫用した「偽物」なのか。そして、今日の私たちが、宗教に対してかくも「異常」なスタンスを示すのはなぜか。

 古代、中世、近世、近代、そして戦後。日本の宗教史を追いながら、「神道」がどのようにして成立し、どう発展してきたのかを分かりやすく説明してゆきます。そして、一般に流布している思い込みをばっさり。

 「今日、「神道は自然発生的に生まれた日本固有の民族的宗教」とする理解が、一種の社会的通念とされている(中略)。しかし、こうした理解は、神社の場合と同じく、事実の問題として明らかに誤っている」(Kindle版 No.628)

 「日本の宗教の特異性は日本の歴史そのものの特異なありかたと表裏一体の関係にある」(Kindle版 No.116)

 「「神道」の用語が中国から導入された古代にあっては、いまだその内容が明確なかたちで定まらず(中略)、中世への移行にともなって大きく変化するとともに、日本独自の意味をもってくる。日本の「神道」は中世にこそ成立したのである」(Kindle版 No.2431)

 「あらためて日本史上に展開した「神道」をそれ自体に即して見てみると、中世・近世・近代のいずれの時代にあっても、常に性格の異なる二系列の「神道」が存在し機能していたのを確認することができる」(Kindle版 No.2735)

 「いずれの時代においてもその中心的な位置を占めたのが、従来から理解されてきた「(民族的)宗教としての神道」とは異質な民衆統治のための政治支配思想(宗教的政治イデオロギー)というべきもので、「国家神道」もまたその系列に属している」(Kindle版 No.2738)

 古代には、私たちが思うような意味での「神道」は存在しなかった。この用語は中世・近世・近代を通じて常に二重の意味で使われ、そのどちらの系統も時代を通じて変化してきた。「神道」をめぐる混乱の多くは、この二つの系統をごっちゃにしているせいである。日本人が戦争責任についてうまく総括できないのも、つまるところ「国家神道」を歴史的文脈で正しく捉えることが出来ていないせいだ・・・。

 思わず膝を打ってしまいます。そういうことか、どうりで何だかよく分からなかったわけだよ。

 時系列に沿って、まず一般的な宗教史の解説、その中で「神道」の位置づけがどう変遷していったのかを示し、さらに重要ポイントは何度も繰り返し説明するという具合で、解説は非常に丁寧。高校で日本史の勉強をさぼった読者でも、ちゃんとついてゆけます(証言)。

 ラストは、柳田國男や梅原猛を徹底的に批判しつつ、冒頭に挙げた日本人の宗教スタンスの「異常さ」をきっちり解明。最後までエキサイティングです。

 というわけで、「神道」をめぐるもやもやを、宗教史の観点からすっきり整理してくれる気持ちのいい一冊です。知っていそうで実はあまりよく知らない、日本の宗教史を手早く理解したい方に。


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『ピアニストという蛮族がいる』(中村紘子) [読書(随筆)]

 「この私自身をも含めてこのピアニストという種族について、気取っていえば神話的感慨、社会的公正を期していうならば、洗練された現代の人間とはまこと異質な、言ってみれば古代の蛮族の営みでも見るみたいな不思議な感慨、を、或る感動と哄笑と共に催すことがある」(Kindle版 No.18)

 女性ピアニストである中村紘子さんが、『文藝春秋』に1990年から1992年にかけて連載した名エッセイ。単行本(文藝春秋)出版は1992年01月、文庫版の出版は1995年03月、電子書籍版の出版は2012年09月です。電子書籍版を、Kindle Paperwhiteという電子書籍リーダーで読みました。

 古今東西の大ピアニストを取り上げ、その数奇な人生や奇妙なエピソードを語ってくれる素晴らしく面白いエッセイです。登場するピアニストは奇人変人というべき変わった方が多いのですが、それも無理はないのだと最初にこう断りを入れています。

 「大体みんな、三、四歳の時から一日平均六、七時間はピアノを弾いているのだ。たった一曲を弾くのに、例えばラフマニノフの「ピアノ協奏曲第三番」では、私自ら半日かかって数えたところでは、二万八千七百三十六個のオタマジャクシを、頭と体で覚えて弾くのである。それもその一音一音に心さえ必死に籠めて・・・。すべてが大袈裟で、極端で、間が抜けていて、どこかおかしくて、しかもやたらと真面目なのは、当たり前のことではないだろうか」(Kindle版 No.21)

 この一文を書くためにだけに28,736個の音符を数え上げた著者がいうのだから説得力があります。そういうわけで、著名なピアニスト達のエピソード満載なのですが、これがまた。

 「滅多にコンチェルトを弾かなかったホロヴィッツは、理由を訊かれて「オーケストラは邪魔だから」と答えた」(Kindle版 No.2952)

 「ホロヴィッツはただ一度、パリでルービンシュタイン夫妻を夕食に招待したことがあり、あまりにも珍しい出来事であったのでルービンシュタインはわざわざオランダから夜行列車でパリに戻ったのだが、なんとホロヴィッツは、その約束をすっぽかして競馬に行ってしまった」(Kindle版 No.209)

 「「世界のピアニストには三種類しかない。ユダヤ人とホモと下手糞だ」と放言してニヤリと笑ったのはかのホロヴィッツだった」(Kindle版 No.339)

 と、最初のホロヴィッツだけでもお腹いっぱい。蛇足ながら、もちろんホロヴィッツはユダヤ人で同性愛者でした。

 24歳にもなってからチェルニーの教則本で本格的に練習し始めたという異常に遅いスタートから、ほぼ一日おきのコンサートをこなしながらなんと毎日17時間の猛練習をやり抜き、米国だけでも1500回以上の演奏会を行い、500万人の聴衆を魅了した挙げ句、うっかり独立ポーランドの初代首相となり、ヴェルサイユ和平会議の席上で「あの有名なピアニストが今やポーランド首相とは。お気の毒に、なんたる転落か」と嘆かれたという、イグナッツ・ヤン・パデレフスキー。

 四歳で最初のコンサートを開き、七、八歳の頃にはペルシャの宮廷ピアニストになり、十一歳で千回記念リサイタルを開いたというラウル・フォン・コサルスキー。「ひとくちに千回というけれども、これは四歳のデビュウから十一歳までほとんど休みなく2.555日に一度ぐらいの割合で演奏会をしていた勘定になる」(Kindle版 No.2325)

 住む家もない鉱山労働者のテントの中で生まれ、草原で拾ったカンガルーの子供を唯一の友とし、素足で野山を駆けめぐり、ボロ同然の服を一年中着ていたというのに、ピアノに出会うや奇跡的な才能を示し、一躍ロンドン音楽界の寵児となって、やがて映画スターになったアイリーン・ジョイス。

 「ショパンを弾きながら途中を忘れて盛大に間違え、自分で即興的に「作曲」して弾き終わったあと、聴衆に向かって、この方がいいのだ、と演説した」(Kindle版 No.2732)ウラディミール・ド・パッハマン。

 「不充分な演奏をしたら、聴衆に申し訳ない」(Kindle版 No.2916)と大真面目に主張して演奏会をドタキャンしまくったり、「拍手が少ないのに憤然とした余り、ステージの上から静かな客席に向かって一言「ブタに真珠よ」と捨てゼリフを吐いた」(Kindle版 No.3065)り、八十九歳のときにずっと年下のイタリア娘と結婚し九十六歳にして二時間の演奏会を平然とこなしてしまったり、ピアニストにまつわる面白い話には種切れというものがありません。

 中でも白眉は、日本最初のピアニストでもある幸田延、その弟子である久野久の二人の伝記でしょう。日本における西洋音楽の黎明期に活躍した二人の女性ピアニストの苦難の物語は涙なくして読めません。特に久野久に関する記述には力がこめられています。

 「久にはピアニストになるための音楽的条件と音楽的必然性が何ひとつ備わっていなかった。にもかかわらず、運命は彼女にピアノ以外の何物をも与えることを拒否するのである」(Kindle版 No.1609)

 「彼女と音楽との出逢い、関わり合いには何一つ豊かなもの幸せなものはなく、あるのは不安とつらさばかりであった。そして音楽に身を打ち込めば打ち込むほどにその不安は広がって、彼女から音楽はますます遠くへだたっていくのを彼女は知っていた」(Kindle版 No.1876)

 「名古屋での演奏会では、演奏の途中で指が裂け、血が吹き出してキイがまっ赤に染まってもなお弾き続け、聴衆を圧倒したという。きゃしゃで色白の足の不自由な娘が物の怪に憑かれたように全身全霊をこめてピアノに立ち向かう。満身の力をこめてピアノを叩くと、結い上げた髪はパラバラと肩に落ち、さしていたかんざしはどこかにすっ飛び、帯までもがゆるゆるとほどけていく・・・」(Kindle版 No.1296)

 大いなる悲劇へと向かう彼女の凄絶な人生を劇的に語りながらも、「同じピアニストとして私は、一体どうやったら「指先が破れて血がほとばしり出る」ような奏法になるのか、理解に苦しむ」(Kindle版 No.1792)と冷静に演奏技術の未熟さを指摘するところなど、さすがピアニスト。

 けっこう辛辣な文章が多いのも特徴的で、例えばこんな描写が。

 「ちょっと目の表情のきょとんとした、やや蓮っ葉な感じの極めて愛想の良い人だが、失礼ながら知性や教養といったものには程遠いタイプの人という印象であった」(Kindle版 No.1223)

 「日和見主義者で権力志向で酒飲みで、ときに音楽家としてもイイカゲンな、一言にいってヤな奴らだったようである」(Kindle版 No.2228)

 「女性ピアニストというのは、どうしても性格的には勝ち気で負けん気で強情でしぶとくて、神経質で極めて自己中心的で気位が高く恐ろしく攻撃的かつディフェンシヴで、そして肉体的には肩幅のしっかりとした筋肉質でたくましい、というタイプになってしまう」(Kindle版 No.3038)

 というわけで、出てくる伝記とエピソードが強烈な印象を残し、また文章から感じられる「勝ち気で負けん気で(中略)たくましい」パワーに魅了される、そんな傑作エッセイです。あまりの面白さに一気読みしてしまいました。


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『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』(ダン・アリエリー) [読書(教養)]

 「わたしたちは思いつく限りの言い訳を総動員して、自分がルールを破っているという事実から距離を置くのが、とんでもなくうまい。とくに自分の行動が、だれかに直接害をおよぼす行動から何歩か離れているときがそうだ」(Kindle版 No.2658)

 人はどんなときにどのくらいインチキを行うのか。様々な実験で確かめられたのは、意外な事実。不正行為に手を出すメカニズムを行動経済学の手法で解きあかす好著。単行本(早川書房)出版は2012年12月、電子書籍版の出版は2013年01月です。電子書籍版を、Kindle Paperwhiteという電子書籍リーダーで読みました。

 「不正を減らす見こみがあるとすれば、そもそもなぜ人が不正な行動をとるのか、それを理解することから始めなくてはならない」(Kindle版 No.3560)

 不正行為をなくすには、罰則を厳しくしたり、監視を強化したりすることで、それが「割に合わない」ようにしてやればよい。人は、「発覚する確率」、「ペナルティ」、「不正によって得られる利益」を天秤にかけて、不正を行うか否かを合理的に判断しているに違いないのだから。

 著者はこうした伝統的な見方を、実験によってあっさり打ち砕いてしまいます。

 「不正の水準が、不正によって得られる金額にそれほど左右されない(わたしたちの実験ではまったく影響を受けなかった)という実験結果は、不正が単に費用と便益を分析した結果行われるわけではないことを示している」(Kindle版 No.402)

 「そのうえ、見つかる確率を変えても不正の水準が変化しなかったことを考え合わせると、不正が費用便益分析をもとに行われる可能性はさらに低くなる」(Kindle版 No.404)

 では、人はどのようなとき、どのくらい不正をするのか。著者は巧妙に設計された様々な実験により、人を不正に駆り立てる要因を明らかにしてゆきます。研究対象となるのは、自己正当化、自己欺瞞、創造性、軽微な反道徳的行為の自覚、精神的な消耗、自分の不正によって他人も利益を得るという状況、他者の不正行為を目撃すること、チームワーク、などなど。

 報酬を換金チップで支払うと、現金払いのときより不正が多くなる。創造性の高い人ほど不正行為をしやすいが、知能の高低は影響しない。不正が純粋に利他的な理由から行われる(自分がその行為から何ら利益を得ない)場合には、不正の度合いがかえって高まる。偽ブランドを身につけているだけで不正行為に手を染める可能性が高まる。署名欄を書類のトップに配置すると不正が減る。道徳イメージを連想させるだけで不正の抑止に効果がある・・・。

 こうした興味深い実験結果が次々と提示されます。これらの結果から、著者が辿り着いた考えは次の通り。

 「わたしたちはほんのちょっとだけごまかしをする分には、ごまかしから利益を得ながら、自分をすばらしい人物だと思い続けることができるのだ。この両者のバランスをとろうとする行為こそが、自分を正当化するプロセスであり、わたしたちが「つじつま合わせ仮説」と名づけたものの根幹なのだ」(Kindle版 No.415)

 「わたしたち人間は、根本的な葛藤に引き裂かれている。自分や他人を欺こうとする根深い傾向と、自分を善良で正直な人間と思いたいという欲求との葛藤だ。そこでわたしたちは、自分の行動がなぜ妥当で、ときには賞賛に値しさえするのかを説明する物語を語ることで、自分の不正直さを正当化する。実際、わたしたちは自分をだますのがとてもうまいのだ」(Kindle版 No.2385)

 不正を自分のなかで正当化する能力の強力さを示すエピソードも多数挙げられています。例えば、不正で点数を水増ししたことを自覚しているにも関わらず、人間は水増しした点数を自分の実力だと本気で信じてしまう、いわば不正によって自分すら簡単に騙してしまう、ということを示す実験とか。

 こうして、丹念な実験の積み重ねから、説得力あるいくつかの結論が導き出されます。最も重要なのは、「犯罪を減らすには、人が自分の行動を正当化する、その方法を変えなくてはいけない」(Kindle版 No.784)ということではないでしょうか。例えば、いわゆる厳罰主義は本当に犯罪を減らすのに有効なのか、大いに疑問がわいてきます。

 極めて真面目で重いテーマを扱っている本書ですが、文章は軽妙でユーモアたっぷり。最初から最後まで楽しく読めます。本筋とは別に、様々な余談も詰め込まれており、これがまた面白いのです。個人的に最も気に入った余談は、こうです。

 「数年にわたってデータを収集し、祖母が亡くなる確率が、中間試験の前は10倍、期末試験の前には19倍にも跳ねあがることを示した。おまけに、成績が芳しくない学生の祖母は、さらに高い危険にさらされていた。落第寸前の学生は、そうでない学生に比べて、祖母を亡くす確率が50倍も高かったのだ。(中略)学生がとくに学期末になると、(教授への電子メールのなかで)祖母を「亡くす」可能性が高まるのは、いったいなぜだろう?」(Kindle版 No.1509)


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『世界音痴』(穂村弘) [読書(随筆)]

 「気がつくと、ぼくは三十八歳で、ネクタイを締めて、総務課長で、妻もなく、子供もなく、ポセイドンもロプロスもロデムもなく、大トロの半額パックを手に持って、うまいかまずいか、新鮮か腐っているか、得か損かを考えている。いつのまに、こんなに遠くに来てしまったのか。「ああっ」(ああっ)(これでぜんぶなのか)(人生って)(ほんとうに)(まさか)(ぜんぶ)(これで)(そんな)」(Kindle版 No.504)

 歌人の穂村弘さん初めてのエッセイ集が電子書籍化されたので、Kindle Paperwhiteという電子書籍リーダーで読んでみました。単行本(小学館)出版は2002年03月、文庫版出版は2009年10月、電子書籍版出版は2013年01月です。

 日常生活の様々な場面でどうすれば自然に振る舞えるのか分からない、世界と自分との間に絶望的な溝を感じる、そんな気持ちをリアルに書いたエッセイ集です。「いや、これはないだろうさすがに」という滑稽さと、「あ、これは自分にも分かる分かる」という共感、その両方を感じさせる手際が見事。

 「飲み会なんて、ただ自然に楽しめばいいだけじゃないか、と不思議がられる。だが、私はまさにその「自然に」楽しむことが、いちばん苦手なのである。飲み会に出るぐらいなら、その間中、ずっと腕立て伏せとフッキンをしていた方がいいと思う」(Kindle版 No.264)

 「参加出来ない話題に対して、興味を示すひとも、ただにこにこしているひとも、退屈そうな顔を隠さないひとも、いずれもその振る舞いは自然なものにみえる。そして私にはその「自然さ」がどうしても身につけられない。おかしな云い方だが、ちゃんと退屈そうな顔をすることすら出来ないのだ」(Kindle版 No.1421)

 他人に対して「自然に」振る舞うことが出来ない、というか中に入って行けない。世界から容赦なく隔てられている、それを自覚させられる時間。飲み会などの社交行事が苦手な読者は、かなりの共感を覚えるのではないでしょうか。

 「私の顔はひきつっていたと思う。ひどい衝撃を受けていたのだ。そこに住みはじめて十五年ほど経っていたのだが、私は自室の窓が開くところをそのとき初めて見たのである」(Kindle版 No.296)

 「いざ映画が始まると、はやく終わらないかなと思う。つまらないのではない。面白い映画のときほど強くそう思う。(中略)これから自分がどきどきしたり感動したりするという、その期待と緊張が苦しくて、はやく楽になりたいのである」(Kindle版 No.1557)

 「本当は通勤途中のエスカレーターであんパンは食べない方がいいのである。でも、もう遅い。もう、食べるしかない。だって、封を破ってしまったんだもの」(Kindle版 No.244)

 「私の考えでは、夜中に無意識状態で菓子パンを食べても一つもいいことはない。カロリーオーバーになるし、虫歯になるし、体は「ちくちく」になるし、結婚できないし、何より人間としての尊厳が危ぶまれるのである」(Kindle版 No.370)

 15年間住んだ部屋の窓を開けたことがない(自分を取り巻く世界に対して能動的に関与する、という発想を持てない)、楽しいことや嬉しいことを体験するというその予感そのものが怖くて苦しい、通勤途中に、夜中にベッドで、菓子パンをむさぼり食ってしまう。インパクトあふれるエピソードが次々と登場します。

 菓子パンのくだりなど、「今でも初対面のひとに名乗ると、「ああ、あのベッドで菓子パンを食べる・・・」と云われることがあって、嬉しいような困ったような気持ちになります。それ以外のこともしてるんですけど」(Kindle版 No.1714)というくらい有名になったそうで、まあ四十歳を前にした歌人がすることじゃないかも知れません。

 というわけで、後に書かれる『現実入門』や『整形前夜』の原点。短歌作品のあの叙情の根っこに何があるのかを分かりやすく赤裸々に教えてくれるユーモラスかつもの悲しいエッセイ集です。

 「もっと早く短歌と出会っていれば、と思う。表現の形式を問わず、その時にしか書けないことが確かにあり、後から時間を遡ってそこにライブの生命を吹き込むことはできないのだ。(中略)地球から何パーセクも離れた恒星や凍りついた未知の頂のように遥かなものとして女性を捉えた歌に、私は間に合うことができなかった」(Kindle版 No.1314)


タグ:穂村弘
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『名作うしろ読み』(斎藤美奈子) [読書(随筆)]

 「なにしろ一編の最後を飾るフィナーレである。さぞや名文ぞろいにちがいないと、当初、私は期待しないでもなかった。結論からいえば「着地がみごと決まって拍手喝采」な作品はむしろ少ない。(中略)フィニッシュをピタッと決めて美しく舞台を去りたい。そう願っても、人生と同じで本てのも、そう上手くはいかないのである」(単行本p.296)

 文芸評論家である斎藤美奈子さんが、2009年から2011年にかけて、読売新聞夕刊に連載した古典紹介コラムをまとめた一冊。単行本(中央公論新社)出版は、2013年01月です。

 覚えていますか、あの結末の一文を。

  「読者は無用の憶測をせぬが好い。」
  「勇者は、ひどく赤面した。」
  「下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた。」
  「明日はまた明日の陽が照るのだ」
  「神に栄えあれ。」
  「老人はライオンの夢を見ていた。」
  「逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。」

 古今東西の古典的名作132冊を取り上げて、その「ラスト一行」を紹介する書評集です。名作の「書き出し」部分を紹介した本は数ありますが、その逆というのはコロンブスの卵。何しろラストシーンの紹介ということで、結末をすべて明かしてしまいます。

 書式は完全に統一されており、1作品につき見開き2ページ。まず最初に「ラスト一行」が大きく書かれ、続いて結末を中心とした内容紹介とコメント、その作品に関する豆知識的な補足情報、そして最後に作品情報(タイトル、出版年、出版社、作者のプロフィール)が続きます。

 本文にあたる内容紹介は実質1ページ半。短篇から大河小説まですべてこの分量で紹介した上に、コメントや解説まで付けてしまうという職人技。それも設定やストーリーを追うだけでなく、いかにも斎藤美奈子さんらしいツッコミもあり、個人的にはそこが嬉しい。

 例えば、『伊豆の踊子』(川端康成)へのツッコミはこうです。

  「途中まではロリコン小説、最後はボーイズラブ小説!? 大丈夫かな、この一高生」(単行本p.35)

 『白鯨』(メルヴィル)の評価。

  「ゲイ文学の傑作に認定したい」(単行本p.167)

 『ビルマの竪琴』(竹山道雄)への皮肉。

  「ビルマの人々の目はまったく意識されていない。水島の行為によって隊も読者も「癒やされて」しまうあたり、どこまでも「われわれ日本人」の物語なのだ」(単行本p.213)

 『菊と刀』(ルース・ベネディクト)の紹介。

  「古典とは読まれずにその名だけが流布する段階に至った著作(中略)という評言がピッタリな本」(単行本p.241)

 『銀の匙』(中勘助)の紹介。

  「チャキチャキした土地柄に反して「私」は弱虫で泣き虫で意気地なし。「なよなよ」「めそめそ」とした少年時代をそうっと慰撫するような作品」(単行本p.182)

 そういえば、設定もストーリーもまったく異なるけどタイトルが似ている、人気コミック『銀の匙 Silver Spoon 』(荒川弘)もいわれてみればそういう話ですね。

 最後に、「名作のエンディングについて」というエッセイが付いており、様々な結末のパターンが分類されています。これも皮肉が効いていて素晴らしい。例えば、「風景が「いい仕事」をする終わり方」という章では、こんな助言が。

 「もしもあなたが何かを書いていて、終わり方で困ったら、とりあえず付け足しておこう。「外には風が吹いていた」「空はどこまでも青かった」「私は遠い山を見つめた」」(単行本p.293)

 というわけで、古典名作のブックガイドとしても有効ですし、斎藤美奈子さんの毒舌が鋭い書評集としても楽しめます。とりあえず結末が分かるので、「読んだふり」「知ったかぶり」をする役にも立ちそう。


タグ:斎藤美奈子
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