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『ゼンデギ』(グレッグ・イーガン、山岸真:翻訳) [読書(SF)]

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「わたしたちは新しい種類の世界への入口にいるんです」
ハルーンはいった。
「そしてわたしたちには、その世界をきわめてすばらしいものにするチャンスがある。けれど、自分たちがいまこの時に立っている場所を忘れて、前方に待つ驚異を見つめることにばかり明け暮れていたら、わたしたちはつまずいて、顔を地面にぶつけることになるでしょう、何度も何度も」
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Kindle版No.241

 民主革命後のイランを舞台に、脳神経マップベースの仮想人格ソフトを開発している研究者と、自分の死後も幼い息子を導いてやりたいと願う父親が、前人未到のテクノロジーに挑む。これまでイーガンSFでごく当然のように使われてきた意識や人格の「アップロード」技術に向かう開発過程の一部を可能な限りリアルに描いた近未来SF。文庫版(早川書房)出版は2015年6月、Kindle版配信は2015年6月です。


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 それでもやはり、脳はナシムを引き寄せる。千羽の死んだ錦花鳥のスナップショットからなるぼやけたジグソーパズルを、その歌の物真似ができるなにかに変えるのは、なんとも異様な仕事だが、ナシムはそれがいずれなにかの役に立つという希望をいだきつづけなくてはならなかった。
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Kindle版No.932


 コンピュータのメモリ上にあるソフトウェアで構築された鳥の脳神経シミュレーション。それを本物と同じようにさえずらせようとするだけで、途方もない苦労と研究資金が必要でした。

 亡命イラン人科学者のナシムは、脳機能の一部(いずれは全部)を仮想空間上に再現するという研究を進めていたものの、資金援助を打ち切られたことで挫折。おりしも故国で民主革命が成功したことから、母親と共にイランへ帰国することになります。

 一方、そのイラン革命を取材していたオーストラリア人ジャーナリストのマーティンは、民主化後のイランに帰化してそこで結婚します。ところが、妻は交通事故で死亡。マーティンは幼い一人息子を抱えて途方に暮れることに。しかも悪いことに、事故後の検査により、自分が癌を患っており余命いくばくもないということを知らされるのです。

 その頃ナシムは、オンラインゲーム用プラットフォームである〈ゼンデギ〉(人生)という仮想現実エンジンを開発した会社で働いていました。ゲーム内の仮想空間に配置するNPCの人格に出来る限りのリアリティを与えるべく、人間の脳神経回路をシミュレートすることでパーソナリティの一部を再現するプロジェクトに精力的に取り組むナシム。

 このプロジェクトから生まれたのが、仮想人格エンジン〈ファリバ〉でした。まだゲーム用のソフトに過ぎませんが、それは確かに、はるかな未来技術へとつながる期待を抱かせるものでした。


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 だが、〈ファリバ〉には意識があるのだろうか――彼女を作るのを手伝った女性たちが、数秒間、ひとつの単語のことを考えるとか、同じ絵を探すとかいう単純な課題に完全に没頭してわれを忘れているときでも意識があるのと、同じ程度には?
 ナシムにはわからなかった。ナシムの研究は、もはやそうした考察が想像外なほどかけ離れてはいない領域へと入りこみつつあった。これからは一歩一歩に注意しつつ進む必要がある。
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Kindle版No.4268


 ナシムのもとにやってきたマーティンは、驚くべき依頼をすることに。


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「〈ゼンデギ〉の中で生きて、息子の成長を助けられるぼくのプロキシを作ってください」
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Kindle版No.4423

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ナシムはマーティンに、彼の依頼は不可能だといった――だが、ほんとうにそうなのか? マーティンが想像していたよりはるかに困難なのは確かだが、それは不可能と同じことではない。
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Kindle版No.4498


 特定個人の人格や個性のごく一部をソフトウェアで再現しようとする「プロキシ」技術は、まだまだ未熟なものでした。しかし、マーティンには残された時間がありません。ナシムは決断を下します。〈ゼンデギ〉のなかで息子と接しているときのマーティンの脳をスキャンし、その限定された状況における彼のパーソナリティを再現するプロキシ(仮想人格ソフト)に、可能な限りの精度と再現性を与えてやろうと。

 はたして、残された時間でプロジェクトは完成するのか。プロキシは人間の代替となり得るのか。そして、それは、自意識を持つのか。前人未到のフロンティアへと、二人は突き進んでゆきます。


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 果たして、息子と〈ゼンデギ〉で一時間をすごすときにマーティンがするだろうふるまいに近いものを、プロキシは再現できるだろうか――ジャヴィードの質問のすべてに答え、ジャヴィードのジョークのすべてを理解し、ジャヴィードの恐怖のすべてを克服してやる――それでいてなお、自分が何者かを正確には知らない、あるいは気にしないでいることが、できるだろうか?
 ナシムは最善を尽くしてきたが、自分が成功と失敗のどちらに転ぶことになるかを確実に知るには、プロキシに面とむかって尋ねる以外に方法はなかった。
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Kindle版No.5614


 一読してすぐにお分かりの通り、イーガン長篇にしては、現実からの飛躍が少ない話となっています。そもそも登場人物がすべて古典物理学的に実在しているというだけでも安心感が。

 SFガジェットとして安直に使われることの多い「意識や人格のアップロード」について、実現するとしたらどのような経緯で開発されることになるのか。途中段階では何を目標にするのか、長期に渡る研究開発費はどうやって確保するのか、社会からの反応は、など真剣に考えた上で書かれています。

 地に足ついた開発物語なので、いわゆる「シンギュラリティ」などと浮かれ騒ぐ「サイバー終末論者」たちについては、非常に辛辣な書かれ方をしているのも読み所。


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“単なる技術的問題”など大したことではないふりをしてタイムテーブルを前倒しにするような彼らの傾向は、知性を蝕むものなのだ。
(中略)
そうした自己改善するサイバー精霊が生命を帯びる可能性が、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のモンスター・マニュアルに登場する生き物の場合より少しでも大きいという証拠を、ナシムはまったく目にしなかった。
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Kindle版No.1436、2963

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ぼくは、自分がアップロードされる前に、超知性に誕生してほしくないんだ。この恒星系でぼくが最初の超越的存在になることは、ぼくにとってとても重要だ。リソースに飢えたほかの存在と競合する危険はおかせない。
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Kindle版No.2338

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世界観すべてが最低最悪のサイエンス・フィクションで形成された人に話を通じさせる手段なんて、あるのだろうか? 
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Kindle版No.4526


 実をいうと、主題となっている脳神経マップベースのプロキシ(仮想人格ソフト)についてさえ、決して手放しで肯定されることはありません。遠い未来を見据えながらも、あくまで現実から軸足を外さない、手堅い作品です。

 というわけで、多くのイーガン長篇でごく当然のこととして扱われていた「アップロード」技術の開発について、現在の技術や経済状況から地続きのものとして描いてみせた異色の近未来SFです。飛躍が控えめなので、SFに馴染みのない読者でも大丈夫だと思います。本書を読んでから、例えば『順列都市』を読めば、すんなり入っていけるのではないでしょうか。


タグ:イーガン
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