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『小説の家』(福永信:編、山崎ナオコーラ、最果タヒ、円城塔、他) [読書(小説・詩)]



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 一日という単調さのなかで、雑多でいられること、整理を放棄すること、わからなさを許容すること、それらができる時間は、ごくわずかです。私達は、子供のうちから、段落なんて言葉までおぼえて、言葉の世界でさえ、整列してきました。でも、ほんとうはそうではないんです。文章とは、ほんとうは、ばらばらなものです。一文一文はたがいに無関係といってもいいくらいです。
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単行本p.292


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 この本のどの作品も、まともではありません。「まとも」な読者からすれば、ふざけていると思うこともあるでしょう。でも、「ふざけるな」、そう思ったとき、すでにその「まとも」な読者も、ぼくらの仲間です。そうなんですよ、ここにある作品はどれも、誰も、たったの一人も、仲間外れにしないんです。読者が死んでしまっても、その友情は消えません。作者が死んでも、何も消えません。絶対に、何一つ、消えないんです。このアンソロジーは、大きな仲間意識というものから外れていると常に意識している人間達で、ある限られた時間の中で、一緒に作った本なんです。
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単行本p.293


 透明インクで印刷された読めない小説、途中からイラストが増殖して文章を覆い隠してゆく小説、コミPo!で描かれた漫画の小説、手書きの美術評論の小説、世界の存続にまで感謝しまくる謝辞の小説……。何の説明もなくいきなり『美術手帖』に連載され「もう年間講読やめます」など大反響を巻き起こした、小説の地平を爆発的に広げてゆく驚愕の小説アート集。単行本(新潮社)出版は2016年7月です。


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 本アンソロジーは、『美術手帖』誌上で連載された小説とアートワークのコラボレーションをまとめたものだ。連載は、2010年4月号から2014年8月号までおおむね4ヶ月おきに(後半間が飛ぶが)、毎回違う作者の組み合わせによるコラボ作品が掲載されるというかたちで行われた。
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単行本p.242


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編集部によれば電話などで熱心な問い合わせ(「印刷ミスではないか?」)、熱烈な訴え(「読めないじゃないか!」)があったそうである。電話対応の編集者達に感謝する。(中略)「もう年間講読やめます」と力強く表明したハガキが編集部に舞い込んだとも聞く。昨今の出版状況からすればこれは立派な企画打ち切りの理由になりうるはずだが、次々と短編小説とビジュアルは「美術手帖」に載っていったのである。美術出版社に感謝する。またわれわれの結束を強めた差出人にも深く感謝したい。
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単行本p.286、287


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美術出版社で単行本化の話が進んでいたのだが、ご存じのように2015年3月に同社が倒産して出版企画も宙に浮いてしまった。新潮社が新たな引き受け手となってくれて、こうしてようやく刊行の運びとなった次第である。
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単行本p.245


 というわけで、小説とアートがコラボレーションした作品、あるいは、素材として文章も使ったアート作品、がずらりと並ぶアンソロジーです。企画・編集は、一行の折り返し長が120ページの作品など、小説の常識をてんで無視した奇天烈なナニカを書く福永信さん。参加した皆さんも対抗意識を燃やしたのか、それぞれのやり方で「小説とアートをどうやって一体化するか」という挑戦を繰り広げています。例えば……。

 手書き文字、タイポグラフィー、写真と一体化した(写真に写った建物の壁に書かれている、写真に写ったCDケースに印刷されている)文章、段々と比率が逆転してゆくイラストと文章、コミPo!で描かれた漫画、「絵+その説明+その評論+そのイラストが発見された経緯の説明」という繰り返しで構成された美術展のパンフレットみたいなもの、12ページに渡って老眼では読めない小さな文字でぎっしりと書かれた「謝辞」、そして話題になった「透明な(あるいは背景紙とほぼ同じ色の)インクで印刷されているためぱっと見には24ページ分の白紙に見えるが実は斜めにして光を当てるなどの工夫によりかろうじて活字が印刷されていることが分かる」小説。


[収録作品]

『鳥と進化/声を聞く』(柴崎友香)
『女優の魂』(岡田利規)
『あたしはヤクザになりたい』(山崎ナオコーラ)
『きみはPOP』(最果タヒ)
『フキンシンちゃん』(長嶋有)
『言葉がチャーチル』(青木淳悟)
『案内状』(耕治人)
『Thieves in The Temple』(阿部和重)
『ろば奴』(いしいしんじ)
『図説東方恐怖譚』『その屋敷を覆う、覆す、覆う』(古川日出男)
『手帖から発見された手記』(円城塔)
『〈小説〉企画とは何だったのか』(栗原裕一郎)
『謝辞とあとがき』(福永信)


『あたしはヤクザになりたい』(山崎ナオコーラ)
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「そう、そう。ところであたし、こないだ描いたイラストの、画料をつり上げたんだ」
「どうやって?」
 草之介はいぶかしんだ。
「交渉したの」
「なんで?」
「言われるままに仕事をするのが癪だから。こっちから、どれくらいの仕事なのか考えて、それを交渉していこう、と思い始めたの」
「ふうん」
「で、他の会社ではいくらでしたが、とか、その画料ではちょっと、とか、いったん帰ってからお返事します、とか言ったの」
「そういうの恐喝って言うんだよ」
「へえ」
(中略)
「『ゆすり』とか、『たかり』とかをする人になっちゃうよ」
 草之介は重ねて言った。
「なる」
 本郷は繰り返した。
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単行本p.56

 他人からいいように使われる便利な人にはならない、自分の仕事はちゃんとお金にする。そう決意した女性イラストレーターと、その覚悟をまったく分かってくれない恋人や社会とのすれ違いを描いた短編。


『きみはPOP』(最果タヒ)
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「媚びへつらうのはいやだとか、そんなつまんない意地をやめろ。供給する側は、需要する側より上に立っている。才能のある人間が搾取しているにすぎないんだよ」
「私は……」
 利用されていると気づいた。あのステージで、みんなに、私を好きだと言うみんなに、ただ食い散らかされているのだと気づいた。見たんだ、私を餌にぶくぶく自己顕示欲を太らせてきた客たちを。
「そのぶん、金をむしり取ってきただろう」
 先生は、そんなときは彼らから奪い取ったものを数えろ、と平然と言うのだ。金だけは絶対的な価値だと。
「総体的な人の評価とは違う。絶対に、ぶれることのない価値だよ。それだけが、きみのプライドを確実に守ってくれる」
「……」
「お前は強者だってことさ。きみはPOPだ。不安にならなくていい」
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単行本p.75

 一味違う自分の感性やら何やらアピールしたいだけのあさましいスノッブたちのサンドバックに過ぎないことに絶望したシンガーソングライターが、「かつてミュージシャンを目指して挫折したときのつまんない意地とつまんない反抗を15年前からずっとひきずっているくせに、大手企業に入り込んでちゃっかり出世して、高層マンションの最上階に住んでいる」ヒットメーカーのプロデューサーと寝て、思いっきり「なんか好きとかラブとかお砂糖とか、そういうことしか歌わない」売れ筋狙いのPOPなCDを出すことにしたが……。ありきたりの話が詩へと飛躍してゆく驚くべき短編。


『図説東方恐怖譚』(古川日出男)
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私たちは砂中より現れた美術館に『ブッダの頭蓋骨』との名を与えた。この命名に反対したメンバーはいない。しかし不思議なことなのだが、いったい誰が最初にこの名を候補として挙げたのか、それが記憶にないのだ。当然だが記録にも残っていない。ある晩、私は不安に駆られた。もしかしたら『ブッダの頭蓋骨』を口にした一人めとは、私ではないのか? あまりにも滑らかに口をついたので、私自身が言ったとは認識し得なかったのではないか? また、それほど滑らかで適切な名称であるならば、実際にこの美術館は『ブッダの頭蓋骨』だったのではないか?
(中略)
あるメンバーは美術評論に憑かれた、すなわち個々の作品の解説者と化した。一つひとつの絵に、シーケンシャルな流れを持った文章を付与しはじめたのだ。だが、これは本当に付与だろうか? そんな恣意的な行為なのだろうか? もしかしたら私が(あるいは私ではない人物が)『ブッダの頭蓋骨』という美術館名を掘り当てたように、現実に「そうであった」文章ではないのか? この可能性は私を戦慄させた。
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単行本p.201

 砂中より発掘された謎の古代文明の遺跡である美術館。その中を探索していた調査隊のメンバーは、美術展のパンフレットなんかによくある「解題」のような謎文章を個々の絵に対して手書きで書き加えてゆく……。美術評論、怪奇小説、思弁小説、様々な文体を駆使して構築された不可思議な世界。


『手帖から発見された手記』(円城塔)
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「それが手帖であるかどうかを判定する者をまずつくるのです。判定者を正しくつくることができたなら、正体が宇宙なのだか手帖なのだか、こんな議論を続けなくとも、すぐにはっきりするではないですか」
 あとはそいつに任せてしまえばよいではないか、馬鹿馬鹿しい、とまでは続けなかった。下請けに丸投げしてしまえということだ。
「そんな基準は、ただの議論の繰り延べにすぎぬ。次は何に判定を行わせるかを揉め出す羽目になるに決まっておる。だいたい、正しいとか正しくないとか誰がどのように決めるつもりか」
 長老格は即座に真っ当な指摘を行ったのだが、各員の頭にすでに浮上を終えていた、それもよいかも、という感想は意外なことに長保ちした。正直、どこまでも終わりの見えない水の掛けあいに飽きがきていたせいだろう。体質として、丸投げに慣れていたということもある。
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単行本p.223

 「美術手帖」とは何か。それは手帖なのか、それとも宇宙なのか。それをはっきりさせるための下請けとして創り出されたものの、おおかたの予想通り勝手に暴走してゆく人類。最初のうちは文章にかからないよう控え目だった倉田タカシ氏のイラストが途中から増殖を始め、ついには文章の大半を覆い隠すまでに繁茂する。が、実はそれは見せ掛けだけで、文章はまったく隠されていないということに気づく。意外に親切なSF短編。



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