SSブログ

『我的日本語 The World in Japanese』(リービ英雄) [読書(随筆)]

 英語を母語としながらあえて日本語で書き続けている作家、ユダヤ系アメリカ人のリービ英雄さんが、自分と日本語との関わり、そして日本語について、驚くほど深い洞察を示してくれる鮮烈な日本語論。単行本(筑摩書房)出版は2010年10月です。

 日本語について論じた本などいくらでもあります。しかし、本書ほど、広く、深く、鋭く、知的で、そして切実な日本語論を読んだのは初めて。1ページ1ページ、1行1行が、日本語を母語とし日本語で思考する者の胸を打ち、心を震わせ、思考を刺激するのです。

 「日本語を書く緊張感とは、文字の流入過程、つまり日本語の文字の歴史に否応なしに参加せざるを得なくなる、ということなのだ。誰でも、日本語を一行書いた瞬間に、そこに投げ込まれる。それは、中国人もアメリカ人もフランス人も、意識せずに済む緊張感だ」(単行本p.20)

 日本語の歴史を、その文字の来歴を、背負って書く。なぜそうまでして日本語で書かなければならないのでしょうか。この国では、それは決して歓迎されないことだというのに。

 「自分の体験を日本語で表現するとなると、今では考えられないぐらい、周囲からの拒絶反応があった。ましてや「小説を書く」ということは、ありえないと思われたのだ」(単行本p.30)

 ガイジンが日本語で文学を書くのは、合理的に考えれば歓迎すべきことなのに、実際ほかの国であれば喜ばれる行為なのに、なぜか強い反発を覚える日本人。それはなぜでしょうか。

 「英語は中心であり普遍である。日本語は周辺であり特殊である。そうした根強い構図が、今もある。その構図が大前提になっている」(単行本p.30)

 「二十世紀のさまざまなナショナリズムの中で、日本語だけが目立って、言葉そのものを民族アイデンティティにしようとした」(単行本p.116)

 「日本語の言霊は、よそ者は同化できない日本民族独自のものであるという信仰」(単行本p.117)

 つまり「日本語は(本物の日本語、言霊がこめられた日本語は)日本民族にしか書けない」という信仰が民族アイデンティティになっている。だからガイジンが日本文学に参入することに反発するというわけです。

 さらに著者の前に立ちはだかる「日本語では日本のことしか書けない(書くべきでない)」という信仰。

 「長い間、多くの日本人がほとんど無意識のうちに、日本語は日本しか書けない、世界のことを書くなら英語だという区別を持っていた」(単行本p.175)

 この二つの信仰に挑戦するかのように、著者はあえて日本語で世界を書いてきました。

 「島国ではない大陸、しかもヨーロッパではなく、アメリカか中国を書けるかどうかで、むしろ日本語の力が試されると、ぼくは自分の体験を振り返りつつ、思うことがある」(単行本p.137)

 なぜ日本語で書くのか、なにを日本語で書くのか。万葉集の英訳、越境文学、中国大陸、911テロ。著者自身の様々な作品を題材に、日本語を深く深く掘り下げてゆきます。自伝であるとともに、日本語の歴史を再考する一冊でもあります。

 例えば、万葉集の英訳を通じて、もともと万葉集にある「バイリンガル・エクサイトメント」とでもいうべきものを見つけたこと。奈良時代に、大陸の感性を、漢文ではなくあえて和文で書いたことの意義を、こう説明します。

 「元の言語と翻訳する言語とのズレ、その境界に立って興奮し、言葉が非常に際立っている。ある通常ではないエネルギーがそこから発散されているのが分かる。憶良の高揚感が、千三百年経っても伝わってくる。(中略)多和田葉子が初めてではなく、奈良時代にすでに憶良がやっていた。バイリンガル的な面白みが、日本文学の出発点に、すでにあった」(単行本p.66)

 あるいは、自著『千々にくだけて』をとりあげて、なぜ911テロを芭蕉の句により表現する必然性があったのかを、こう解説します。

 「短歌や俳句は遊び道具ではない。短歌、俳句の中に、二十一世紀の暴力に対峙できるような表現のエネルギーが、潜在的にある。芭蕉ほどの表現者によって書かれた言葉が、三百年経って、芭蕉と同時代の読者たちが考えもしなかったような事件に対峙することができた」(単行本p.173)

 「『千々にくだけて』においても、本格的に日本語と日本以外の世界史的な事件がぶつかり、ぶつかることによって、新たな日本語が生まれた。日本語によってこのようなこともできるという信念を持って、ぼくは、この作品を書いた」(単行本p.176)

 あるいはまた、中国のことを英語で書けば優れたジャーナリズムになるが、それではこぼれ落ちてしまう大切なもの、「これはノンフィクションにはなりえない。どうしても、文学、しかも日本文学でしか書けない」(単行本p.134)ものがある。だから中国大陸のことをあえて日本語で書く。

 読み進むにつれて、日本語がまるで未知の言語であるのに気付いたような新鮮な驚きを何度も味わうことになります。日本語についての私たちの思い込みを洗い流してくれる優れた日本語論。いま「英語でも中国語でもなく、日本語で書く」ということに世界中に通じる普遍的な意義があるのか、それを考える上で必読の一冊です。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ: