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『小さいおうち』(中島京子) [読書(小説・詩)]

 「あのとき、陸子さんは、何を言おうとしていたのだろう。 陸子さんには、何がわかっていたのだろう。 わたしの中の東京は、いつまで経っても明るく楽しげだった」(Kindle版No.3444)

 中島京子さんの長篇小説の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(文藝春秋)出版は2010年05月、文庫版出版は2012年12月、電子書籍版出版は2013年03月です。

 一人のお婆さんが、若かりし頃の思い出を語ります。ときは昭和十年代、田舎から出てきた彼女は、東京郊外にある「小さいおうち」で、女中として働いていたのでした。

 「わたしには一軒だけ、ここがわたしの終の棲家と思い定めた家があった。人様の家の、あてがわれた小さな部屋一つを、終の棲家と思い込むのもおかしなものだし、図々しい話とも聞こえるだろうけれども、それが昭和十年に建った平井様のお邸だ」(Kindle版No.260)

 「昭和十年、十一年ごろといえば、わたしには思い出深い、懐かしい、平和な情景しか浮かばない。 平井家はいつも和やかで、ご夫婦仲もよく、ぼっちゃんも旦那様によくなついていた」(Kindle版No.528)

 こうして、平和でのどかな、そして街には活気あふれていた時代を背景に、美しく楽しい思い出が語られてゆきます。

 読者はちょっと困惑するのですが、やがて親戚の若者が登場して、読者の懸念を代弁する形でお婆さんの思い出にケチをつけてゆきます。

 「おばあちゃんは間違っている、昭和十年がそんなにウキウキしているわけがない」(Kindle版No.474)

 「だって、おばあちゃん、そのころ日本は戦争してたんでしょ(中略)、過去を美化しちゃだめだよ」(Kindle版No.477、552)

 「前から言ってるけど、こういうものは、嘘書いたって仕方がないんだから、正直に書きなよ。(中略)おばあちゃんの話には、戦争のことが何一つ出てこないじゃない」(Kindle版No.2266、3491)

といった具合です。しかしお婆さんは意に介しません。

 「なんにも知らないくせに、四倍も五倍も生きてる人間をつかまえて意見するとは、いい気なものである。きっと昭和十二年といえば、 盧溝橋事件のあった年なのだから、それが華やかだなんて嘘だとか、そういう、とんちきなことを言いたいのだろう」(Kindle版No.690)

 こんな具合に読者の懸念はさらりと相対化され、「安心」してお婆さんが語る物語に没入できるというわけです。確かに、後世からどう見られようと、当時を生きた人々は、戦争のことなど別段気にかけずに、日々ささいなことに一喜一憂しながら、それなりに楽しく陽気に生活していたに違いないのです。今の私たちだって・・・。

 そして物語は、様々なエピソードを交えながら、平井家の奥様にまつわる秘められた恋愛事件へと展開してゆきます。薄々そのことに気づき、動揺する女中。やがて平井家にもいさかいが起こりがちになり、次第に何もかもが暗転してゆきます。それまでの夢のように無邪気な生活がゆっくりと引き裂かれてゆく様には、こう、胸がつまる思いがします。

 「わたしのような者などは、その先に悪いことが起こるなんて、思ってもみなかった。 そればかりではなくて、その後にしても、まあ、ちょいと景気が悪くなったな、くらいな気持ちでいたような気がする」(Kindle版No.1249)

 「「南の島の人が踊りを踊って歓迎してるとかさ。歓迎なんかされるわけないだろう! ニッポンの兵隊は強いなあとかさ。なんだよ、それは。能天気すぎる」 そう言われても、あのころはみんなそう思っていたんのだから、しかたがない」(Kindle版No.2719)

 戦争に押しつぶされた暗い時代という単純なイメージとは異なる、当時のリアルな生活実感。それに反発する若者。物語の外に置かれた対立軸とともに、物語の中では、恋人のもとへ走ろうとする奥様を見かねた女中が、ある重大な決断を下す、というメロドラマ的クライマックスを迎えます。

 戦局は悪化の一途を辿り、彼女は「終の棲家」と定めたはずの小さいおうちを離れ、里帰りすることに。もう今や夢幻のように思われる東京での暮らし。そこにあった、本当にささやかな、かけがえのない小さな幸福。だがその頃、東京には大空襲が・・・。

 ここまでの展開でも存分に泣けるのですが、本作がその真の力を発揮するのは最終章です。お婆さんは自分の物語を最後まで書き終えることなく亡くなってしまい、遺品として手記を受け取ったあの若者が、書かれている人物たちのその後の運命を追跡調査する、という形で進みます。

 やがてタイトルの本当の意味が示され、手記に隠されていた秘密が明らかになったとき、大いなる感動が渦を巻いて読者の心になだれ込んでくることに。

 というわけで、戦前を舞台としたメロドラマとしてもよく出来ているし、あの時代の(主に東京の)世相をリアルに描いた小説としても素晴らしいと思います。二人の語り手の視点をアクロバティックに操ったり、いわゆる「信頼できない語り手」のテクニックを巧みに用いたりする、その語りの巧妙さにも舌を巻きます。余韻の残し方も含めて、実に見事だと思います。

 「イノセンスが、傷つけられずに「聖なるもの/守られたもの」として描かれるのは、唯一、『小さいおうち』の丸囲みの中の人物たちだけなのです。(中略)『小さいおうち』の丸囲みの絵の中に、彼が生涯守り続けたかったものが描かれたと考えるのは、少しセンチメンタルにすぎるでしょうか」(Kindle版No.4131)


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