SSブログ

『ソラリス』(スタニスワフ・レム、沼野充義:翻訳) [読書(SF)]

--------
「それで、結局、これはいったい何なんだ?」と、私は辛抱強く彼の話を聞き通してたずねた。
「われわれが望んでいたもの、つまり異文明とのコンタクトさ。いまやまさにそのコンタクトを体験しているんだ! その結果、まるで顕微鏡で見るように拡大されてしまったんだ、おれたち自身の怪物のような醜さ、おれたちの馬鹿さかげん、破廉恥さが」
--------
Kindle版No.1608

 二重連星を周回する謎めいた惑星ソラリス。その表面を覆っている、生きて思考しているらしい原形質の「海」。度重なるコンタクトの試みはすべて頓挫し、その活動の意味も目的も分からない。理解できない異質な知性を前に、人類がほこる科学や理性はまったくの無力だった……。

 原語からの完全翻訳として蘇った、SF史上に名高いコンタクトテーマの古典的名作。単行本(国書刊行会)出版は2004年9月、文庫版(早川書房)出版は2015年4月、Kindle版配信は2015年5月です。


--------
コンタクトというのは、何らかの経験や概念の交換、そうでなければ少なくとも何らかの成果とか立場の交換を意味する。でも、もしも交換すべきものが何もなかったとしたら?
(中略)
ソラリスと地球の間をつなぐ橋は存在していないし、存在し得ないからだ。これは、共通の経験が欠けていること、伝達可能な概念が欠けていることなどと同様にあまりにも明らかだが、ソラリス学者たちはそれを認めようとはしない。
--------
Kindle版No.3274、3902


 人類が根本的に理解できない異質な知性である「ソラリスの海」とのコンタクトを扱った長篇です。

 時間と労力をかけさえすれば、理性の力によって、私たちは宇宙のすべてを理解できるようになるはずだ、という素朴な楽観主義が粉々に打ち砕かれます。百年に及ぶソラリス研究は、科学と理性の限界をあらわにしただけでした。

--------
それまで──膨大な広がりにも関わらず──澄んだ世界であったソラリス学が、錯綜した、袋小路だらけの迷路と化していったのだった。全面的な無関心、停滞と意気阻喪といった雰囲気の中で、もう一つの海──つまり、印刷された不毛な紙の海──が現れ、時間の流れの中でソラリスの海に付き添っているように見えた。
--------
Kindle版No.3815

--------
 次第に科学者たちの間では「ソラリス問題」と言えば、「徒労に終わった問題」の意味を帯びるようになってきた。
(中略)
 しかし、多くの人たちにとって、特に若手にとって、この「問題」は次第に、自分自身の価値の試金石のようなものになっていった。「本質的には、ここで賭けられているのは、ソラリス文明の究明以上のことだ。われわれ自身のこと、人間の認識の限界が問題になっているのだから」と、彼らは言った。
--------
Kindle版No.491、496


 そう、まさに、ソラリスの海より、人間の認識の限界こそが問題なのでした。

 ソラリスステーションに赴任してきた心理学者ケルヴィンは、死んだはずの恋人であるハリーが、物理実体として出現するという怪奇現象に遭遇します。ケルヴィンの脳から読み取った情報をもとに海が創り出したハリーとの会話、人間くさい愛憎劇。何とも皮肉なことに、それこそが待望の「コンタクト」だったのです。


--------
「やつは、おれたちの中に一番はっきり描かれているもの、一番奥に隠されているもの、一番完全で一番深く刻み込まれているものを取り出したんだ、わかるかね? でも、だからと言って、それがおれたち人間にとって何なのか、どんな意味を持っているのか、知っているはずだということにはまったくならない」
--------
Kindle版No.4401


 ようやくコンタクトが成立したというのに、相手についてまったく何も理解できないまま(たぶん「海」にとっても同様)、鏡にうつった自分自身とひたすら会話しているだけ。その不毛さこそが、人間の本性をあらわにしてゆきます。


--------
われわれは宇宙を征服したいわけでは全然なく、ただ、宇宙の果てまで地球を押し広げたいだけなんだ。
(中略)
人間は人間以外の誰も求めてはいないんだ。われわれは他の世界なんて必要としていない。われわれに必要なのは、鏡なんだ。他の世界なんて、どうしたらいいのかわからない。
(中略)
人間は他の世界、他の文明と出会うために出かけて行ったくせに、自分自身のことも完全には知らないのだ。自分の裏道も、袋小路も、井戸も、封鎖された暗い扉も。
--------
Kindle版No.1593、1598、3548


 人間は、人間にしか興味がない、しかも人間のこともろくに知らない、という身も蓋もないペシミスティックな結論へと向かってゆきます。宇宙のすべては理性によって理解できるし、人類はそうするであろう、という社会主義的ユートピアから何と遠い地点に到達したことか。

 しかし、それでもソラリスを無視して忘れ去ることが出来ないのも人間の本性。これからも永遠に、理解不可能なものに立ち向かっては何度も挫折を繰り返すことになるだろう、そういったほのめかしとともに、この驚異と寓意に満ちた物語は幕を閉じるのでした。


--------
もはや人間たちは知らん顔を決め込んでいるわけには決していくまい。どれほどくまなく銀河系を踏破したところで、人間に似た生物が築いた別の文明とどれほどコンタクトを取ろうとも、ソラリスは人間に投げつけられた永遠の挑戦であり続けるだろう。
--------
Kindle版No.3891

--------
私はこの上まだどんな期待の成就、どんな嘲笑、どんな苦しみを待ち受けていたのだろうか? 何もわからなかった。それでも、残酷な奇跡の時代が過ぎ去ったわけではないという信念を、私は揺るぎなく持ち続けていたのだ。
--------
Kindle版No.4670


 というわけで、未読の方にはぜひ一読をお勧めしたいコンタクトテーマSFの金字塔といってよい名作です。また飯田規和さんによる旧訳に親しんでいた方にも、新訳版を改めてお勧めするだけの理由があります。


--------
飯田訳がおそらく1962年にソ連で出たロシア語訳を底本とした重訳であるため、ポーランド語の原語の表現から微妙にずれている箇所が多いだけでなく、検閲によって削除された部分がかなりある
(中略)
このハヤカワ文庫版は、ポーランド語からの直接訳であることはもちろんだが、飯田訳に残っていた脱落箇所もすべて新たに訳出してある。そういった脱落(ないし削除)箇所は、(中略)全部合わせると私の概算で400字詰め原稿用紙40枚分近くになる。全体で550枚ほどの長篇にとってこれは量的にも決して無視できない数字だが、それだけでなく、いずれもこの作品の豊かなイメージと思想的視野の広さを感じさせる重要な箇所であるため、それがあるとないとでは読後感もかなり変わるのではないかと思う。
(中略)
日本語としてはやや読みづらいかもしれないが、原文の段落の分け方から(非常に長い段落がしばしば出てくる)、句読法や記号の表記まで(かなり特別な感嘆符や疑問符の使い方や、「……」の位置も含めて)ほぼ原文通りとしてある。
--------
Kindle版No.4696、4710、5054


 さらに付録として、『ソラリス』についてこれまでに書かれてきた様々な評論を紹介してくれます。


--------
この作品の魅力は一筋縄では語れない。一読してわかるとおり、いくつもの層が複雑に絡み合って作品の全体を織り成しているというか、それぞれの層が鏡のように主人公を──そして読者を──映し出しているといった絶妙の構造になっているため、この小説は比較的単純な物語のようで、じつはソラリスの海そのもののように変幻自在、見るものの視点によって大きく姿を変えるのである。
(中略)
『ソラリス』はレムの代表作であるだけでなく、このように複雑な構造を持った作品であるため、その構造を読み解こうとした批評や論文も少なくない。
--------
Kindle版No.4723、4734


 紹介される評論の概要を眺めただけでも、その量と多様さが想像され、思わずたじろいでしまいます。あらゆる評論家が『ソラリス』の読みについて一家言もっているような勢い。『ソラリス』という小説が作中に登場するソラリスの海と同じように鏡の迷宮になっているだけでなく、『ソラリス』評論という分野が作中のソラリス学と同じように錯綜した紙の海となっているという。すごいな。

 個人的には、レム自身による映画版(タルコフスキー版、ソダーバーグ版)に対する辛辣な評価が読めたのが嬉しかった。


--------
映画化する権利はもう譲った後だったから、いまさら何を言ってもタルコフスキーの姿勢を変えられる可能性はなかったんです。それで喧嘩別れになり、最後に私は彼に「あんたは馬鹿だ」とロシア語で言って、モスクワを発った。三週間の議論の後にね。その後彼が作ったのは、結局、なんだか、その、あんな映画だったわけです。
--------
Kindle版No.4903


--------
ソダーバーグはどうやら私の本から、ソラリスのヴィジョンに関わるものをすべて切り捨ててしまったようだが、じつはそれこそが私にとっては非常に大事なものだったのである。
(中略)
これはSFに関するアメリカ流の思考のステレオタイプに媚を売ったということだろう。この種の紋切り型の溝は深くがっちりと固められていて、そこからはなかなか抜け出せないものらしい。
(中略)
批評家たちは、海によって作られたヒロインの女性が最後に怨霊か魔女か女吸血鬼と化して主人公をむさぼり喰い、彼女のはらわたから蛆虫やその他のおぞましいものがぞろぞろ這い出してくるのを期待していたのではないか。
--------
Kindle版No.5022、5030、5034


 余談ですが、今、ソラリスまわりで最も気になっているのは、勅使川原三郎さんが振り付けたオペラ版『ソラリス』です。勅使川原さんがギバリャン、佐東利穂子さんがハリーを踊る。それだけでも凄いのに、スナウトを踊るのはパリ・オペラ座バレエのニコラ・ル=リッシュ。日本でも上演してほしい。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

『プラスマイナス 152号』 [その他]

--------
クマには何も出来ないが女の子におにぎりを握る事だけは、できた。
いくつもいくつも女の子、のために、
おにぎりを握ってやりたかったのです。
--------


 『プラスマイナス』は、詩、短歌、小説、旅行記、身辺雑記など様々な文章を掲載する文芸同人誌です。配偶者が編集メンバーの一人ということで、宣伝を兼ねてご紹介いたします。

[プラスマイナス152号 目次]
----------------------------------------------------------
巻頭詩 『純白』(深雪)、イラスト(D.Zon)
短歌 『春は 花がだんだん減って』(島野律子)
小説 『一坪菜園生活 三十五』(山崎純)
随筆 『花蓮名産 バター風味漂流木 7』(島野律子)
詩 『娘の矜持』(多亜若)
詩 『今日 陽が落ちた』(深雪)
詩 『マイ ワールド』(琴似景)
詩 『おにぎりをくれたくま(後編)』(深雪)
随筆 『香港映画は面白いぞ 152』(やましたみか)
イラストエッセイ 『脇道の話 91』(D.Zon)
編集後記
 「レシピをご紹介」 その4 多亜若
----------------------------------------------------------

 盛りだくさんで定価300円の『プラスマイナス』、お問い合わせは以下のページにどうぞ。

目黒川には鯰が
http://shimanoritsuko.blog.so-net.ne.jp/



タグ:同人誌
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

『ハトはなぜ首を振って歩くのか』(藤田祐樹) [読書(サイエンス)]

--------
ハトが首を振って歩く理由は、鳥の歩行研究における最重要課題と言ってよい。(中略)どうしてあんな風にピョコピョコと首を振るのか知りたかったという人に、私はかなりたくさん出会った。多くの人が知りたいことを調べる。それもまた、科学の重要な役割だ。
--------
「プロローグ ハトが首を振るその前に」より

 ハトはなぜぴょこぴょこ首を振って歩くのか。1930年から綿々と続いてきたハトの首振り研究がついに明らかにしたその理由とは。さらにその先にたち現れる疑問「カモはなぜ首を振らずに歩くのか」。そして謎に包まれた「鳥類ハト化計画」とは。鳥類の歩行研究について専門家が分かりやすく解説してくれる一冊。単行本(岩波書店)出版は2015年4月です。


--------
「鳥の歩行を研究してみようと思う」というと、決まってみんな、ハトの首振りの理由を問うのだった。
 誰もかれもが口をそろえて首振りの理由を知りたがる。そんなにみんな、首振りに興味があるのかと驚いた。
--------
単行本p.69


 「本書を気軽に手にとってくださった方々も、さすがにここまでガッツリと首振りの話が展開されるとは、思っていなかったのではないだろうか」(単行本p.113)とある通り、最初から最後まで首振りの話を詰め込んだ一冊です。全体は5つの章から構成されています。


「1 動くことは生きること」
--------
 運動の目的をひとつひとつ数えていけば、きりがない。きりがないから短くまとめてしまうと、食べるためにも、食べられないためにも、雌雄が結ばれるためにも、子どもを産み育てるためにも、とにかく運動せねばならないのだ。
--------
単行本p.6

 まずは基礎知識として、動物の移動様式とそれを支える身体構造についてざっと解説します。


「2 ヒトが歩く、鳥が歩く」
--------
図16 ペンギンの姿はヒトとあまりに似ているため,山手線ホームにペンギンが並んでいても,誰も気づかない(右)。しかし,骨格(左)を見るとペンギンはしゃがんでいて,立っているヒトとは簡単に区別できる。
--------
単行本p.31

 この章では、鳥とヒトの二足歩行を比べて、類似点と相違点を明らかにしてゆきます。トリは両足を同時に地面から離さないまま走行できるとか(びっくり)、ペンギンが常にしゃがんだ格好のままヨチヨチ歩きをする理由とか、一部の鳥がホッピングするのはなぜかという問いに「21世紀の科学が回答を提示できないというのは驚きだ」(単行本p.36)とか。意外な話がいっぱい。

 ちなみに図16(右)というのは、山手線ホームに巨大なペンギン親子が立って電車を待っている、でも誰も気にしてない、というか、そういう写真です。おい。


「3 ハトはなぜ首を振るのか?」
--------
 首振りが気になって仕方ないのは、何も最近の風潮ではない。ハトの首振り研究の歴史を振り返ってみると、意外に古く、最初の研究は1930年までさかのぼる。(中略)
1930年代は、まだヒトの歩行研究すら黎明期であった。そんな時代に、わざわざハトの運動を研究しようというのだから、ごく控えめに表現したとしても、彼らがハトの首振りに対して並々ならぬ興味をもっていたことは疑いようがない。(中略)
彼らは、単にハトを撮影しただけでなく、ニワトリやカモを手にもって上下左右に動かすときに頭を静止させていることも確かめた。どれだけ首振りに夢中なんだと、思わずツッコミを入れたくなる
--------
単行本p.40、41、43

 いよいよ謎が解かれます。1930年から綿々と続いてきた首振り研究が見つけたその理由とは。そしてそれは、いかなる実験によって明らかにされたのか。そして、なんで人類はそんなに首振りに魅了されるのか。


「4 カモはなぜ首を振らないのか?」
--------
「ハトはなぜ首を振って歩くのか?」と、「カモはなぜ首を振らずに歩くのか?」は、一見すると同じような疑問なのに、後者はなぜか奇妙に聞こえる。少なくとも私は、カモが首を振らない理由を気にする人に会ったことがない。ハトが首を振る理由は気になる人がたくさんいるのに、どうしてなのだろう。
 それはおそらく、私たち人間が歩くときに首を振らないからだ。
--------
単行本p.71

 ハトが首を振る理由は一応分かった。では、他の鳥類はどうなのか。いつも首を振って歩く鳥、いつも振らずに歩く鳥、そしてときどき振って歩く鳥。それぞれ理由は何なのか。疑問をさらに深めてゆきます。そして謎に包まれた「鳥類ハト化計画」とは。


--------
 そこで私は、鳥類ハト化計画をもくろんだ。足元の餌の密度を変えることで、すべての鳥にハト歩きをさせようという計画だ。(中略)
 しめしめ、これは早くも鳥類ハト化計画発動だと期待して、日がな一日、ユリカモメを観察してみた。だが、私の期待は大きくはずれ、ユリカモメたちはじっと立ち止まってエサを探してしまい、理想的に歩いてくれなかった。(中略)
 鳥類ハト化計画失敗に打ちひしがれていたころ、国際鳥類学会があってドイツのハンブルクを訪れた。私は、ちょうどユリカモメが干潟で首を振って歩くという成果を論文にまとめたばかりだったので、その内容をぜひ多くの研究者に知ってもらいたいと思って発表しに行ったわけだ。(中略)
 楽しみながら歩いていると、おじさんが街角でパンくずを撒いていた。(中略)どこでも鳥を愛する人々はいるものだとほほえましく思いながら眺め、そして衝撃を受けた。おじさんの足もとでパンくずをついばんでいるのは、なんとユリカモメで、しかも首を振り振り採食していたのだ!
 まぎれもない、ハンブルクにおけるユリカモメのハト化である。このときの私の衝撃たるや、筆舌に尽くしがたい。自分が専門家として行わんとしていた実験を、おそらく首振りの理由など知る由もないドイツ人のおじさんが、いとも簡単に成し遂げていたのである。
 私の自尊心は学会発表前日にして、もはや粉々に砕け散った。
--------
単行本p.85、86


「5 首を振らずにどこを振る」
--------
野球選手の絵と、コアホウドリの首振り歩行を並べてみよう(図34)。野球選手とコアホウドリが、なんと似ていることだろうか。コアホウドリのほうが、少しだけアイシャドウがキツくて面長な顔をしているが、それ以外には違いを見いだすことが難しい。
--------
単行本p.97

 いや、顔は関係ないやろ。

 コアホウドリはなぜV字首振りをするのか、小鳥はホッピング時にも首を振るのか、水鳥は泳ぐときにも首を振るのか、セキレイは尾を振るのか、そして、恐竜は首を振るのか。様々な首振り研究テーマについて教えてくれます。


 というわけで、ハトが首を振って歩くのはなぜか、という素朴な疑問が意外に深い研究テーマであること、調べ始めると鳥類の歩行に関して次から次へと疑問が湧いてくること、ハトとヒトは一字違いであること、など様々な話題を通じて科学の魅力を教えてくれる好著です。

 この夏の自由研究として「公園でハトの首振りを観察する」というのはどうでしょうか。世界で最も首振りに詳しい国民を目指して。

--------
人類学を専攻してヒトの歩行を研究するはずが,うっかりハトの歩行を研究してしまって以来,ハトはヒトに(名前が)最も近い鳥だと信じて研究を続ける.好きな言葉は「首振りと世界平和」.日本人が世界で最も首振りに詳しい国民になることを願っている.
--------
「著者略歴」より


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

『ペール・ギュント』(小野寺修二:振付、白井晃:演出) [ダンス]

--------
「それにダンスもひどい。まるでブタが短パンはいてるみたいだ」(ペール・ギュント)
--------

 2015年7月18日は、夫婦でKAAT神奈川芸術劇場に行って、小野寺修二さんが振り付けた『ペール・ギュント』を鑑賞しました。途中休憩15分を除いて上演時間3時間の大作です。

 劇中にダンスシーンもいくつか挟まれますが、そこは村人やらトロルたちが、ペールが言うところの“ブタが短パンはくような”下手なダンスを踊っている、という演技をしているだけで、振り付けの主眼とは言えません。ダンス作品としての見どころは、多くの出演者がいっせいに舞台に登場してせわしなく動き回る「群舞」のシーン。

 この舞台、幕を下ろさず、最初から最後まで観客が見ている前で出演者たちによって舞台装置の配置転換が行われますのですが、そこの動きが小野寺修二さんらしさの塊。一見乱雑かつ適当な印象を与えながら、時計仕掛けのように精密にものを運んでいたり、動線がきわどく交差したり、かと思うとわざとぶつかって謝ったり。

 病院や砂漠や酒場や十字路のシーンなど、たとえ主役がセリフを叫んでいても、とりあえず目は群舞の動きをじっくり追ってしまいます。わらわらと人が動いて、統制された混乱が作り出される様を。

 個人的に面白いと思ったのは、自動車が舞台上を走り回る(実際には周囲の出演者たちが押したり引いたりしている)シーンで、けっこう複雑かつ劇的な動きをごく自然にスムーズに実現していて、かっこいいと思いました。

 もう少し小野寺さんが振り付けた群舞のシーンが多ければいいのに、と個人的には思いますが、そこは演劇作品としてのバランスというものでしょう。


振付: 小野寺修二
構成・演出: 白井晃
原作: ヘンリック・イプセン
翻訳・上演台本: 谷賢一
音楽・演奏: スガダイロー、東保光、服部マサツグ

出演:
内博貴、藤井美菜、加藤和樹、前田美波里、堀部圭亮、橋本淳、三上市朗、河内大和、小山萌子、桑原裕子、辰巳智秋、瑛蓮、宮菜穂子、皆本麻帆、荒木健太朗、青山郁代、益山寛司、高木健、チョウヨンホ、間瀬奈都美、大胡愛恵、薬丸翔、石森愛望


タグ:小野寺修二
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇

『ゼンデギ』(グレッグ・イーガン、山岸真:翻訳) [読書(SF)]

--------
「わたしたちは新しい種類の世界への入口にいるんです」
ハルーンはいった。
「そしてわたしたちには、その世界をきわめてすばらしいものにするチャンスがある。けれど、自分たちがいまこの時に立っている場所を忘れて、前方に待つ驚異を見つめることにばかり明け暮れていたら、わたしたちはつまずいて、顔を地面にぶつけることになるでしょう、何度も何度も」
--------
Kindle版No.241

 民主革命後のイランを舞台に、脳神経マップベースの仮想人格ソフトを開発している研究者と、自分の死後も幼い息子を導いてやりたいと願う父親が、前人未到のテクノロジーに挑む。これまでイーガンSFでごく当然のように使われてきた意識や人格の「アップロード」技術に向かう開発過程の一部を可能な限りリアルに描いた近未来SF。文庫版(早川書房)出版は2015年6月、Kindle版配信は2015年6月です。


--------
 それでもやはり、脳はナシムを引き寄せる。千羽の死んだ錦花鳥のスナップショットからなるぼやけたジグソーパズルを、その歌の物真似ができるなにかに変えるのは、なんとも異様な仕事だが、ナシムはそれがいずれなにかの役に立つという希望をいだきつづけなくてはならなかった。
--------
Kindle版No.932


 コンピュータのメモリ上にあるソフトウェアで構築された鳥の脳神経シミュレーション。それを本物と同じようにさえずらせようとするだけで、途方もない苦労と研究資金が必要でした。

 亡命イラン人科学者のナシムは、脳機能の一部(いずれは全部)を仮想空間上に再現するという研究を進めていたものの、資金援助を打ち切られたことで挫折。おりしも故国で民主革命が成功したことから、母親と共にイランへ帰国することになります。

 一方、そのイラン革命を取材していたオーストラリア人ジャーナリストのマーティンは、民主化後のイランに帰化してそこで結婚します。ところが、妻は交通事故で死亡。マーティンは幼い一人息子を抱えて途方に暮れることに。しかも悪いことに、事故後の検査により、自分が癌を患っており余命いくばくもないということを知らされるのです。

 その頃ナシムは、オンラインゲーム用プラットフォームである〈ゼンデギ〉(人生)という仮想現実エンジンを開発した会社で働いていました。ゲーム内の仮想空間に配置するNPCの人格に出来る限りのリアリティを与えるべく、人間の脳神経回路をシミュレートすることでパーソナリティの一部を再現するプロジェクトに精力的に取り組むナシム。

 このプロジェクトから生まれたのが、仮想人格エンジン〈ファリバ〉でした。まだゲーム用のソフトに過ぎませんが、それは確かに、はるかな未来技術へとつながる期待を抱かせるものでした。


--------
 だが、〈ファリバ〉には意識があるのだろうか――彼女を作るのを手伝った女性たちが、数秒間、ひとつの単語のことを考えるとか、同じ絵を探すとかいう単純な課題に完全に没頭してわれを忘れているときでも意識があるのと、同じ程度には?
 ナシムにはわからなかった。ナシムの研究は、もはやそうした考察が想像外なほどかけ離れてはいない領域へと入りこみつつあった。これからは一歩一歩に注意しつつ進む必要がある。
--------
Kindle版No.4268


 ナシムのもとにやってきたマーティンは、驚くべき依頼をすることに。


--------
「〈ゼンデギ〉の中で生きて、息子の成長を助けられるぼくのプロキシを作ってください」
--------
Kindle版No.4423

--------
ナシムはマーティンに、彼の依頼は不可能だといった――だが、ほんとうにそうなのか? マーティンが想像していたよりはるかに困難なのは確かだが、それは不可能と同じことではない。
--------
Kindle版No.4498


 特定個人の人格や個性のごく一部をソフトウェアで再現しようとする「プロキシ」技術は、まだまだ未熟なものでした。しかし、マーティンには残された時間がありません。ナシムは決断を下します。〈ゼンデギ〉のなかで息子と接しているときのマーティンの脳をスキャンし、その限定された状況における彼のパーソナリティを再現するプロキシ(仮想人格ソフト)に、可能な限りの精度と再現性を与えてやろうと。

 はたして、残された時間でプロジェクトは完成するのか。プロキシは人間の代替となり得るのか。そして、それは、自意識を持つのか。前人未到のフロンティアへと、二人は突き進んでゆきます。


--------
 果たして、息子と〈ゼンデギ〉で一時間をすごすときにマーティンがするだろうふるまいに近いものを、プロキシは再現できるだろうか――ジャヴィードの質問のすべてに答え、ジャヴィードのジョークのすべてを理解し、ジャヴィードの恐怖のすべてを克服してやる――それでいてなお、自分が何者かを正確には知らない、あるいは気にしないでいることが、できるだろうか?
 ナシムは最善を尽くしてきたが、自分が成功と失敗のどちらに転ぶことになるかを確実に知るには、プロキシに面とむかって尋ねる以外に方法はなかった。
--------
Kindle版No.5614


 一読してすぐにお分かりの通り、イーガン長篇にしては、現実からの飛躍が少ない話となっています。そもそも登場人物がすべて古典物理学的に実在しているというだけでも安心感が。

 SFガジェットとして安直に使われることの多い「意識や人格のアップロード」について、実現するとしたらどのような経緯で開発されることになるのか。途中段階では何を目標にするのか、長期に渡る研究開発費はどうやって確保するのか、社会からの反応は、など真剣に考えた上で書かれています。

 地に足ついた開発物語なので、いわゆる「シンギュラリティ」などと浮かれ騒ぐ「サイバー終末論者」たちについては、非常に辛辣な書かれ方をしているのも読み所。


--------
“単なる技術的問題”など大したことではないふりをしてタイムテーブルを前倒しにするような彼らの傾向は、知性を蝕むものなのだ。
(中略)
そうした自己改善するサイバー精霊が生命を帯びる可能性が、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のモンスター・マニュアルに登場する生き物の場合より少しでも大きいという証拠を、ナシムはまったく目にしなかった。
--------
Kindle版No.1436、2963

-------
ぼくは、自分がアップロードされる前に、超知性に誕生してほしくないんだ。この恒星系でぼくが最初の超越的存在になることは、ぼくにとってとても重要だ。リソースに飢えたほかの存在と競合する危険はおかせない。
--------
Kindle版No.2338

--------
世界観すべてが最低最悪のサイエンス・フィクションで形成された人に話を通じさせる手段なんて、あるのだろうか? 
--------
Kindle版No.4526


 実をいうと、主題となっている脳神経マップベースのプロキシ(仮想人格ソフト)についてさえ、決して手放しで肯定されることはありません。遠い未来を見据えながらも、あくまで現実から軸足を外さない、手堅い作品です。

 というわけで、多くのイーガン長篇でごく当然のこととして扱われていた「アップロード」技術の開発について、現在の技術や経済状況から地続きのものとして描いてみせた異色の近未来SFです。飛躍が控えめなので、SFに馴染みのない読者でも大丈夫だと思います。本書を読んでから、例えば『順列都市』を読めば、すんなり入っていけるのではないでしょうか。


タグ:イーガン
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ: