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『コンピュータ VS プロ棋士  名人に勝つ日はいつか』(岡嶋裕史) [読書(サイエンス)]

 2010年10月11日。将棋ソフト「あから2010」と清水女流王将の対局が行われ、86手にて後手番の「あから2010」が勝利をおさめた。勝負の流れはどのように展開したのか。そのとき「あから2010」の内部ではどのようなアルゴリズムが働いていたのか。大盤解説の佐藤九段と藤井九段は各局面でどう評したのか。

 ソフトウェアがプロ棋士を打ち破った歴史的対局を、棋譜、ソフトのログ、会場の様子、そして技術的基礎知識まで含めて、包括的に分かりやすく解説してくれる一冊です。新書(PHP研究所)出版は2011年2月(奥付表記)。

 全体は7つの章に分かれています。

 最初の「第1章 渡辺竜王との夢の対局」では、2007年3月21日に行われた渡辺竜王と将棋ソフト「ボナンザ」の対局を振り返り、「ボナンザ」がどれほど革新的な将棋ソフトであったかを解説します。

 「将棋ソフトの思考回路は、半端なAIの研究者であれば裸足で逃げ出すような代物である。複雑で精微、繊細にして精密、極上の工芸品が持つ危ういまでのバランスの上で成り立っている」(新書p.21)

 「将棋ソフトの思考は、絶妙無比な阿吽の呼吸でぎりぎり成立しているのである。プログラマによっては、ルール構築に数年をかけることも珍しくない。もう、匠の世界である。一子相伝で次の世代につながっていくのかもしれない」(新書p.22)

 そして「ボナンザ」が竜王を追い詰めながらも終盤の読みあいに負けるまでの流れを、図と棋譜を駆使して解説します。

 「絶対の自信を持っていたはずの終盤で、読みの深さで負けた。ここにプログラミング技術の躍進と、未だなお厚い、人間の頂点の孤高の壁がある」(新書p.38)

 いきなり盛り上がります。そして再挑戦の物語へと続くのですが、その前に基礎知識のお勉強。その後の三年間に技術者たちが何をなし遂げたのかを大雑把にでも理解しておかないと、その歴史的意義が分かりませんから。

 「第2章 ディープブルーが勝利した日」ではチェスソフトの歴史を、「第3章 将棋ソフトが進歩してきた道」では、探索木の絞り込み技術や局面評価アルゴリズムなど、将棋ソフトの基本を教えてくれます。

 そして「第4章 「手を読む」と「局面を評価する」は違う」および「第5章 局面をどう評価するか」では、将棋ソフトを強くすることの技術的困難さ、それを克服するために工夫されてきた技法、すなわち全幅探索、ミニマックス戦略、アルファベータカット、水平線効果の緩和、駒配置の点数化、棋譜を読み込ませることによる自動学習機能、など一歩踏み込んで詳しく解説してくれます。

 ここまでで準備は整いました。いよいよ本書のクライマックス、「第6章 清水市代女流王将 VS 「あから2010」」です。

 序盤いきなりの「あから2010」からの挑発手「後手3三角」から全棋譜が掲載され、勝負の流れを追います。盤面や展開の解説、控室での論議、観客の反応、後から解析された「あから2010」の思考と合議(あから2010は複数の将棋ソフトの合議制システムでした)の様子、などが多面的に描かれ、まるでその場に立ち会っているかのような興奮が高まってゆきます。

 「ここで、ネット中継で速報が表示される。米長が「じっと先手3一馬と入れるかどうかが勝敗を決める」とのコメントを出したのだ。清水はまもなく1分将棋に追い込まれる。会場の緊張は最高潮に達した」(新書p.162)

 「ここで会場がシンとなった。半信半疑であったプロ棋士の敗北が、心のどこかでそれはないだろうと思っていた投了の瞬間が、否応なく近づいている気配がホールを飽和させていた」(新書p.171)

 「「あから」が後手8五銀と受けた瞬間に、この日最大のため息の波がホールにこだました。清水からのすべての攻めの可能性を奪う、友達をなくす手」(新書p.172)

 いや、なくすような友達はいないだろう、というツッコミをする場面ではなく。そして全てが終わり、「会場は、ある時代が終わってしまったことを追悼するようなどこか静謐な空気と、新しい時代の始まりを予感して心踊らせるような清新な活気が渦を巻いて騒然となった」(新書p.173)

 清水女流の「コンピュータと指してもなんの感情も生まれないのでは、と考えていたが、それは間違いだった。一手一手に開発者の想いが込められていて、自分も熱くなれた」(新書p.174)という発言に、「技術側に足を置いている人間として、清水女流の懐の深さにどれだけ言葉を尽くしても表せないほどの感謝を覚えた」(新書p.176)著者。

 最後の「第7章 名人に勝つ日」では、対局を振り返りつつ「あから2010」が浮き彫りにした将棋ソフトの問題点、特にクラスタシステムの課題、人間を模倣する思考ルーチンの限界、などを示した上で、今後の開発の方向性について語ります。

 「将棋ソフトが名人に勝つXデーは、訪れるだろうか。予断は許さないが、その日が来ることは確実である。問題は来るか来ないかではなく、それが何年後か、である」(新書p.189)

 というわけで、将棋ソフトに興味がある方にとっては白熱の一冊。将棋にあまり詳しくない読者でも、盤面図を見ながら棋譜を追うことができれば充分に楽しめるでしょう。いずれ近いうちに本書の続編(というか完結編)、そしてさらに囲碁編が書かれることまで期待したいと思います。


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