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『未確認動物UMAを科学する モンスターはなぜ目撃され続けるのか』(ダニエル・ロクストン、ドナルド・R・プロセロ、松浦俊輔:翻訳) [読書(オカルト)]


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ロクストンとプロセロの二人で、未確認動物学について、狭くは懐疑論の文献、広くは科学の文献の歴史にしかるべき位置を占めるような、これまでで最も重要な成果と言ってもいいものを書いている。本書は現代の未確認動物学に関する決定版となる本である。
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単行本p.9


 イエティとナチス、ネッシーと『キングコング』、シーサーペントの図像学、モケーレ・ムベムベと創造主義など、類書とは一味違った興味深い論点を織り込みながら、未確認動物UMAについて懐疑的に検証してゆく一冊。単行本(化学同人)出版は2016年5月です。


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子どもの頃の私には、答えは明らかに見えた。海の怪獣だ。そして私はそれを捕まえようと思った。
 何年もの間、そのことだけを夢に見ていた。怪獣狩りの道具のカタログをあさった。将来のキャドボロサウルス探索隊のロゴも考えた。地元の図書館で、ネス湖現象調査局へ手紙を書く手伝いもしてもらった。そして今日、奇妙なことに、実際に怪獣を調べる立場の仕事をしている(懐疑的にだが)。
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単行本p.256


 ビッグフットやネッシーなどの未確認動物、いわゆるUMAについての検証本です。対象動物についての伝承史、目撃証言、映像などの証拠について詳しく調べてゆくと共に、未確認動物学そのもの、その支持者、その社会的影響についても論じられます。個人的には、宗教運動、図像学、映画、サブカル社会学など、意外なものがUMAに深い関係を持っているという指摘に感銘を受けました。

 全体は7つの章から構成されています。


「1.未確認動物学 本物の科学か疑似科学か」
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 今なお毎年それほどの動物が発見されているのなら、なぜビッグフットやネッシーの研究が「境界(フリンジ)科学」扱いされるのだろう。科学に新しく知られた動物と未確認動物との間には、伝承的な要素を措いても、重要な違いがある」
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単行本p.42

 最初に、科学とは何か、科学的手法とは何かを概説し、未確認動物学がなぜ「まともな」科学として扱われないのかを説明します。さらに未確認動物学が抱えている一般的な課題(生物学、生態学、地質学、そして古生物学がすでに明らかにしている知見との深刻な矛盾)をまとめます。


「2.ビッグフット あるいは伝説のサスクワッチ」
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 支持派は死骸がないことがこの分野の問題の中心だということを承知している。この問題は日がたつごとに深刻になる。サスクワッチ時代が始まった頃なら、懐疑派にもうちょっと待ってくれと言っても通じた。(中略)しかし何十年も待ったが空しい(また何十万ドルという報奨が求められることもない)となると、ビッグフッターは、アラスカヒグマほどの大きさがあると考えられる種の動物の居場所をまだ特定できていない理由を説明しなければならない。
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単行本p.109、110

 ビッグフット(サスクワッチ)の主要な目撃談をとりあげ、また足跡や毛、写真や動画など、様々な「証拠」について、その信憑性を確かめてゆきます。見間違いや捏造といった未確認動物学につきものの問題についても、ここで詳しく解説されます。


「3.イエティ 「雪男」」
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 ほぼ10年にわたる中国によるチベットの閉鎖のせいで、イエティの証拠探しのためにこの地方へ行くのは難しかった。1960年以前におこなわれた様々な遠征は何も見つけていなかった。チベットの僧院にあった「イエティの頭皮」なるものはシーローの皮だったし、「イエティの手」は人間の手だった。「イエティの糞」や毛は、既知の動物のもので、「イエティの通った跡」はやはり説得力がなかった。
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単行本p.155

 イエティ(雪男)探索の歴史を追い、有名な足跡写真や頭皮などの「証拠」を検証してゆきます。


「4.ネッシー ネス湖の怪獣」
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 80年にわたり、まじめな研究者が資金、評判、長年の労力を、ネス湖の深みに投じてきた。しかしそれがいる徴候はまったくない。この結果はどうしようもない。注入された科学と技術のすべてをもってしても、ネッシーは魔法の産物だ――スコットランドのケルピー伝承とハリウッド映画の魔法による。
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単行本p.251

 目撃談とその姿の変遷、主要な映像証拠、大規模な科学調査プロジェクトの結果など、ネッシー探査の歴史を明らかにしてゆきます。ネッシー伝説は、映画『キングコング』の恐竜登場シーンから直接生まれた可能性が高い、という興味深い指摘も。


「5.シーサーペントの進化 海馬からキャドボロサウルスへ」
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この二つの主なシーサーペントがどれほど劇的に異なっていても、世界中の海と怪獣のいる湖全体で互いに簡単に入れ替わる。目撃者はその場その場で、自由に文化的に使えるひな形を好きなように利用する。その結果、報告と再構成がきりなく入り交じった怪獣をもたらす。(中略)プレシオサウルスが優勢になるニッチもあれば(ネス湖の怪獣の場合のように)、海馬型のサーペントが突出する怪獣として現れることもある(キャディがそう)。しかし真相は、シーサーペントは形を変えるということだ。どうしてそうなれないことがあろうか。シーサーペントは要するに、自然の産物ではなく、文化の産物なのだ。
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単行本p.319、361

 海の怪物はどのように描かれてきたのか、その図像学が詳しく紹介されます。海馬のイメージと古生物学が明らかにしたプレシオサウルス(首長竜)の復元図が、文化的に混淆してシーサーペント(大海蛇)を形作ってきた歴史、そして誤認と捏造といういつもの問題が、詳しく解説されます。


「6.モケーレ・ムベムベ コンゴの恐竜」
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その存在には、思想的あるいは教義的に重要な結果があるということだ。何らかの理由で、創造主義者はアフリカで恐竜が発見されれば、進化論がすべて成り立たなくなると信じている。(中略)つまり、モケーレ・ムベムベ探しはただ未確認動物を探すことではなく、創造主義者が進化論を覆し、科学の教えを可能などんな手段によっても崩そうとする試みの一部である。
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単行本p.408

 アフリカ大陸、コンゴの湖に棲息するというモケーレ・ムベムベ。その探査活動の実態と、背後にある創造主義者による進化論否定の試みについて論じます。


「7.人はなぜモンスターを信じるのか 未確認動物学の複雑さ」
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 本書の著者二人は、未確認動物を信じること、その熱意の正味の影響の評価については立場が分かれている。ダニエル・ロクストンは未確認動物学に対してかなり共感しており、ドナルド・プロセロはそれよりずっと批判的だ。(中略)
 未確認動物学はロクストンが信じるように「ほとんどは無害」だろうか。この点について、プロセロは確信できない。モンスターの謎にどんなロマンチックな魅力があろうと、現実に存在する未確認動物学は、疑問の余地なく疑似科学である。(中略)未確認動物が実在すると広く受け入れるのは、単に時間と資源を無駄にするというより、無知、疑似科学、反科学という一般的な文化の火に油を注ぐことになるかもしれない。
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単行本p.459、463

 未確認動物学の支持者はどのような人々なのか。未確認動物学は社会にどのような影響を与えているか。そして科学者は未確認動物学に対してどのような立場をとるべきなのか。様々な観点から、未確認動物学そのものを評価してゆきます。



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『WHITEST』(山村佑理、渡邉尚、カンパニー「頭と口」) [ダンス]


公演パンフレットより
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ジャグリングの領域は際限がなく、その壮大さには畏敬の念を抱くほど。どこまで掘れるのか、全てを掘り尽くせるのか。あまりに膨大だが不可能ではない。日々、そんなことを考えつつ、ボールと環境と共にあり続けられる今が、ジャグラー冥利に尽きるとも言えます。
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頭と口


 2016年11月6日は夫婦でKAAT神奈川芸術劇場に行って、ジャグリングカンパニー「頭と口」の新作公演を鑑賞しました。

 旗揚げ公演『MONOLITH』の衝撃からほぼ一年。今年末にはフランスに拠点を移すため次はいつ観られるか分からない「頭と口」の公演です。ちなみに、旗揚げ公演の紹介はこちら。


  2015年12月28日の日記
  『MONOLITH』(山村佑理、渡邉尚、カンパニー「頭と口」)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2015-12-28


 『MONOLITH』では二人がそれぞれ自分の作品を披露してくれましたが、いよいよ今回は二人が共演する70分の新作です。

 客席と段差はなく、最前列席と同じ平面上にフラットに存在する舞台。そこに白いお手玉(ビーンバッグ)が三列に置かれています。客席に最も近い列に19個、その向こうに13個、その向こうに7個。さらに舞台最奥には21個が積み上げられており、総計60個のお手玉が使われます。ちなみに『逆さの樹』(渡邉尚)では36個だったので、一気に2倍近い増量。さすがはデュオ公演です。

 この舞台上で二人がいきなり倒れて、片手で必死にお手玉に「捕まって」ぶら下がってもがきます。あたかも舞台が90度回転して、舞台奥の壁が「地面」となり、実際の床がそそり立つ「絶壁」になった感じ。断崖絶壁に片手でぶら下がってボルダリング(フリークライミング)する二人を、観客は断崖の上から覗いているような按配になります。

 断崖のわずかな出っ張り(床に置いてあるお手玉)を片手でつかんで、決死のジャンプ(床の上を滑って、あるお手玉から別のお手玉へと移動する)を繰り返しながら、少しずつ「絶壁」を登ってゆく緊迫したクライミングシーンから始まって、「お手玉で区切られた領域では重力の方向が異なる」というルールを駆使した様々なアクションが繰り広げられます。

 例えばある領域では中央に向かって重力が働いているらしく、左右両側から「落下」した二人が中央で足と足を合わせて互いに逆向きに「重力に沿って真っ直ぐに立つ」といった具合。まるでSF映画を観ているようです。

 二人が走り回るたびに床に置かれているお手玉の配置が次々と変わってゆき、直線が出来たり円が出来たり、パターンが流れるように変化してゆくのも魅惑的。床に落ちている対象物を操作するのが「フロア・ジャグリング」なのだそうですが、こうやって舞台全体の重力をいじくることにより、床に張り付いてお手玉を動かすという動作がごく自然に行われたり、多数のお手玉が平面空間を自由に漂い動いているイメージが作り出されてゆく様には感心させられます。

 重力の方向だけでなく、例えばお手玉を並べて作った線は越えられないとか、他にも色々な「ルール」が生まれ、それが効果的に使われてゆきます。人外生命体に見える渡邉尚さんがこのルールを活かして意外に知的な策略で山村佑理さんを「トラップ」に追い込むとか、すげえな。

 個人的には、二人がそれぞれ両手に複数個のお手玉を握り、口にもお手玉をくわえたまま、互いに闘うシーンがお気に入り。最初は格闘技(ボクシング)のように人間っぽい戦いですが、やがて明らかに動物の闘争に。最後はよく分かりませんがたぶん植物の胞子合戦レベルに。すぐ人外になるので観客も油断できません。

 背中に乗せたお手玉をジャンプして空中に飛ばし、もう一人がそれを背中で受ける動作を交替で続けるという、手足をまったく使わない超絶的ジャグリングが素晴らしく。他にもジャグリングのシーンが断片的にはあるのですが、数回続けてはわざと床に落としてしまうところがいじわるというか、お手玉が床に落ちた後の動作こそがフロア・ジャグリングなのでしょう。

 というわけで、床に転がって置かれているお手玉をいかに操作するか、というところから始まって、60個のお手玉と床と身体を使って出来るあらゆる遊びの可能性を追求したような、そんなスリリングな舞台でした。



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『おもしろい!進化のふしぎ ざんねんないきもの事典』(今泉忠明:監修) [読書(サイエンス)]


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この本に登場するのは、ものすごく不便そうな体や、
なんだか大変そうな生き方、意味のなさそうな能力など、
はたから見れば「ざんねん」な感じがする生き物たち。
どうしてかれらが「ざんねん」になってしまったのか、
どんな運のよさのおかげで生き残ってこれたのか……。
そんなことを考えてみるのも、
おもしろいですよ。
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単行本p.23


 生物種は進化によってどんどん環境に最適化してゆく……とわけではなく、とにかく生き延びて子孫を残しさえすれば、ちょっとアレな感じのままでも大丈夫。
  「カメガエルは水に入るとおぼれる」
  「ワニが口を開く力はおじいちゃんの握力に負ける」
  「ミジンコはピンチになると頭がとがるが、効果はない」
など、人間から見てちょっと「ざんねん」に思える特徴を持った生物を取り上げて解説する、大人も子供も楽しめる生物図鑑が本書です。単行本(高橋書店)出版は2016年5月。

 進化は決まった方向に進むものではなく、偶然の変異と自然選択によって起きるので、割と雑というか「まあ致命的でなければいいか」くらいの特徴が残されたりします。本書は、そんな進化の不思議を集めた一冊。各ページに、タイトル、生物のイラスト、解説、その生物の基本情報(名前、生息地、大きさ、とくちょう)、さらに「ざんねん度」が表記されています。


  「ダチョウは脳みそが目玉より小さい」

  「ウォンバットのうんこは四角い」

  「バイオリンムシの羽の膜には、なんの意味もない」

  「ウナギの体が黒いのは、ただの日焼け」

  「ワニが口を開く力は、おじいちゃんの握力に負ける」

  「ムカシトカゲには第3の目があるが、よく見えない」

  「キツツキは頭に車が衝突したくらいの衝撃を受けている」

  「バクはおしりを水につけないとうんこが出ない」

  「カメガエルは、はねられないし、泳げない。水に入るとおぼれる」

  「ミジンコはピンチになると頭がとがる。しかし、ほとんど効果がない」

  「サソリは紫外線を当てると光るが、意味はない」


 なかには、ほっといてやれよ、というか、ただの難癖レベルの「ざんねん」も。


  「キクガシラコウモリは鼻の形が変」

  「シロヒトリのプロポーズは気持ち悪い」

  「カブトガニの脳みそは、ドーナツ形」

  「アライグマは食べ物をあらわない」


 解説もツッコミ満載。


「とにかくおしりに対してはものすごいこだわりがあるようです」(ウォンバット)

「人間がかば焼きにする前に、すでにこんがり焼けていたのですね」(ウナギ)

「第3の目をもっているのに、あえてそれを封印しているなんて、まるでマンガのキャラクターのような設定です」(ムカシトカゲ)

「理由はよくわかっていませんが、ヒマすぎてやることがないから、というのがおおむね有力な説のようです」(アライグマ)

「脳が小さいことから致命的なダメージは受けないようですが、そもそも脳が小さくなければそんなばかげたまねはしない気もします」(キツツキ)


 こんな感じで、子供が笑いながら「進化」について学び、ポケモン的な「進化とはパワーアップしてつよくなること」という思いこみを覆してくれる楽しい図鑑です。



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『サイボーグ化する動物たち ペットのクローンから昆虫のドローンまで』(エミリー・アンテス、西田美緒子:翻訳) [読書(サイエンス)]


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生命をあれこれいじりまわすのに必要な新しいツール一式を科学が用意してくれたおかげで、私たちはまったく新しい方法で動物に手を加えられるようになった。今では遺伝コードの書き換え、壊れたからだの再建、自然に備わった感覚の強化が進められている。一風変わった新しい生きものの誕生が新聞の見出しをにぎわすことも多い。バイオニックビートル! 光るネコ! スパイダーゴート! ロボラット! こうしたブレークスルーは驚異的であるとともに不可解でもある。その生きものは、厳密に言うと何なのか? どんなふうに見えるのか? 誰が、どんな理由で作っているのか? そしてそれらの動物はほんとうに、今までになかったものなのか?
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単行本p.6


 バイオテクノロジーの発達により、動物と機械を融合させることや、遺伝子に手を加え新しい生きものを創り出すことが可能になった。しかし、本当のところそれは何を意味するのだろうか。生物工学の最先端を紹介しつつ、その社会との関わりについて論じるサイエンス本。単行本(白揚社)出版は2016年8月です。


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生きものの形をいくらでも変えられるようになった今、私たちが何を選んで作るかは、私たちがほかの種に何を望んでいるのか、そして私たちがほかの種のために何をしたいかを明白にする。だが、たとえこの地球を共有している生きものたちに特別な愛着を感じないとしても、動物を大幅に作りかえることは人間にとっても重要な問題だ。それは自分たちの未来を垣間見ることにもなるからだ。
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単行本p.14


 遺伝子操作により創り出された鑑賞魚や薬品生産動物、失われたペットや絶滅危惧種のクローニング、障害を負った動物のための人工装具、そして動物の脳神経をハックして「操縦」する技術。様々なバイオテクノロジーの驚異とともに、それがどのような論争を引き起しているのかを詳しく紹介してくれる本です。全体は8つの章から構成されます。


「第1章 水槽を彩るグローフィッシュ」
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こうした借り物の遺伝子によってゼブラフィッシュは蛍光色に変わり、ブラックライトまたはブルーライトで美しく光る。これがグローフィッシュ――米国初の遺伝子組み換えペットだ。
 人間はこれまで選択的な品種改良によってたくさんの種に干渉してきたが、この魚の登場はまったく新しい時代の幕開けとなる――私たちは友だちである動物の遺伝コードを直接操作できる力を手にしたのだ。この新しい分子技術は世の中を一変させるだろう。
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単行本p.18

 米国で一般販売が許可された初の遺伝子組み換え生物、グローフィッシュ。その実現と認可に至る道のりを追います。


「第2章 命を救うヤギミルク」
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「ファーミング」の分野は急速な拡大を続けていて、世界中の研究室と企業が独自の家畜小屋や放牧地を用意し、血友病から癌まで、さまざまな慢性病に効く薬を量産する動物の飼育に取り組んでいる。(中略)動物が役立つものになればなるほど、ますます動物を「利用」する可能性は高まる。遺伝子組み換え技術によって、私たちはほかの種を新しい理由と新しい方法で利用できるようになり、生きものの商品化がますます広がっている。
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単行本p.48

 遺伝子組み換えにより、動物を「薬品生産工場」に変えてしまうファーミング技術。その普及は、動物愛護という理念と両立できるのだろうか。あるいは動物の福祉と権利を守るために人間の難病患者を見捨てることは倫理的に正当化されるだろうか。新しい技術が生み出した価値観の対立を浮き彫りにしてゆきます。


「第3章 ペットのクローン作ります」
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クローニングの効率の悪さは動物の福祉についての懸念をさらに強めている。イヌ一匹を複製するために、実にたくさんの雌イヌに麻酔をかけて卵子を採取しなければならない。(中略)スナッピーを作り出すために、韓国の研究者たちは合計1095個のクローン胚を123匹の雌イヌに移植した。その結果生まれたのは二匹のみで、生き残ったのは一匹だった。(中略)ペットのクローニングをめぐる論争は、動物を愛するとは何を意味するかの議論であり、そこではさまざまな価値観や意見が絡み合い、全員が賛同することはあり得ないと思われる。
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単行本p.95、98

 死んだ犬猫を「復活」させたい。そんな愛犬家や愛猫家の夢を実現するクローニング技術。だがそれは、人間とペットとの関係を豊かにするのだろうか。


「第4章 絶滅の危機はコピーで乗り切る」
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今や種の保護は総力をあげて取り組むべき事業だ。たしかに、クローニングで本物の成功を実現させるためには、研究室の科学者が自然保護活動家と協力しなければならない。研究者は必要な動物相をそっくり複製できるが、研究室生まれの赤ちゃんには住む場所が必要になる。
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単行本p.130

 絶滅危惧種を救うためのクローニング技術の活用は正しいことだろうか。生息環境の破壊をとめない限り無意味、さらには逆に環境保護運動の足を引っ張ることになる、という批判とどのようにして折り合いをつけてゆくべきなのか。


「第5章 情報収集は動物にまかせた」
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最新世代のタグでは、動物たちが日々の暮らしを送っているあいだ、そのからだに取りつけられたコンピューターが動物の移動を記録するばかりか、海洋および変化する周囲の状況に関するデータも収集している。(中略)電子タグの小型化が進み、ほとんど目に見えないまでになるにつれ、追跡が可能な海と陸の生物はますます多種多様に広がってきている。カナダの企業が販売している無線発信器は指の爪より小さく、重さも0.25グラムと、ないに等しい。
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単行本p.137

 センサと追跡用の電子タグを野生生物の身体に取りつけ、その生物の生態のみならず人間が到達困難な場所の調査を代行させることまでが今や可能となっている。研究者にとって極めて有用なこの技術は、対象生物に対して、あるいは自然保護運動に対して、どのような影響をもたらすのだろうか。


「第6章 イルカを救った人工尾ビレ」
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からだの一部を失った動物にとって、これまでになく恵まれた時代だ。炭素繊維複合材や形状が変化する柔軟なプラスチックなど、実に多彩な素材が開発されたおかげで、飛んだり駆けたり泳いだりする患者のために人工の付属器官を作れるようになっている。義肢装具士はこれまで、ワシには新しいくちばし、カメには交換用の甲羅、カンガルーには義足を作ってきた。外科技術の発達により、獣医師はイヌやネコのからだにバイオニック義足(生体工学を用いて製作した義足)を埋め込み、そのままずっと使えるようにすることもできる。さらに神経科学の発達で、脳から直接制御できる人工装具も夢ではなくなった。
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単行本p.158

 事故で尾びれを失ったイルカのケースなどを取り上げ、動物に対する人工装具の発達とその意義を追います。


「第7章 ロボット革命」
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現代の野生動物追跡装置の開発を可能にした科学技術の進歩――サイズの小型化と、マイクロプロセッサー、受信機、電池のパワーの増大――によって、本物のサイボーグ動物の作製も可能になろうとしている。こうしたマイクロマシンを動物のからだと脳に埋め込めば、人間がその動作と行動をコントロールできるようになる。遺伝学の成果を利用すれば新たな選択肢も可能で、科学者は動物の遺伝子を組み換えて、操作しやすい神経系を作ることもできる。
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単行本p.188

 遠隔操作できるサイボーグ昆虫など、サイボーグ生物の実用化と普及がもたらす倫理的、社会的、そして軍事・諜報に関わる問題を明らかにしてゆきます。


「第8章 人と動物の未来」
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 私たち人間が、責任をもって新しい技術を利用したいと少しでも思うなら、この議論を避けて通ることはできない。私たちが遺伝子組み換えで病気に強い家畜を作りたいのは、そうすれば工場式畜産場の劣悪な飼育環境と不十分な医療をうまく言い逃れて、最大の利益を上げられるからなのか? それともそうした生きものを、家畜の暮らしを向上させる大規模キャンペーンを繰り広げる機会として利用したいからなのか? ある意味、これらの技術に対して私たち自身が感じる不安は建設的なものだ。私たちは、それが動物たちにどのような影響を及ぼすかについて、評価と再評価を繰り返していかなければならない。
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単行本p.221

 これまでに見てきたようなバイオテクノロジーの急激な発展を前に、人間と動物の関係、文明と自然との関係、私たち自身を改変することの是非、などの議論を避けることはもはや出来ないことを示し、道筋の整理を試みます。



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『小説の家』(福永信:編、山崎ナオコーラ、最果タヒ、円城塔、他) [読書(小説・詩)]



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 一日という単調さのなかで、雑多でいられること、整理を放棄すること、わからなさを許容すること、それらができる時間は、ごくわずかです。私達は、子供のうちから、段落なんて言葉までおぼえて、言葉の世界でさえ、整列してきました。でも、ほんとうはそうではないんです。文章とは、ほんとうは、ばらばらなものです。一文一文はたがいに無関係といってもいいくらいです。
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単行本p.292


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 この本のどの作品も、まともではありません。「まとも」な読者からすれば、ふざけていると思うこともあるでしょう。でも、「ふざけるな」、そう思ったとき、すでにその「まとも」な読者も、ぼくらの仲間です。そうなんですよ、ここにある作品はどれも、誰も、たったの一人も、仲間外れにしないんです。読者が死んでしまっても、その友情は消えません。作者が死んでも、何も消えません。絶対に、何一つ、消えないんです。このアンソロジーは、大きな仲間意識というものから外れていると常に意識している人間達で、ある限られた時間の中で、一緒に作った本なんです。
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単行本p.293


 透明インクで印刷された読めない小説、途中からイラストが増殖して文章を覆い隠してゆく小説、コミPo!で描かれた漫画の小説、手書きの美術評論の小説、世界の存続にまで感謝しまくる謝辞の小説……。何の説明もなくいきなり『美術手帖』に連載され「もう年間講読やめます」など大反響を巻き起こした、小説の地平を爆発的に広げてゆく驚愕の小説アート集。単行本(新潮社)出版は2016年7月です。


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 本アンソロジーは、『美術手帖』誌上で連載された小説とアートワークのコラボレーションをまとめたものだ。連載は、2010年4月号から2014年8月号までおおむね4ヶ月おきに(後半間が飛ぶが)、毎回違う作者の組み合わせによるコラボ作品が掲載されるというかたちで行われた。
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単行本p.242


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編集部によれば電話などで熱心な問い合わせ(「印刷ミスではないか?」)、熱烈な訴え(「読めないじゃないか!」)があったそうである。電話対応の編集者達に感謝する。(中略)「もう年間講読やめます」と力強く表明したハガキが編集部に舞い込んだとも聞く。昨今の出版状況からすればこれは立派な企画打ち切りの理由になりうるはずだが、次々と短編小説とビジュアルは「美術手帖」に載っていったのである。美術出版社に感謝する。またわれわれの結束を強めた差出人にも深く感謝したい。
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単行本p.286、287


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美術出版社で単行本化の話が進んでいたのだが、ご存じのように2015年3月に同社が倒産して出版企画も宙に浮いてしまった。新潮社が新たな引き受け手となってくれて、こうしてようやく刊行の運びとなった次第である。
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単行本p.245


 というわけで、小説とアートがコラボレーションした作品、あるいは、素材として文章も使ったアート作品、がずらりと並ぶアンソロジーです。企画・編集は、一行の折り返し長が120ページの作品など、小説の常識をてんで無視した奇天烈なナニカを書く福永信さん。参加した皆さんも対抗意識を燃やしたのか、それぞれのやり方で「小説とアートをどうやって一体化するか」という挑戦を繰り広げています。例えば……。

 手書き文字、タイポグラフィー、写真と一体化した(写真に写った建物の壁に書かれている、写真に写ったCDケースに印刷されている)文章、段々と比率が逆転してゆくイラストと文章、コミPo!で描かれた漫画、「絵+その説明+その評論+そのイラストが発見された経緯の説明」という繰り返しで構成された美術展のパンフレットみたいなもの、12ページに渡って老眼では読めない小さな文字でぎっしりと書かれた「謝辞」、そして話題になった「透明な(あるいは背景紙とほぼ同じ色の)インクで印刷されているためぱっと見には24ページ分の白紙に見えるが実は斜めにして光を当てるなどの工夫によりかろうじて活字が印刷されていることが分かる」小説。


[収録作品]

『鳥と進化/声を聞く』(柴崎友香)
『女優の魂』(岡田利規)
『あたしはヤクザになりたい』(山崎ナオコーラ)
『きみはPOP』(最果タヒ)
『フキンシンちゃん』(長嶋有)
『言葉がチャーチル』(青木淳悟)
『案内状』(耕治人)
『Thieves in The Temple』(阿部和重)
『ろば奴』(いしいしんじ)
『図説東方恐怖譚』『その屋敷を覆う、覆す、覆う』(古川日出男)
『手帖から発見された手記』(円城塔)
『〈小説〉企画とは何だったのか』(栗原裕一郎)
『謝辞とあとがき』(福永信)


『あたしはヤクザになりたい』(山崎ナオコーラ)
――――
「そう、そう。ところであたし、こないだ描いたイラストの、画料をつり上げたんだ」
「どうやって?」
 草之介はいぶかしんだ。
「交渉したの」
「なんで?」
「言われるままに仕事をするのが癪だから。こっちから、どれくらいの仕事なのか考えて、それを交渉していこう、と思い始めたの」
「ふうん」
「で、他の会社ではいくらでしたが、とか、その画料ではちょっと、とか、いったん帰ってからお返事します、とか言ったの」
「そういうの恐喝って言うんだよ」
「へえ」
(中略)
「『ゆすり』とか、『たかり』とかをする人になっちゃうよ」
 草之介は重ねて言った。
「なる」
 本郷は繰り返した。
――――
単行本p.56

 他人からいいように使われる便利な人にはならない、自分の仕事はちゃんとお金にする。そう決意した女性イラストレーターと、その覚悟をまったく分かってくれない恋人や社会とのすれ違いを描いた短編。


『きみはPOP』(最果タヒ)
――――
「媚びへつらうのはいやだとか、そんなつまんない意地をやめろ。供給する側は、需要する側より上に立っている。才能のある人間が搾取しているにすぎないんだよ」
「私は……」
 利用されていると気づいた。あのステージで、みんなに、私を好きだと言うみんなに、ただ食い散らかされているのだと気づいた。見たんだ、私を餌にぶくぶく自己顕示欲を太らせてきた客たちを。
「そのぶん、金をむしり取ってきただろう」
 先生は、そんなときは彼らから奪い取ったものを数えろ、と平然と言うのだ。金だけは絶対的な価値だと。
「総体的な人の評価とは違う。絶対に、ぶれることのない価値だよ。それだけが、きみのプライドを確実に守ってくれる」
「……」
「お前は強者だってことさ。きみはPOPだ。不安にならなくていい」
――――
単行本p.75

 一味違う自分の感性やら何やらアピールしたいだけのあさましいスノッブたちのサンドバックに過ぎないことに絶望したシンガーソングライターが、「かつてミュージシャンを目指して挫折したときのつまんない意地とつまんない反抗を15年前からずっとひきずっているくせに、大手企業に入り込んでちゃっかり出世して、高層マンションの最上階に住んでいる」ヒットメーカーのプロデューサーと寝て、思いっきり「なんか好きとかラブとかお砂糖とか、そういうことしか歌わない」売れ筋狙いのPOPなCDを出すことにしたが……。ありきたりの話が詩へと飛躍してゆく驚くべき短編。


『図説東方恐怖譚』(古川日出男)
――――
私たちは砂中より現れた美術館に『ブッダの頭蓋骨』との名を与えた。この命名に反対したメンバーはいない。しかし不思議なことなのだが、いったい誰が最初にこの名を候補として挙げたのか、それが記憶にないのだ。当然だが記録にも残っていない。ある晩、私は不安に駆られた。もしかしたら『ブッダの頭蓋骨』を口にした一人めとは、私ではないのか? あまりにも滑らかに口をついたので、私自身が言ったとは認識し得なかったのではないか? また、それほど滑らかで適切な名称であるならば、実際にこの美術館は『ブッダの頭蓋骨』だったのではないか?
(中略)
あるメンバーは美術評論に憑かれた、すなわち個々の作品の解説者と化した。一つひとつの絵に、シーケンシャルな流れを持った文章を付与しはじめたのだ。だが、これは本当に付与だろうか? そんな恣意的な行為なのだろうか? もしかしたら私が(あるいは私ではない人物が)『ブッダの頭蓋骨』という美術館名を掘り当てたように、現実に「そうであった」文章ではないのか? この可能性は私を戦慄させた。
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単行本p.201

 砂中より発掘された謎の古代文明の遺跡である美術館。その中を探索していた調査隊のメンバーは、美術展のパンフレットなんかによくある「解題」のような謎文章を個々の絵に対して手書きで書き加えてゆく……。美術評論、怪奇小説、思弁小説、様々な文体を駆使して構築された不可思議な世界。


『手帖から発見された手記』(円城塔)
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「それが手帖であるかどうかを判定する者をまずつくるのです。判定者を正しくつくることができたなら、正体が宇宙なのだか手帖なのだか、こんな議論を続けなくとも、すぐにはっきりするではないですか」
 あとはそいつに任せてしまえばよいではないか、馬鹿馬鹿しい、とまでは続けなかった。下請けに丸投げしてしまえということだ。
「そんな基準は、ただの議論の繰り延べにすぎぬ。次は何に判定を行わせるかを揉め出す羽目になるに決まっておる。だいたい、正しいとか正しくないとか誰がどのように決めるつもりか」
 長老格は即座に真っ当な指摘を行ったのだが、各員の頭にすでに浮上を終えていた、それもよいかも、という感想は意外なことに長保ちした。正直、どこまでも終わりの見えない水の掛けあいに飽きがきていたせいだろう。体質として、丸投げに慣れていたということもある。
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単行本p.223

 「美術手帖」とは何か。それは手帖なのか、それとも宇宙なのか。それをはっきりさせるための下請けとして創り出されたものの、おおかたの予想通り勝手に暴走してゆく人類。最初のうちは文章にかからないよう控え目だった倉田タカシ氏のイラストが途中から増殖を始め、ついには文章の大半を覆い隠すまでに繁茂する。が、実はそれは見せ掛けだけで、文章はまったく隠されていないということに気づく。意外に親切なSF短編。



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