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『最後の吐息』(星野智幸) [読書(小説・詩)]

 星野智幸さんの著作を順番に読んでゆくシリーズ“星野智幸を読む!”。その第2回として、第34回文藝賞を受賞したデビュー作を読んでみました。単行本(河出書房新社)出版は1998年1月、私が読んだ文庫版(河出書房新社)は2005年11月に出版されています。

 「まだ読んだこともない作家が死んだ」という印象的な一文で始まる『最後の吐息』。メキシコにいる語り手は、新聞でその作家の訃報を読んで、ハチドリ、ブーゲンビリアの花、タラベラ焼きの陶器、何でもいいから自分以外のものになりたいと願います。

 「そうすると、いま味わっているような、自分が架空の人物であるような気分は、跡形もなく消えて、輪郭のくっきりした世界に生きられるだろう」(文庫版p.10)

 しかし、ハチドリやブーゲンビリアになることは出来ないので、その代わりに彼は自分の恋人にあてた手紙として小説を書き始めます。メキシコを舞台とし、蜜を吸うハチドリ、咲き乱れるブーゲンビリアの花、タラベラ焼きの陶器が出てくる小説を。

 鮮やかな色彩、むせかえるような濃厚な芳香、焼けつくような日差し、中指の甘皮をなめた味。五感を執拗に刺激して陶酔感に酔わせるような作中作が、こうしてはじまります。

 個々の情景はリアルで官能的ですが、なぜか主人公が反政府ゲリラの英雄に祭り上げられてしまったりと、全体的には極めて非現実的に展開してゆきます。いかにもラテンアメリカ文学っぽい。

 途中で語り手は、読者である恋人から激しい批判をあびます。

 「二人が交わったように見えるのは、書かれた文字だからで、最後にその役得にすがるなんて、何のためにこれまでの手紙は書かれてしまい、読まれてしまったのでしょう」(文庫版p.87)

 そこで作中作のラストは取り消され、途中から書き直されることになります。他の作家の真似ではなく、自分の作品として完成させるために。

 なぜ自分は小説を書くのか。どのような小説を自分は書くのか。それを小説として追求するという、しかも作中で批判と修正までやるという、いかにも真っ直ぐで、いろいろな意味で若さあふれる作品。これでデビューするというのは、そのあまりの正しさに、むしろ苦笑してしまいそうです。

 書き下ろし作品『紅茶時代』は、いきなりポットに吸い込まれて濃厚な紅茶のなかを泳ぐというシーンから始まって、想像力の限りを尽くして、超現実的な情景を次々とつなげてみせた作品。『最後の吐息』と違って余裕があるというか、妙なユーモア感もあり、個人的にはこちらの方が好みです。

[収録作]

『最後の吐息』
『紅茶時代』


タグ:星野智幸
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