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『ゆるく考えよう  人生を100倍ラクにする思考法』(ちきりん) [読書(教養)]

 鋭い切り口と親しみやすい文章で社会のあり方や私たちの生き方に知的なツッコミを入れる大人気ブログ「Chikirinの日記」の書き手、“おちゃらけ社会派”とか“混乱Lover”を標榜する、ちきりんさんが本を出しました。単行本(イースト・プレス)出版は、2011年2月(奥付表記)。

 私がはじめて「Chikirinの日記」について知ったのは、「古田雄介の“顔の見えるインターネット”」の第69回「「新聞は1日3時間」社会派ブロガー・ちきりん氏の少女時代」という記事を読んだときでした。

    古田雄介の“顔の見えるインターネット”
    第69回「「新聞は1日3時間」社会派ブロガー・ちきりん氏の少女時代」
    http://ascii.jp/elem/000/000/512/512099/

    Chikirinの日記
    http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/

 普段あまり「社会時評ブログ」みたいなものは読まないのですが、前述の記事に登場する「ちきりん」さんがとても興味深い方だったので、それでは、とばかりに「Chikirinの日記」をちらちら読んでみて、その魅力にすっかりハマってしまいました。

 とにかく面白いし、痛快ですよ。個人的には、必ずしも賛成できる見解ばかりではありませんが(というか話を分かりやすくするための「単純化」が強烈すぎて、ついてゆけないことがあるのですが)、それでも行間から強く感じ取れる「主体的に生きよう」というメッセージには共感を覚えます。いいなあ、と思う。

 というわけで本書は、「Chikirinの日記」から厳選されたエントリを元に、ぐりぐり加筆修正を加えた上に新作コラムを振りかけた一品。生き方、仕事、お金、国家、市場、コミュニケーションなど様々なテーマについて、楽観的に考えよう、自分本位に生きよう、世間の常識とやらに惑わされないようにしよう、という観点から様々に語ります。

 思わず、はっ、とさせられる視点や、しみじみ納得させられる主張も多く、その文章も含めて読んでいてとても楽しい。ブログの愛読者も改めて読む価値がありますよ。初めての方は、まずは前述の「Chikirinの日記」の人気エントリをいくつか拾い読みして、好みにあうようなら購入してみてはいかがでしょうか。

 「そんじゃーね」という定番の決めゼリフが最後の最後に出るのは嬉しかったなあ。


タグ:ちきりん
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『検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定』(ASIOS、奥菜秀次、水野俊平) [読書(オカルト)]

 ASIOS (Association for Skeptical Investigation of Supernatural : 超常現象の懐疑的調査のための会)が、『謎解き 超常現象』シリーズに続いて世に放つ最新作。今度は陰謀論の謎解きだ! 単行本(文芸社)出版は2011 年1月。

 地球温暖化否定論、ホロコースト否定論、911テロ自作自演説、アポロ月着陸捏造説、ダイアナ妃謀殺説、フリーメイソン陰謀論など、誰もがどこかで聞いたことのある定番。

 ケムトレイル、HAARP地震兵器説、MKウルトラ(CIAマインドコントロール実験)、チャレンジャー号爆破謀略、エシュロン脅威論、M資金など、映画や漫画や小説でネタに使われることが多い人気(?)陰謀論。

 そして、集団ストーカー被害、SARS生物兵器説、孝明天皇暗殺説、下山事件、さらにはロッキード事件謀略からブラジル勝ち組陰謀論まで。

 巷で、ネットで、よく話題にのぼる陰謀論を取り上げて、その真相を探る一冊です。『謎解き 超常現象』と同じく、個々の陰謀論について得意な著者が分担して執筆し、それぞれ「伝説」と「真相」に分けて解説してくれます。今回は、それに加えて「その陰謀論が真実である可能性」をパーセントで表示する、というのが特徴。

 ただし、ほとんどの項目が「0パーセント」という結論になっているし(そりゃ荒唐無稽ですから)、5パーセントと10パーセントの違いが定量的とも思えないし、なかには「0.000.....01パーセント」みたいなヤンチャもあるし、まあ、注目されるための「ウリ」が必要という判断でとってつけたものだと思って、あまりこだわらないほうがいいかも。

 ちなみに最高スコアは「CIAが世界に麻薬を蔓延させている:30パーセント」と「地球的通信傍受システム・エシュロンが私たちの生活を監視している:30パーセント」です。

 さて内容ですが、さすが、というべき面白さ。陰謀論が放つ怪しい魅力と、その正体をひっぺがす痛快さ、その両方を心ゆくまで楽しめます。ページ数が限られているため個々の論証や情報は不足気味ですが、さらに詳しく知りたい読者は各項目につけられた「参考資料」をチェックすればよいでしょう。

 個人的な収穫は、ブラジルの「勝ち組」について初めて知ってびっくりしたこと、「アポロが持ち帰った「月の石」はニセモノ」という某教授の馬鹿馬鹿しい発言について関係者に取材してきちんと調査する姿勢に感銘を受けたこと、そして噂の超兵器「HAARP(ハープ)」の実態について学んだこと、などです。

 巻末ではそれぞれの執筆者が陰謀論について語っています。かなり参考になるので、ぜひお読みください。この部分だけでもネットで公開するといいんじゃないでしょうか。

 陰謀論は、ハマると「陰謀論的思考回路」というべき悪しき習慣がついてしまい、分からないことや気に入らないことは全て陰謀で片づけてしまうとか、さらには意識しないうちに、民族差別主義者、排外主義者、歴史修正主義者、パラノイア、有害なクズ、不快なクズ、単なるクズ、などあまり望ましからぬ人物に育ってしまう恐れがあります。

 ですから陰謀論の流布はよろしくないのですが、かと言って規制するのは危険であるばかりか逆効果でしょう。本書のように陰謀論のウソを暴く本が読まれることで、他の陰謀論に対してもある程度の「免疫」が広まるとよいなあ、と思います。

 余談になりますが、長澤裕さんが

「“楽しい超常現象”の時代は終わってしまったのです。本来はそうした「夢のあるトンデモ」に流れるはずの人たちが、現代では陰謀論に流れ込んできているのではないか? と個人的には思っています。超常現象が“復活”しないかぎり、今後も陰謀論は廃れることはないでしょう」(単行本p.339)

と語っておられるのが印象的でした。そーか、陰謀論を抑えるために必要なのは「超常現象の復活」なんですね。

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タグ:ASIOS
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『背信の科学者たち』(ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド) [読書(サイエンス)]

 盗用、改竄、捏造、データの恣意的選択、業績の横取り。それまであまり語られることのなかった科学者による不正行為の実態を明らかにし、科学者コミュニティが抱えている危うい体質について問題提起した古典的名著です。単行本(化学同人)出版は1988年、私が読んだブルーバックス新書版(講談社)は2006年11月に出版されています。

 科学は極めて厳密で客観的な学問であり、事実以外のなにものにも束縛されず、ときに間違いはあるにしてもそれは速やかに検証され正され、たゆむことなく真理へと近づいている、という、素朴な科学観。科学者や学生を含めて多くの人々が信じているこのような素朴な科学観は、実際のところ、どれほど正しいのでしょうか。

 いわゆる「サイエンス・ウォーズ」の主戦場においては、前述の素朴な科学観が認識論の観点から批判を浴びているわけですが、そんな哲学的な「高尚」な議論よりも何よりもまず、実験、追試、査読、ピアレビュー、開かれた議論、といった科学的方法は現場で本当に機能しているのだろうか、という疑問を突きつけたのが本書です。

 まずは歴史から。

 ガリレオ(力学)の「実験」は誰にも再現できないものだった、ニュートン(万有引力)はデータを捏造していた、ドルトン(原子論)もデータを都合よく捏造することで原子の存在を「発見」した、メンデル(遺伝学)の実験結果はあまりに正確すぎて信用できない、ミリカン(電子)は都合の悪いデータを意図的に隠した。

 いきなりの連打にたじろぎます。ロバート・ミリカンのケースは特に劇的で、同時期のライバルであったエーレンハフトが全ての実験データを公平に発表した(そのせいで「電荷の最小単位」が存在することを示すことが出来なかった)のに対し、ミリカンは都合のよい結果だけを選んで公表することで、電子の存在を「発見」した。

 そして、「この戦いはミリカンにとっては、ノーベル賞(中略)受賞で終止符を打ち、エーレンハフトにとっては幻滅と失意のどん底に陥って終わった」(新書p.56)という結果に。

 こうして見ると、偉大な科学者は後知恵で「結果として正しかった」がゆえに尊敬されるのであって、科学者として人間として倫理的に正しかったからではない、という身も蓋もない洞察が得られます。

 続いて詳しく紹介されるのは、何一つ自分で研究することなく大量の論文を盗用するだけで地位と名声を得たケース、指導教官の期待に応えるために実験結果を捏造したケース、権威のパワーによって捏造論文がまかり通ったケース、理論を信じたいと思うあまり無意識に対象に影響を与えていたケース、大学院生の研究成果を横取りした指導教官のケース、政治的圧力により批判がもみ消されたケース、社会的偏見に迎合した不正確な研究成果がもてはやされたケース、企業からの研究助成金により結果が誘導されたケース、などなど。

 実際、本書に掲載されているのは最終的に不正が発覚したケースだけなので、発覚しないままに終わったケースが限りなく存在することはおそらく間違いないでしょう。

 真に憂慮すべきは不正行為そのものではなく、追試や論文査読制度がこれらの不正を見つけるのに役立たなかったこと、不正が告発されたとき科学者たちはそれを「個人的なトラブル」と見なし軽視してきたこと、横行する数々の不正行為を知りながらも「素朴な科学観」への信仰を捨てず外部からの批判に対して耳を傾けないこと、といったポイントかも知れません。科学者の社会には、重大な欠陥があるのです。

 本書を読了する頃には、素朴な科学観はぐらぐら揺れ動いて崩れそうになっているはずです。しかし、それは科学にとって健全なことでしょう。

 「より厳しく現実を見つめることは、一般の人びとにも科学者のためにも健全なものになるだろう。(中略)欺瞞の現象は科学における人間的側面の重要性を強調しており、(中略)真理に仕える者による自然の探求という理想化されたものでもなく、希望やプライド、欲望といった通常の人間の感情や、さらには科学者の特性だと讃えられている様々な美徳によって支配されている人間的な過程である」(新書p.312)

 これだけの欠陥を抱えた「人間的」な組織と活動であるにも関わらず、それでもなお科学がなし遂げてきた数々の偉業を思えば、むしろ科学に対する信頼はより深まるのではないか、と思えてなりません。自分たちと同じ人間の仕業にしては、なかなかのものじゃないか、と。

 というわけで、科学者の方々にはもちろん、これから研究生活に入ろうとしている学生も必読の一冊です。名著として知られているそうなので、改めて言うまでもないのでしょうが。

 ちなみにブルーバックス新書版では、巻末に30ページ近くの「解説」が付いており、原著が出版された1983年以降に発覚した主な不正事件(ES細胞捏造事件や旧石器発掘捏造事件など有名どころも)、発生率などの調査結果、科学界における対策など、様々な情報をまとめてあります。必読です。


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『なぜ科学を語ってすれ違うのか  ソーカル事件を超えて』(ジェームズ・ロバート・ブラウン) [読書(サイエンス)]

 「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれる科学哲学をめぐる大論争を俯瞰するとともに、対立をこえて健全な科学を推進するにはどうすればいいのかを論じた一冊。単行本(みすず書房)出版は2010年11月です。

 はたして科学は、本当に(ときに誤りを犯しつつも、自己修正を繰り返すことで)「客観的に実在する真理」の「完全な理解」に向かって「着実に」進んでいるのでしょうか。それとも各時代における社会的な圧力のもとで合意されたパラダイムが変遷しているに過ぎないのでしょうか。あるいは、科学は政治からどれほど独立しているのでしょうか。逆に科学は政治に対してどれほどの責任をおっているのでしょうか。

 科学哲学における実在論と社会構成主義の対立は、社会に対する科学の影響力が極めて大きくなっている現在、単に好奇心を刺激する哲学論議といって済ませるわけにはいかないものになっています。

 例えば、地球温暖化を緩和するためにCO2排出を減らすべきである、人種間には知能の違いがあるので扱いを別にすることこそが社会的平等である、医療費を削減するために肥満人口を減らすべきである、といった社会的影響が大きい主張について考えるときには、いずれにせよ科学者コミュニティ、科学的方法(サイエンスメソッド)、さらには科学そのものをどこまで信頼するか、という議論を避けて通ることが出来ないからです。

 ソーカル事件(科学者アラン・ソーカル教授が、一流のポストモダニズム批評誌にもっともらしいデタラメ論文を投稿して見事に掲載され、ポストモダン主義の言説は「たわごと」と区別がつかない、ということを「証明」してみせた悪ふざけ事件)以降、論戦は感情的にエスカレートし、過激な言葉が飛び交う「サイエンス・ウォーズ」へと展開してゆきました。

 本書は、この派手な対立のせいで建設的な議論が進まないことに対する危機感を背景に、まず論点を整理して、対立構造の解消を試みるものです。基本的には実在論の立場に立脚しつつも、社会構成主義の主張のいくつかを有益なものとしてとり入れ、その上で科学と社会の関係がどうあるべきかを論じてゆきます。

 全体的な構成は、まずサイエンス・ウォーズを概観し、実在論の立場を確認した上で、それに対する批判としてまずはクーン、続いて社会構成主義の様々なグループの主張を見てゆきます。

 続いて議論を整理するためにいくつかの概念について深く考察し、その意味するところを可能な限り明瞭化します。そして重要な論点について解説してゆき、得られた知見を科学に活かすためにどうすればいいかを論じます。

 個人的には、科学に関するポストモダン思想やら社会構成主義やらの主張は、科学について無知な輩による無意味な「たわごと」というわけでもないのだ、ということを理解できたのが収穫でした。何を今さら、とお叱りを受けるかも知れませんが、研究の現場にいる科学者は、誰もが内心そう思っているんじゃないでしょうか。

 本書を読んで、素朴な科学観(科学は極めて厳密で客観的な学問であり、事実以外のなにものにも束縛されず、ときに間違いはあるにしてもそれは速やかに検証され正され、たゆむことなく真理へと近づいている)は必ずしも正しいとは言えず、科学の健全な発展にとってむしろ有害だったり、下手をすると社会的抑圧に加担する(少なくとも濫用される)原因となるのだ、ということを知ることが大切だと思います。

 内容それ自体が難しいのですらすらと理解するわけにはゆきませんが、文章や論旨は明確で、認識論の議論を扱った哲学書としては読みやすい本だといってよいでしょう。

 クーン以降の科学哲学論争について知りたい方、素朴な科学観にどうもうさん臭さというか傲慢さ(ある種の抑圧構造)を感じるもののそれがどうしてなのか分からなかった方、『知の欺瞞』とか読んでポストモダニズムはただのクズだと結論した方、そしてこれから研究者人生を始めようとしている理系大学生の方、などに基礎教養本としてお勧めします。


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『コンピュータ VS プロ棋士  名人に勝つ日はいつか』(岡嶋裕史) [読書(サイエンス)]

 2010年10月11日。将棋ソフト「あから2010」と清水女流王将の対局が行われ、86手にて後手番の「あから2010」が勝利をおさめた。勝負の流れはどのように展開したのか。そのとき「あから2010」の内部ではどのようなアルゴリズムが働いていたのか。大盤解説の佐藤九段と藤井九段は各局面でどう評したのか。

 ソフトウェアがプロ棋士を打ち破った歴史的対局を、棋譜、ソフトのログ、会場の様子、そして技術的基礎知識まで含めて、包括的に分かりやすく解説してくれる一冊です。新書(PHP研究所)出版は2011年2月(奥付表記)。

 全体は7つの章に分かれています。

 最初の「第1章 渡辺竜王との夢の対局」では、2007年3月21日に行われた渡辺竜王と将棋ソフト「ボナンザ」の対局を振り返り、「ボナンザ」がどれほど革新的な将棋ソフトであったかを解説します。

 「将棋ソフトの思考回路は、半端なAIの研究者であれば裸足で逃げ出すような代物である。複雑で精微、繊細にして精密、極上の工芸品が持つ危ういまでのバランスの上で成り立っている」(新書p.21)

 「将棋ソフトの思考は、絶妙無比な阿吽の呼吸でぎりぎり成立しているのである。プログラマによっては、ルール構築に数年をかけることも珍しくない。もう、匠の世界である。一子相伝で次の世代につながっていくのかもしれない」(新書p.22)

 そして「ボナンザ」が竜王を追い詰めながらも終盤の読みあいに負けるまでの流れを、図と棋譜を駆使して解説します。

 「絶対の自信を持っていたはずの終盤で、読みの深さで負けた。ここにプログラミング技術の躍進と、未だなお厚い、人間の頂点の孤高の壁がある」(新書p.38)

 いきなり盛り上がります。そして再挑戦の物語へと続くのですが、その前に基礎知識のお勉強。その後の三年間に技術者たちが何をなし遂げたのかを大雑把にでも理解しておかないと、その歴史的意義が分かりませんから。

 「第2章 ディープブルーが勝利した日」ではチェスソフトの歴史を、「第3章 将棋ソフトが進歩してきた道」では、探索木の絞り込み技術や局面評価アルゴリズムなど、将棋ソフトの基本を教えてくれます。

 そして「第4章 「手を読む」と「局面を評価する」は違う」および「第5章 局面をどう評価するか」では、将棋ソフトを強くすることの技術的困難さ、それを克服するために工夫されてきた技法、すなわち全幅探索、ミニマックス戦略、アルファベータカット、水平線効果の緩和、駒配置の点数化、棋譜を読み込ませることによる自動学習機能、など一歩踏み込んで詳しく解説してくれます。

 ここまでで準備は整いました。いよいよ本書のクライマックス、「第6章 清水市代女流王将 VS 「あから2010」」です。

 序盤いきなりの「あから2010」からの挑発手「後手3三角」から全棋譜が掲載され、勝負の流れを追います。盤面や展開の解説、控室での論議、観客の反応、後から解析された「あから2010」の思考と合議(あから2010は複数の将棋ソフトの合議制システムでした)の様子、などが多面的に描かれ、まるでその場に立ち会っているかのような興奮が高まってゆきます。

 「ここで、ネット中継で速報が表示される。米長が「じっと先手3一馬と入れるかどうかが勝敗を決める」とのコメントを出したのだ。清水はまもなく1分将棋に追い込まれる。会場の緊張は最高潮に達した」(新書p.162)

 「ここで会場がシンとなった。半信半疑であったプロ棋士の敗北が、心のどこかでそれはないだろうと思っていた投了の瞬間が、否応なく近づいている気配がホールを飽和させていた」(新書p.171)

 「「あから」が後手8五銀と受けた瞬間に、この日最大のため息の波がホールにこだました。清水からのすべての攻めの可能性を奪う、友達をなくす手」(新書p.172)

 いや、なくすような友達はいないだろう、というツッコミをする場面ではなく。そして全てが終わり、「会場は、ある時代が終わってしまったことを追悼するようなどこか静謐な空気と、新しい時代の始まりを予感して心踊らせるような清新な活気が渦を巻いて騒然となった」(新書p.173)

 清水女流の「コンピュータと指してもなんの感情も生まれないのでは、と考えていたが、それは間違いだった。一手一手に開発者の想いが込められていて、自分も熱くなれた」(新書p.174)という発言に、「技術側に足を置いている人間として、清水女流の懐の深さにどれだけ言葉を尽くしても表せないほどの感謝を覚えた」(新書p.176)著者。

 最後の「第7章 名人に勝つ日」では、対局を振り返りつつ「あから2010」が浮き彫りにした将棋ソフトの問題点、特にクラスタシステムの課題、人間を模倣する思考ルーチンの限界、などを示した上で、今後の開発の方向性について語ります。

 「将棋ソフトが名人に勝つXデーは、訪れるだろうか。予断は許さないが、その日が来ることは確実である。問題は来るか来ないかではなく、それが何年後か、である」(新書p.189)

 というわけで、将棋ソフトに興味がある方にとっては白熱の一冊。将棋にあまり詳しくない読者でも、盤面図を見ながら棋譜を追うことができれば充分に楽しめるでしょう。いずれ近いうちに本書の続編(というか完結編)、そしてさらに囲碁編が書かれることまで期待したいと思います。


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