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『これからお祈りにいきます』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「サイガサマは、人間の体にとても興味があって、本気で何かを右から左へ動かす時は、願をかけた者の体の何かを取っていく。人間の体の一部から力を得て、その願いを叶えるという、ほとほと下等な神様なのだ。祈願する人は、どこを捧げるかは指定できないけれども、どこを取られたくないかは申し出られる」(Kindle版No.116)

 他人のために必死に祈る。自分にとって大切なものを犠牲にして、他人の幸福を願う。人生ではじめて真剣な「祈り」を体験する若者の姿を、瑞々しい筆致で描いた二篇。津村記久子さんの小説の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(角川書店)出版は2013年06月、Kindle版出版は2013年07月です。


『サイガサマのウィッカーマン』

 冬至の日になると、巨大なヒトガタの檻を作って、そこに身体の一部をかたどった供物を入れて燃やすという奇祭が行われている地方都市。そこに住んでいる高校生のシゲルは、そんな迷信じみた田舎くさい信仰や伝統行事を嫌っています。

 「サイガサマが、請願成就と交換に、人間の体の一部を持っていくという行為は、たましいを売らせるという悪魔的な契約とは異なる。サイガサマは、神様の中ではとても力が弱く、そうやってもらいものをしないと、力が発揮できないからなのだった。でも、手当たり次第に体の一部を持っていかれると、命がなくなってしまう場合もあるので、「基本これだけはやめてください」という意味で申告物を作り、年に一回それを捧げる」(Kindle版No.268)

 タイトルにある「ウィッカーマン」というのは、古代ドルイド教における「供犠・人身御供の一種で、巨大な人型の檻の中に犠牲に捧げる家畜や人間を閉じ込めたまま焼き殺す祭儀」(Wikipediaより)で使われる巨大なヒトガタの檻のこと。どっからどうなってこうなったのか、古代ドルイドの儀式が、何だか妙な形でこの町に伝わっていますよ。

 あからさまに邪教的というか、「それってけっこうな邪神じゃねえか」(Kindle版No.830)と思えるのですが、町の人々は、ごく自然にそんな土俗信仰を受け入れています。祟りを恐れて、というより、どこか軽んじているというか、神様の至らないところを微笑ましく思っているというか、そんな感じ。

 身体の一部を取らないと願いを叶えることができないということも、「サイガサマはできない子だから」(Kindle版No.826)で納得したり、「サイガサマは、物事をあんまりよくわかっていない様子なのだが、とにかくできる範囲でやってみよう、という意識のようなものを持っている」(Kindle版No.1711)、「最近は願い事の判別の精度が上がってきたんちゃう」(Kindle版No.1781)などと、どっちかっていうと、上から目線で温かく見守っている様子。

 いいのかそれで。

 家族のことも、町のことも、世の中のあれもこれも、何もかもウザい、と感じて、イラついている、そんな思春期まっさかり高校生、シゲル。もちろんサイガサマのことなど気にしてなかったのですが、次第に町の人々が、声高には言わないものの、自分の大切なものを犠牲にして、他人のために祈りを捧げているのだということに気づいてゆきます。どんなに神様として「できない子」でも、サイガサマはサイガサマなりに、人々の真摯な祈りに懸命に応えているらしい、ということも。

 やがて冬至の祭りの日がやってきて、その準備の手伝いに駆り出されたシゲルは、友人(「幼なじみの女の子」ですよ)のために、心から祈りを捧げようとします。それによってシゲルが得たもの、そして失ったものとは。

 奇妙な信仰のある町を舞台にした青春小説だと思って読んでいると、これが実は「回心」をテーマにした作品だということに気づきます。重苦しい不穏な感じとユーモラスな感じ、不可解さと感傷、それらが混じり合って奇妙な印象を残します。土俗信仰というものを、それで静かに救われている人々のことを、たくみに表現してのけた傑作だと思います。


『バイアブランカの地層と少女』

 「失恋のタイプとしては別種なのが、なんだか救いがないような気がした。どちらもそれぞれに辛いのだ。どちらかがましだったら、まだそちらのほうに特化するという人生の指針も持てたであろうものの」(Kindle版No.2111)

 容貌は悪くないのに、どうもフラれてばかりの大学生が主人公。心配性で、地震のこと、テロのこと、ミサイルのこと、年金のこと、いつも何だかクヨクヨしつつ、「どうしてもトランクスの中にシャツを入れると落ち着く作朗だった」(Kindle版No.2079)。

 トランクスの中にシャツを入れるとモテない問題について相談すると、「なんやろ、あえてハンカチ持たんかったらえんちゃうの、そしたらシャツの裾で手拭くやろしさ」(Kindle版No.2086)と素敵に的外れな助言をしてくれる友人。「そういう隙を求めてる女の人はけっこうおるし、心配せんでもたぶんもててるよ」(Kindle版No.2357)と冷静に評してくる女子中学生。

 そんなあるとき、作朗はひょんなことからブエノスアイレスに住んでいる一人の女の子とメル友になります。互いに片言の英語でメールをやりとりしているうちに、次第に彼女のことが気になってくる作朗。といっても相手は地球の裏側にいる言葉もろくに通じない相手。さあどうする。

 やがて彼女には恋人がいることが分かり、その彼が怪我をしたというメールを受け取った作朗。突然、地球の裏側にいる彼女に自分は何もしてやれない、という悔しさに打ちのめされたそのとき、やるべきことが閃く。祈ろう、心からその男の無事を祈ろう。

 「祈り」という行為を通じて成長する若者の姿を描いた、全編これユーモラスで、最後までくすくす笑わせつつ、ラスト近くに待っている、不器用で滑稽でみっともない、でも真摯に祈りを捧げるシーンに、不覚にも感動してしまう作品。登場人物たちも魅力的で、個人的には『サイガサマのウィッカーマン』よりもこちらの方が好みです。

 「自分が幸せだと感じたのは、その夜で何年ぶりだっただろうか。いや、下宿で豚汁に好きなだけごまをふりかけている時などはだいたいそう思っているのだが、そういう自力で何とかできることではなく、誰かから幸せだと思わせてもらえること。恩寵のようなこと」(Kindle版No.2669)


[収録作品]

『サイガサマのウィッカーマン』
『バイアブランカの地層と少女』


タグ:津村記久子
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