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『スパイ・爆撃・監視カメラ  人が人を信じないということ』(永井良和) [読書(教養)]

 「人が人を信じないということ」は、歴史的にどのように発展してきたのか。戦前の共産党の地下活動、無差別爆撃、対ゲリラ戦、テロ対策、ゲーテッドコミュニティ、そして監視カメラなどセキュリティ機器の普及を、一つの大きな流れとしてとらえ、「他者に対する不信」の歴史をつむぎ出してみせた労作。単行本(河出書房新社)出版は2011年2月です。

 「歴史をひとつの課題が貫いている。他者に対する拭い去りがたい疑惑。その疑いの気持ちに対して、私たちがどう向き合うかという課題である。本書では、他者への不信が科学技術と結びついてどのような装置に仕立てられてきたのかを追いかけてゆく。また、他者を信じない心性を前提に、いかなる社会的制度が設けられてきたのかについても考えたい」(単行本p.12)

 他者に対する不信をテーマとして、20世紀から今日までの歴史を見直す刺激的な一冊です。

 まずは戦前の日本における共産党弾圧と地下活動、中国における共産党幹部の転向とそれに対する家族皆殺しの報復、といった陰惨な事件を通じて、スパイと諜報戦における裏切りの世界を見てゆきます。

 「共産党の特科と国民党の中統。ふたつの組織が対峙したことで、たがいに相手の情報を盗みあい、嘘の情報を流しあう状況が生まれた。買収、裏切り、二重スパイ、処刑といった言葉が上海を覆っていく。都市に暮らす人びとは、たがいに信をおくことができなくなった。裏切りが裏切りを呼び、殺人が殺人を招く」(単行本p.60)

 「当時、共産党とかかわった者は、国民党による逮捕を恐れて生きねばならなかったのみならず、いったん裏切れば、あるいは裏切りの疑惑をもたれるだけで、共産党特務による処刑をも恐れなければならなかった。裏切っていないことを証明するのは困難であり、人びとをパニックに陥れた」(単行本p.86)

 中国における国共暗闘と白色テロの時代。他者が信じられない、他者から信じられない、という社会状況がどのような事態を招いたのか。読んでいて気が滅入りますが、これでもまだまだ導入部。

 「外国人を疑わしいとみなす構えは、いっそう強まった。国どうしが敵対すると、それぞれの国からたがいの国民を引き揚げさせることになる。収容所や居住区に隔離する仕組みもできた。敵とまみえるのは戦場でのことであって、生活者あるいは隣人として顔を合わせる機会はなくなった。話をして、理解することもなくなる。「やつら」との距離は大きくひろがり、ステレオタイプで描かれる抽象的な存在になった」(単行本p.102)

 という段階を経て、高高度からの戦略爆撃、無差別殺戮の時代がやってきます。

 「戦場で生まれた疑いは、そこに無辜の人びとがいるかもしれない、という方向で行動を抑制しなかった。疑いは、そこに悪をなすものが潜んでいる。だから、すべてを焼き尽くしてよい、という方向で行動を促した」(単行本p.134)

 しかし、それでもなお「第二次世界大戦での米兵の発砲率は15パーセントから20パーセントにとどまることが判明した」(単行本p.147)とのことで、空爆と違って目の前にいる人間に向かって銃を撃つことはそれほどまでに困難なものなのです。しかし人類はたゆまず嫌な努力を続けました。

 「朝鮮戦争までには、新しい訓練法が採用され、発砲率は55パーセントに上昇する。発展著しい心理学の理論が応用されたからである。さらにベトナム戦争では、発砲率を90パーセントから95パーセントにまで高めることに成功した。(中略)脱観作、条件づけ、否認防衛機制のみっつが組みこまれた訓練を修了すれば、至近距離からでも人間を撃てる兵士が誕生する」(単行本p.147、p.149)

 心理学が役に立たない学問だなんて誰が言いましたか。

 そして21世紀の戦争はこんな感じになりました。

 「「目にした人間が実際には何も持っていなくても、特に敵対行為や敵対意思を示さずに走っていたとしても、例えば、この建物からあの建物に向かって走ったり、道を横切って走ったり、たとえ諸君から逃げようとして走っていたとしても、その人間が諸君に対して何か画策しているとみなし、殺せ。その人間が白旗を掲げていても、何も不審な様子は見せず、ただゆっくりと近づいて来て、こちらの命令に従っていたとしても、それは罠だとみなし、殺せ」 ファッルージャで、僕たちはその交戦規則に従いました」(単行本p.168)

 ブルカを着用している者は武器を隠し持っている、妊娠した女は本当は爆弾を抱えている、子供たちはこちらを油断させる罠である、ためらわず撃て。これがファッルージャにおける米軍の交戦規則でした。

 が、実際には民間警備会社の従業員、つまり民間傭兵たちはそのような「厳しい」交戦規則にとらわれず、誰でも自由に撃つことができました。また彼らが反撃された場合は、相手は「米国の民間人を殺したテロリスト」と報道されます。これが21世紀が誇る「戦争の民営化」の成果でした。

 そろそろ嫌な気分になってきたでしょうか。さらに本書では次のことが指摘されます。

 すなわち、監視カメラ、敷地を塀で囲いゲートを通らないと入れないようにした大規模マンション、IDカード、生体認証。私たちが熱心に求めている「安心安全」や「セキュリティ」も、これまで見てきた血なまぐさい事象の数々と同じ心性にもとづいており、従って副作用も同じであるということ。

 「監視カメラの増殖や、セキュリティの優先といった世の中の流れは、人間が他者と共存する可能性を閉ざしたり、削いだりする。(中略)判断力を失った人、育てられなかった人には、接触を事前に回避し、他者を排除するという方向しか残されない。けれども、それは社会性の喪失に向かうことでもある」(単行本p.212)

 子供の安全を守る。セキュリティ重視。この美しい理念が、スパイの密告合戦、無差別大規模空爆、兵士の非人間化プロセス、といったものと表裏一体であること、「他者を信じない心根」を前提とした社会がどうなるかという実験の一つであること。そういった、あまり考えたくないことが真正面から指摘されます。

 ではどうすればいいのか。不信の連鎖を断ち切ることなど出来るのでしょうか。本書にはそのためのヒントがいくつも含まれています。ですが、正直に言って、それまでの「不信の歴史」が圧倒的な迫力なので、いささか心もとない気持ちになることも確かです。

 というわけで、セキュリティ問題についてその技術ではなく社会や心理に対する影響に興味がある方、異文化の共存について考えたい方、昨今どうにも目にあまる外国人に対する不寛容さや排外的言説について危機感を持っている方、などにお勧めします。


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