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『てんたまおや知らズどっぺるげんげる』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「もしも今芥川が芥川賞とって見ろだ。「売れない龍之介に芥川賞これで純文学に意味なし」って言われるんだ。「仲間だな芥川は」・・・・・・そう、才能体重の多寡にかかわらず、追い詰められた人が見るものそれはどっぺるげんげる」(Kindle版No.2570)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第73回。

 キラー芥川が、どっぺるげんげるが、妖怪大戦争だよ文士の森。純文学論争から生まれた驚愕のメタ純文学。笙野頼子さんの連作短篇集の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(講談社)出版は2000年04月、電子書籍版の出版は2013年04月です。

 笙野頼子さんのいわゆる純文学論争については、『ドン・キホーテの「論争」』および『徹底抗戦! 文士の森』という二冊の本にまとめられているので、詳しくはそちらを参照して下さい。

 「なんだよそれじゃ、私は「冥王星人にあってその子供を妊娠してその子供が文学は駄目だ第二次大戦はなかったあれは壬申の乱だっただから私達は被害者で純文学はインチキよ、とか言い始めたので、もう世界の終わりが来ると思って山奥に隠れてて今度は雪男と夫婦になって、地球の空洞に入ったらそこはジュラ紀で、自分の前世は金星の極楽鳥だと判ったのでこの壺を十億円で買って下さい」って言い歩いている気の毒な人なのか」(Kindle版No.277)

 本書はこの論争を元にして生まれた小説集。『タイムスリップ・コンビナート』や『二百回忌』でお馴染みの沢野千本が主演する四本の連作短編を収録しています。

 純文学などという売れないものに意味はない、というありがち言説に対するカウンターとして撃ちこまれた、純文学を書いたメタ純文学作品です。しかも、解説から批判まで作品中で自己言及してしまうという、この周到さ、そして辛辣さ。

 「つまりこういうくだくだしい訳の判らぬ記述というものはですねえ、人間の内面体感の生々しさや思考の流れの奔放さというものを自在かつ正直に記述するという文学的アクロバットへの試みというわけで」(Kindle版No.190)

 「もしもこの判り難さを忌避した場合はですねえ、例えばまるで日記のように癖がなく万人一律の無味乾燥な出来上がりとなった文章や、またそこにさらに大政翼賛系の安易な偏見を盛り込んだマスコミ物語等、本作掲載誌「群像」読者の方々を筆頭とするマニアな受け手には読むに耐えない作品になってしまう場合が起きるというわけです」(Kindle版No.197)

 「つまり本作には作者の分身と作者本人のキャラクターが入れ代わってしまう事で分身の分身性についてより一層のリアリティを持たせたいという文学的意図があって、それ故このようにしたという事なのです」(Kindle版No.2060)

 こんな感じで、随所に「難儀な純文学現場事情」(Kindle版No.12)への皮肉と当てこすりを仕込みながら、階層が異なる複数視点をまぜこぜにしたり、一つの語りのなかに様々に異質な声を、ときに飛び跳ねる狂騒的な文章で、ときにオノマトペの鳴り物入りで、同時多発的に響きわたらせたり、といった、後の作品でより大規模に使われることになる手法が、既に大胆に駆使されていることに驚愕させられます。

 そういう意味では、論争のまとめ小説というより、それを糧として後の展開に向けて着々と準備している作品、という印象を受けます。

 「せいぜい「鋭敏な弱い存在」を演じてみてね。どうせ無理だけどさ。そしてそれをあんたのような、小物がやるしかない事も含めて、時代の荒廃ってやつにどんどん追い詰められて行って欲しいんです」(Kindle版No.1919)

 「はっきり言っておくが笙野はもう潰れると思う。とうとう作品世界自体を小説以前の状態に戻してしまうような試みを始めたからだ。その上論争がもう論争小説のレベルをこえ小説を完全にのっとってしまった。これは虚構作家としてぎりぎりのところまで来てしまったという事ではないのだろうか」(Kindle版No.2032)

 「作者」の声や、沢野千本の声で、本作自体を批評するわけですが、こここそが後の『だいにっほん三部作』の原点たることを知っている今の読者にしてみれば、自負に満ちた予告とすら感じられるのです。

 余談ですが、「私は託宣するインチキ巫女になってた」(Kindle版No.1451)とか、「今はどっぺる見ないでいて猫見るけど、ドーラ送ったらまたどっぺるに戻るのかなあ」(Kindle版No.2502)とか、「今ゴミ置場に猫七匹も居付いとるんだ」(Kindle版No.2593)とか、後に書かれる作品への伏線(違うけどそうとしか思えない)があちこちに書かれていて、いちいち、どきっとしました。

[収録作品]

『てんたまおや知らズどっぺるげんげる』
『文士の森だよ、実況中継』
『ここ難解過ぎ軽く流してねブスの諍い女よ』
『リベンジ・オブ・ザ・キラー芥川』


タグ:笙野頼子
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『黒警』(月村了衛) [読書(ファンタジー・ミステリ・他)]

 「俺達は最初の黒社会になろう。本来の意味の黒社会。真の<黒>だ。(中略)俺はあんたの身許を誰にも明かさない。紹介もしない。仲間や手下にも。あんたは俺だけが知る、警察の中の『黒色分子』だ」(単行本p.138、141)

 鬱屈した警官、情にあついヤクザ、中国系犯罪組織の首領。互いに敵同士のはずの三人の男たちが手を結ぶ。だが、闘うべき相手はあまりにも強大だった。『機龍警察』シリーズの著者による新たな警察小説。単行本(朝日新聞出版)出版は、2013年09月です。

 「ただ組織に従順であれ----上からそう言われてそのままに生きてきた。反発する気骨など到底ない。上に媚び、下にもへつらい、横にはもっと気を遣う。可も不可もなくを理想とし、ただすべてを受け流す。それだけを心得として生き延びた。 警察官になった頃はこうではなかった」(単行本p.43)

 警察という巨大組織の現実に打ちのめされ、鬱屈した日々を送る警察官。妙に人情にあつい武闘派ヤクザ幹部。そんな二人の前に現れた中国系犯罪組織の若き首領は、二人と手を結びたいと申し出る。弱い者、女子供を食い物にする連中に、思い知らせてやる。ただそのために。

 「損得じゃない。信義だ」(単行本p.103)

 だが、中国の巨大犯罪組織、日本の警察、その両方を敵にまわして、彼らにどんな勝機があるというのだろうか。

 『機龍警察』シリーズで大人気の著者が放つ新たな警察小説です。

 地道な捜査を中心とした警察小説と、SFアニメを彷彿とさせる戦闘メカ(軍用パワードスーツ)を組み合わせるという、いわば変化球で人気を博した『機龍警察』シリーズ。では、そこから戦闘メカや、美貌の女テロリストといった、あそこら辺を切り捨ててみたら。

 それが本書です。『機龍警察 暗黒市場』からSFアニメ的要素をばっさり削ったような作品、といってよいでしょう。

 組織の論理や圧倒的な現実を前に、誇りも気概も失った日々を送りつつ、それでも心の底のどこかで何かがくすぶりつづけている、そんな警察官が主人公。それぞれの形で国に裏切られ、組織に裏切られた男たちが、許せない巨悪を前に、孤立無援の闘いに挑む。

 あり得ない設定、あり得ない展開を、するりと読者に受け入れさせてしまう筆力は健在です。

 「いかに自分が痛めつけられ、誇りを失っていたか、今さらのように思い知った。長年警察という組織にいる間、嫌な重さで押し込められ、知らず知らず、じくじくと腐っていったのだ。いや、腐っているという自覚はあったが、これほどのものだったとは。 散々に傷つけられ、打ちのめされた自尊心が、意外な形で泥の中から頭をもたげた」(単行本p.145)

 「こんな自分にも----自分だからこそ----やれることがある。誰にも知られず。知られることなくやってやる。これまでの長い長い無為の時間を取り戻すのだ。自分が生きてきたということに、少しはましな意味を与えてやるのだ。(中略)奇妙なことに、そして皮肉なことに、沢渡は任官以来、自分が初めて警察官になったような錯覚さえ感じていた」(単行本p.146、163)

 ベタだけど、やっぱ、ぐっときますね。この、熱血冒険小説のノリ。

 ノワール調で展開しつつも、随所にちょっとしたユーモアが仕掛けられていて、それが全体を明るいトーンにしています。派手なアクションはなく、銃弾の一つも飛びませんが、後半のサスペンスシーンやコンゲームの面白さには思わず引き込まれます。興奮します。

 というわけで、『機龍警察 暗黒市場』からSFアニメ的要素をばっさり取り除いてみても、やっぱり警察小説+熱血冒険小説として圧巻の面白さ。じゃあ、あのシリーズにSFなんてもともと必要なかったんじゃ・・・、という困った結論が出てしまいかねない痛快作です。


タグ:月村了衛
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『第2の秋』(勅使川原三郎、佐東利穂子) [ダンス]

 2013年09月07日(土)は、夫婦で東京芸術劇場プレイハウスに行って、勅使川原三郎さんの新作公演を鑑賞しました。勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんが、がっつり踊ってくれる60分の舞台です。

 演出に使われる大道具は垂れ幕一枚。それに映像が投影されます。

 例えば、舞台前方、観客の前に下ろされた半透明の垂れ幕に、東欧の暗い森の情景が投影されます。その向こう側で踊ると、まるで森の奥深くで踊っている妖精か天使(繰り返し投影される「光の輪」がそのイメージを強めます)を見ているような幻想的な雰囲気に。

 また下端が舞台奥に向かって巻き上げられると、垂れ幕は舞台を覆うU字型の天井となり、そこに秋の空が投影される。薄暗い舞台に差し込まれる照明が床に光のスリットを作り、あるいは(またもや)光の輪を作ると、がらんとした舞台が宗教的な空間に変貌を遂げます。

 こうして、垂れ幕、映像、照明、音楽だけで、さえざえと美しい幻想的空間を作り出してしまう演出の冴えは、もうさすがとしか言いようがなく。勅使川原さんの舞台演出を観るたびに、これは魔術だと、そう感じてしまうのです。

 肝心のダンスですが、勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんが、基本的に交代で舞台に登場して踊ります。拳法めいた流れるような動き、ぎくしゃくした痙攣のような動き、水中のような浮遊感のある動き、張りつめているような緊張感あふれる動き。様々な身体の動きを自在に組み合わせてゆく独創的なダンスは、こちらもやっぱり魔術めいています。思わず見入ってしまいます。

 公演時間の大半を使ってひたすら踊ってくれたので、大満足です。

[キャスト]

演出・振付: 勅使川原三郎
出演: 勅使川原三郎、佐東利穂子


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『日本の起源』(東島誠、與那覇潤) [読書(教養)]

 「起源をめぐる新しい知識を前提にしながら、しかし肝心なことは、そこから歴史像を組み直していく作業のほうだ。問題は時にループし、無数のバイパスを結節しながら、とめどなく話題は展開していった。そもはもう、目も眩まんばかりであったが、いまこうして読み直してみると、議論の基本線はきわめてすっきりと仕上がっているように思う」(単行本p.336)

 いったいどうしていっつもこういうことになっちゃうの、日本。歴史学の最新知見を駆使して、日本におけるもろもろの起源を探ってゆく知的昂奮に満ちた対話。単行本(太田出版)出版は、2013年09月です。

 二人の歴史学者が、古代から現代に至る日本史を徹底的にブラッシュアップ。私たちが生きている今と、遠い過去との意外なつながり(というか反復)が次々と明らかになってゆく様には、思わず息をのむような驚きと感動があります。

 「歴史研究者とは単に過ぎ去った時代を骨董品のように修復し、愛でていればよいという仕事ではありません。むしろ細くあえかにではあっても、今日のわれわれへと確かに続いている過去からの糸を織り直すことで、<現在>というものの絵柄自体を艶やかに変えてみせることにこそ、その本領がある」(単行本p.6)

 古代、中世、近世、近代、戦前、戦後、という六つの時代に分けて、対話により日本の歴史を再検証、あるいは再構築してゆきます。

 それぞれの時代を個別に扱うのではなく、例えば、権力の継承はどのように行われてきたのか、その二重構造はどう機能してきたのか、社会福祉はどうなっていたのか、空虚が中心となる不可解な社会規範はどこから来たのか、といったいくつかのテーマを想定して、その視点で歴史の流れを新たに読み解いてゆくのです。

 まず與那覇先生が自身の見解を述べつつ質問を出し、東島先生がそれに答えつつ新たな論点を提出する。そんな繰り返しで話はどんどん転がってゆきます。学識豊かなお二人のこと、対話には歴史学の最新の研究成果や議論が存分に盛り込まれ、話の展開とともに、これまで読者が通俗的に何となく理解してきた「日本史」が、まったく異なる様相を呈してくるようになります。

 まるで、ちょっと違う角度から眺めるだけで、それまで見えていた形とは大きく異なる別の図柄が立ちあらわれる、そんなトリックアートのようで、思わず、はっ、とさせられます。

 読み物としても退屈しないように工夫されています。特に、東島先生より一世代若い與那覇先生は、下手の役割を引き受けつつ、おちゃらけ一発面白ネタ出しなど一般読者への気配りも忘れないようこまめに配慮しており、その苦労人っぷりが印象的。

 「現代を説明する際に歴史からメタファーを持ってくるのは、安直なあてはめにも陥りがちな半面、意外に本質を射ていることもあるのですね」(単行本p.156)

 上手である東島先生は、まずはゆるやかに釘を刺します。

 「「いまも昔も一緒なんだ」みたいに、結果的に現状を免責する言説になりかねません。ですのでそこは注意が必要なのですが」(単行本p.157)

 「「ネット右翼」のそれと同列にしないほうがいいですね」(単行本p.162)

 「生活保護バッシングという今日的な問題については、歴史的起源を語るという構えをとりたくはないところなんですが」(単行本p.171)

などと抑えた上で、穏やかな語り口のまま、ものすげ辛辣な物言いをする。この呼吸が素晴らしい。さすが先達は違うものだと感心させられます。例えば。

 「「英霊たちの最後」みたいな二時間物のドキュメンタリー映画を、もしも愚直に撮るとすれば、73分までは餓死するシーンで、特攻隊のシーンは12.5秒という、コマーシャル未満の時間しか割り当てられないわけです」(単行本p.267)

 それにしても、個人的に、歴史の知識がないのが悔やまれました。通俗的な(高校の授業で教わるような)歴史理解がいかに古くさい、とうに捨てられた解釈であるか、といった解説が繰り返されるわけですが、そもそもよく知らないので満足に驚くことすら出来ません。悲しい。

 そういう意味では、歴史に詳しい読者の方がはるかに楽しめると思います。

 巻末には充実した注釈と索引がついており、対話で言及された論文や資料(一般向け書籍も多く含まれます)はすべて出典が詳しく記載されています。今の歴史学の概要をざっと学びたいという方は、本書を手引きにして、挙げられた資料を次々に読んでゆく、という勉強法がお勧めじゃないでしょうか。

 というわけで、私のように『中国化する日本』を読んで、専門の歴史学というものがいかに活力に満ちた魅力的な学問であるかを知って昂奮した方、歴史をみる視点をリフレッシュしたい方、大学などで本格的に日本史を学ぼうとしている方、今の日本の「なんかぐだぐだな感じ」が本当はどこに起源があるのか真面目に考えてみたい方、そして日本のあるべき明るい将来像が描けず悶々とした思いに悩んでいる方などに、強くお勧めします。

 「<現在>のもりあがりだけで日本の未来を大きく変えられるという、ここ数年来の夢は、「政権を変えれば変わる」「原発を止めれば変わる」あたりからすり減りはじめて、「憲法を変えれば変わる」くらいで打ち止めになりそうです。むしろ遠い過去から今日へと続く、細いながらも強靱な一本一本の糸のはじまりを見極め、その絡まり合いを解きほぐしてゆくことでしか、この社会の図柄は変わらない。だけどくじけることはないよ、それが有史以来、われわれの先人たちが繰り返してきたことなのだから----。 そんなメッセージを添えて、あの夏の片隅でひっそりと開かれていた歴史学の教室に、みなさんをご招待させていただきます」(単行本p.8)


タグ:與那覇潤
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『ねこじゃらしたち』(栗原知子) [読書(小説・詩)]

 「神様は/四階の赤ちゃんの積み木を参考にしていた/「ここでまさかの反復。破壊と放擲。/ドラスティックに気分を変えて、ほこりをつまみ食いか」」
 (『マンションを』より)

 思い出、赤ん坊、大震災、エルパソ。独自の視点で家族と生活を見つめた詩集。単行本(思潮社)出版は、2012年12月です。

 今に至るまでの人生を振り返りつつ、自分の子供に思いを寄せる、母視点の詩が印象的な詩集です。

 個人的に好みなのは、妊娠から出産までの体験を扱ったと思しき詩。

 「そこに線が見られたら 陽性なのだという/問題の一分間/八階からの眺めを/銀色の長いものが飛んでいった/コウノトリならぬ/あれはボバ・フェットだろうか/あほらしい事故で物語から消えた/クローンの男/もしくは葉巻型宇宙船だろうか/目を落とすとそこには/ぼんやりとしたしるしが出ている」
 (『カラー』より)

 「奥さんの頭はひどいな/ぼさぼさだな/ホルモンバランスだろうな産後の/いやむしろ 詩だろうな/詩であんなになるのかよ/そういう手合いもあるんだよ/おれらも 気をつけなきゃな/だな」
 (『ねこじゃらしたち』より)

 子供と詩と空想の区別がなくなっている感じが素敵。空想や夢の感覚は作者にとって強力な道具のようで、そういう作品が多数収録されています。東日本大震災後の心境を描いた詩はこんな感じ。

 「徹子は真面目な顔で聞いているけど/この話ばかりじゃ 視聴者が飽きはしないか/けれども他の何について話せばよいのだったか/思案する私の様子に徹子が席を立った//徹子の部屋の隣は/徹子の寝室だったらしい/そこで布団を上げてしまうと/もう一度こちらを覗いてから/今度は裁縫道具なんか抱えて/ぱたぱたと走り回っている/美しい 働きぶりである」
 (『徹子の部屋』より)

 「東北地方太平洋沖地震から十八日」という副題がついたこの作品では、震災とそれにまつわるもろもろがうまく言葉にならないもどかしさを、夢の情景として描いているようです。徹子の部屋の隣は徹子の寝室だった、というのがぐっときますね。

 他には、幼い頃の思い出を扱った作品が好きです。

 「大きい女の子が立ちはだかって/言った/あんた/保育園の子じゃないでしょう//あんた/保育園の子じゃないでしょう/地面が ごおんと鳴って/ぜんぶ真っ暗になって/それから 運動会が戻ってきた」
 (『運動会』より)

 「あおいちゃんは書いた/「一年生はうつくしい」/また みんな笑った/私も笑った/今でも笑ってる/「一年生はうつくしい」/笑いながら くしゃっとなってしまう/そのスピードを前に/山ほどの詩がかすんでいくもの」
 (『あおいちゃん』より)

 こういうこときちんと覚えてない人は、詩人にはなれないんだろうな。羨ましいけれど、とてつもなく疲れるんじゃないかしらん。私は、とうてい詩人にも母親にもなれないような気がします。


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