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『ソラリス』(スタニスワフ・レム、沼野充義:翻訳) [読書(SF)]

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「それで、結局、これはいったい何なんだ?」と、私は辛抱強く彼の話を聞き通してたずねた。
「われわれが望んでいたもの、つまり異文明とのコンタクトさ。いまやまさにそのコンタクトを体験しているんだ! その結果、まるで顕微鏡で見るように拡大されてしまったんだ、おれたち自身の怪物のような醜さ、おれたちの馬鹿さかげん、破廉恥さが」
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Kindle版No.1608

 二重連星を周回する謎めいた惑星ソラリス。その表面を覆っている、生きて思考しているらしい原形質の「海」。度重なるコンタクトの試みはすべて頓挫し、その活動の意味も目的も分からない。理解できない異質な知性を前に、人類がほこる科学や理性はまったくの無力だった……。

 原語からの完全翻訳として蘇った、SF史上に名高いコンタクトテーマの古典的名作。単行本(国書刊行会)出版は2004年9月、文庫版(早川書房)出版は2015年4月、Kindle版配信は2015年5月です。


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コンタクトというのは、何らかの経験や概念の交換、そうでなければ少なくとも何らかの成果とか立場の交換を意味する。でも、もしも交換すべきものが何もなかったとしたら?
(中略)
ソラリスと地球の間をつなぐ橋は存在していないし、存在し得ないからだ。これは、共通の経験が欠けていること、伝達可能な概念が欠けていることなどと同様にあまりにも明らかだが、ソラリス学者たちはそれを認めようとはしない。
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Kindle版No.3274、3902


 人類が根本的に理解できない異質な知性である「ソラリスの海」とのコンタクトを扱った長篇です。

 時間と労力をかけさえすれば、理性の力によって、私たちは宇宙のすべてを理解できるようになるはずだ、という素朴な楽観主義が粉々に打ち砕かれます。百年に及ぶソラリス研究は、科学と理性の限界をあらわにしただけでした。

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それまで──膨大な広がりにも関わらず──澄んだ世界であったソラリス学が、錯綜した、袋小路だらけの迷路と化していったのだった。全面的な無関心、停滞と意気阻喪といった雰囲気の中で、もう一つの海──つまり、印刷された不毛な紙の海──が現れ、時間の流れの中でソラリスの海に付き添っているように見えた。
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Kindle版No.3815

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 次第に科学者たちの間では「ソラリス問題」と言えば、「徒労に終わった問題」の意味を帯びるようになってきた。
(中略)
 しかし、多くの人たちにとって、特に若手にとって、この「問題」は次第に、自分自身の価値の試金石のようなものになっていった。「本質的には、ここで賭けられているのは、ソラリス文明の究明以上のことだ。われわれ自身のこと、人間の認識の限界が問題になっているのだから」と、彼らは言った。
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Kindle版No.491、496


 そう、まさに、ソラリスの海より、人間の認識の限界こそが問題なのでした。

 ソラリスステーションに赴任してきた心理学者ケルヴィンは、死んだはずの恋人であるハリーが、物理実体として出現するという怪奇現象に遭遇します。ケルヴィンの脳から読み取った情報をもとに海が創り出したハリーとの会話、人間くさい愛憎劇。何とも皮肉なことに、それこそが待望の「コンタクト」だったのです。


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「やつは、おれたちの中に一番はっきり描かれているもの、一番奥に隠されているもの、一番完全で一番深く刻み込まれているものを取り出したんだ、わかるかね? でも、だからと言って、それがおれたち人間にとって何なのか、どんな意味を持っているのか、知っているはずだということにはまったくならない」
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Kindle版No.4401


 ようやくコンタクトが成立したというのに、相手についてまったく何も理解できないまま(たぶん「海」にとっても同様)、鏡にうつった自分自身とひたすら会話しているだけ。その不毛さこそが、人間の本性をあらわにしてゆきます。


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われわれは宇宙を征服したいわけでは全然なく、ただ、宇宙の果てまで地球を押し広げたいだけなんだ。
(中略)
人間は人間以外の誰も求めてはいないんだ。われわれは他の世界なんて必要としていない。われわれに必要なのは、鏡なんだ。他の世界なんて、どうしたらいいのかわからない。
(中略)
人間は他の世界、他の文明と出会うために出かけて行ったくせに、自分自身のことも完全には知らないのだ。自分の裏道も、袋小路も、井戸も、封鎖された暗い扉も。
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Kindle版No.1593、1598、3548


 人間は、人間にしか興味がない、しかも人間のこともろくに知らない、という身も蓋もないペシミスティックな結論へと向かってゆきます。宇宙のすべては理性によって理解できるし、人類はそうするであろう、という社会主義的ユートピアから何と遠い地点に到達したことか。

 しかし、それでもソラリスを無視して忘れ去ることが出来ないのも人間の本性。これからも永遠に、理解不可能なものに立ち向かっては何度も挫折を繰り返すことになるだろう、そういったほのめかしとともに、この驚異と寓意に満ちた物語は幕を閉じるのでした。


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もはや人間たちは知らん顔を決め込んでいるわけには決していくまい。どれほどくまなく銀河系を踏破したところで、人間に似た生物が築いた別の文明とどれほどコンタクトを取ろうとも、ソラリスは人間に投げつけられた永遠の挑戦であり続けるだろう。
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Kindle版No.3891

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私はこの上まだどんな期待の成就、どんな嘲笑、どんな苦しみを待ち受けていたのだろうか? 何もわからなかった。それでも、残酷な奇跡の時代が過ぎ去ったわけではないという信念を、私は揺るぎなく持ち続けていたのだ。
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Kindle版No.4670


 というわけで、未読の方にはぜひ一読をお勧めしたいコンタクトテーマSFの金字塔といってよい名作です。また飯田規和さんによる旧訳に親しんでいた方にも、新訳版を改めてお勧めするだけの理由があります。


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飯田訳がおそらく1962年にソ連で出たロシア語訳を底本とした重訳であるため、ポーランド語の原語の表現から微妙にずれている箇所が多いだけでなく、検閲によって削除された部分がかなりある
(中略)
このハヤカワ文庫版は、ポーランド語からの直接訳であることはもちろんだが、飯田訳に残っていた脱落箇所もすべて新たに訳出してある。そういった脱落(ないし削除)箇所は、(中略)全部合わせると私の概算で400字詰め原稿用紙40枚分近くになる。全体で550枚ほどの長篇にとってこれは量的にも決して無視できない数字だが、それだけでなく、いずれもこの作品の豊かなイメージと思想的視野の広さを感じさせる重要な箇所であるため、それがあるとないとでは読後感もかなり変わるのではないかと思う。
(中略)
日本語としてはやや読みづらいかもしれないが、原文の段落の分け方から(非常に長い段落がしばしば出てくる)、句読法や記号の表記まで(かなり特別な感嘆符や疑問符の使い方や、「……」の位置も含めて)ほぼ原文通りとしてある。
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Kindle版No.4696、4710、5054


 さらに付録として、『ソラリス』についてこれまでに書かれてきた様々な評論を紹介してくれます。


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この作品の魅力は一筋縄では語れない。一読してわかるとおり、いくつもの層が複雑に絡み合って作品の全体を織り成しているというか、それぞれの層が鏡のように主人公を──そして読者を──映し出しているといった絶妙の構造になっているため、この小説は比較的単純な物語のようで、じつはソラリスの海そのもののように変幻自在、見るものの視点によって大きく姿を変えるのである。
(中略)
『ソラリス』はレムの代表作であるだけでなく、このように複雑な構造を持った作品であるため、その構造を読み解こうとした批評や論文も少なくない。
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Kindle版No.4723、4734


 紹介される評論の概要を眺めただけでも、その量と多様さが想像され、思わずたじろいでしまいます。あらゆる評論家が『ソラリス』の読みについて一家言もっているような勢い。『ソラリス』という小説が作中に登場するソラリスの海と同じように鏡の迷宮になっているだけでなく、『ソラリス』評論という分野が作中のソラリス学と同じように錯綜した紙の海となっているという。すごいな。

 個人的には、レム自身による映画版(タルコフスキー版、ソダーバーグ版)に対する辛辣な評価が読めたのが嬉しかった。


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映画化する権利はもう譲った後だったから、いまさら何を言ってもタルコフスキーの姿勢を変えられる可能性はなかったんです。それで喧嘩別れになり、最後に私は彼に「あんたは馬鹿だ」とロシア語で言って、モスクワを発った。三週間の議論の後にね。その後彼が作ったのは、結局、なんだか、その、あんな映画だったわけです。
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Kindle版No.4903


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ソダーバーグはどうやら私の本から、ソラリスのヴィジョンに関わるものをすべて切り捨ててしまったようだが、じつはそれこそが私にとっては非常に大事なものだったのである。
(中略)
これはSFに関するアメリカ流の思考のステレオタイプに媚を売ったということだろう。この種の紋切り型の溝は深くがっちりと固められていて、そこからはなかなか抜け出せないものらしい。
(中略)
批評家たちは、海によって作られたヒロインの女性が最後に怨霊か魔女か女吸血鬼と化して主人公をむさぼり喰い、彼女のはらわたから蛆虫やその他のおぞましいものがぞろぞろ這い出してくるのを期待していたのではないか。
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Kindle版No.5022、5030、5034


 余談ですが、今、ソラリスまわりで最も気になっているのは、勅使川原三郎さんが振り付けたオペラ版『ソラリス』です。勅使川原さんがギバリャン、佐東利穂子さんがハリーを踊る。それだけでも凄いのに、スナウトを踊るのはパリ・オペラ座バレエのニコラ・ル=リッシュ。日本でも上演してほしい。



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