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『背信の科学者たち』(ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド) [読書(サイエンス)]

 盗用、改竄、捏造、データの恣意的選択、業績の横取り。それまであまり語られることのなかった科学者による不正行為の実態を明らかにし、科学者コミュニティが抱えている危うい体質について問題提起した古典的名著です。単行本(化学同人)出版は1988年、私が読んだブルーバックス新書版(講談社)は2006年11月に出版されています。

 科学は極めて厳密で客観的な学問であり、事実以外のなにものにも束縛されず、ときに間違いはあるにしてもそれは速やかに検証され正され、たゆむことなく真理へと近づいている、という、素朴な科学観。科学者や学生を含めて多くの人々が信じているこのような素朴な科学観は、実際のところ、どれほど正しいのでしょうか。

 いわゆる「サイエンス・ウォーズ」の主戦場においては、前述の素朴な科学観が認識論の観点から批判を浴びているわけですが、そんな哲学的な「高尚」な議論よりも何よりもまず、実験、追試、査読、ピアレビュー、開かれた議論、といった科学的方法は現場で本当に機能しているのだろうか、という疑問を突きつけたのが本書です。

 まずは歴史から。

 ガリレオ(力学)の「実験」は誰にも再現できないものだった、ニュートン(万有引力)はデータを捏造していた、ドルトン(原子論)もデータを都合よく捏造することで原子の存在を「発見」した、メンデル(遺伝学)の実験結果はあまりに正確すぎて信用できない、ミリカン(電子)は都合の悪いデータを意図的に隠した。

 いきなりの連打にたじろぎます。ロバート・ミリカンのケースは特に劇的で、同時期のライバルであったエーレンハフトが全ての実験データを公平に発表した(そのせいで「電荷の最小単位」が存在することを示すことが出来なかった)のに対し、ミリカンは都合のよい結果だけを選んで公表することで、電子の存在を「発見」した。

 そして、「この戦いはミリカンにとっては、ノーベル賞(中略)受賞で終止符を打ち、エーレンハフトにとっては幻滅と失意のどん底に陥って終わった」(新書p.56)という結果に。

 こうして見ると、偉大な科学者は後知恵で「結果として正しかった」がゆえに尊敬されるのであって、科学者として人間として倫理的に正しかったからではない、という身も蓋もない洞察が得られます。

 続いて詳しく紹介されるのは、何一つ自分で研究することなく大量の論文を盗用するだけで地位と名声を得たケース、指導教官の期待に応えるために実験結果を捏造したケース、権威のパワーによって捏造論文がまかり通ったケース、理論を信じたいと思うあまり無意識に対象に影響を与えていたケース、大学院生の研究成果を横取りした指導教官のケース、政治的圧力により批判がもみ消されたケース、社会的偏見に迎合した不正確な研究成果がもてはやされたケース、企業からの研究助成金により結果が誘導されたケース、などなど。

 実際、本書に掲載されているのは最終的に不正が発覚したケースだけなので、発覚しないままに終わったケースが限りなく存在することはおそらく間違いないでしょう。

 真に憂慮すべきは不正行為そのものではなく、追試や論文査読制度がこれらの不正を見つけるのに役立たなかったこと、不正が告発されたとき科学者たちはそれを「個人的なトラブル」と見なし軽視してきたこと、横行する数々の不正行為を知りながらも「素朴な科学観」への信仰を捨てず外部からの批判に対して耳を傾けないこと、といったポイントかも知れません。科学者の社会には、重大な欠陥があるのです。

 本書を読了する頃には、素朴な科学観はぐらぐら揺れ動いて崩れそうになっているはずです。しかし、それは科学にとって健全なことでしょう。

 「より厳しく現実を見つめることは、一般の人びとにも科学者のためにも健全なものになるだろう。(中略)欺瞞の現象は科学における人間的側面の重要性を強調しており、(中略)真理に仕える者による自然の探求という理想化されたものでもなく、希望やプライド、欲望といった通常の人間の感情や、さらには科学者の特性だと讃えられている様々な美徳によって支配されている人間的な過程である」(新書p.312)

 これだけの欠陥を抱えた「人間的」な組織と活動であるにも関わらず、それでもなお科学がなし遂げてきた数々の偉業を思えば、むしろ科学に対する信頼はより深まるのではないか、と思えてなりません。自分たちと同じ人間の仕業にしては、なかなかのものじゃないか、と。

 というわけで、科学者の方々にはもちろん、これから研究生活に入ろうとしている学生も必読の一冊です。名著として知られているそうなので、改めて言うまでもないのでしょうが。

 ちなみにブルーバックス新書版では、巻末に30ページ近くの「解説」が付いており、原著が出版された1983年以降に発覚した主な不正事件(ES細胞捏造事件や旧石器発掘捏造事件など有名どころも)、発生率などの調査結果、科学界における対策など、様々な情報をまとめてあります。必読です。


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