SSブログ

『量子物理学の発見 ヒッグス粒子の先までの物語』(レオン・レーダーマン、クリストファー・ヒル、青木薫:翻訳) [読書(サイエンス)]


――――
われわれは加速器、つまりは強力な顕微鏡のことを語りたかった。また、科学はいかにして、自然という玉ねぎの階層を一枚一枚剥いできたのか、そして未来の加速器はどうなるのかにも焦点を合わせたつもりだ。とにかく、「もろもろの理論」にはできるだけ距離を置くようにした。なにしろ近年では、加速器はどんどん少なくなり、実験もやりにくくなって、やれば金もかかるというのに、理論はむやみにたくさんあって、作るのにほとんど金がかからない。科学とは結局のところ、測定と観測をやってなんぼのもので、純粋数学のような理論や、反証できない突飛な思弁だけではだめなのだ。(中略)ヒッグス粒子のその向こうには、未解決の問題がたくさんある。そういう問題への答えを得るまでには、われわれはまだ長い道のりを歩かなければならない。
――――
単行本p.265


 ヒッグス粒子の存在が確認されたことで、素粒子物理学における標準理論は完成した。しかしそれは「物質とは何か」をめぐる長い探求の通過点に過ぎない。「神の粒子」として有名になったヒッグス粒子を中心に、素粒子物理学と加速器の歩みを活き活きと紹介してくれる一冊。単行本(文藝春秋)出版は2016年9月、Kindle版配信は2016年9月です。


――――
では、ヒッグス粒子とは何だろう? なぜヒッグス粒子は存在するのだろう? ヒッグス粒子を加えれば、素粒子のリストは完全になるのだろうか? ヒッグス粒子が登場したことで、たくさんの疑問が生まれた。ひとことで言えば、ヒッグス粒子に関しては、「誰がこいつを注文したんだ?」という状況なのである。
 素粒子の階層に踏み込むことは、量子力学に支配された不思議な領域に、そしてその領域だけに、頭のてっぺんまでどっぷりとはまり込むことだ。そこでは「質量とは何か」という問いが、いよいよ深い謎となり、いっそう大きなパズルとなる。そうして話はますます面白くなるのだ。
――――
単行本p.139


 巨大な加速器を「顕微鏡」として使い、極微の世界を探求し続ける科学者たちの道のりを、実験物理学の第一人者が描きます。類書にありがちな「たとえ話に頼った説明」(猫箱とか)を極力排し、ひたすら観測結果とその解釈という王道に沿って素粒子物理学の基礎を解説。並行して、加速器の必要性(もっと俺たちのフェルミ研究所に予算をくれ)を繰り返し訴えます。

 全体は九つの章から構成されています。


「第一章 宇宙の始まりを探る旅」
――――
科学者たちは、ジュネーヴ近郊の地下およそ百メートルに置かれた、その強力なリングを使って、夜を徹して働いている。そんな苦労の末に作り出されるのは、黄金ではない。それは黄金とは比べものにならないほど価値のある、かつて誰も見たことのない粒子だ。ニーベルング族は魔法の力を解き放ち、指輪をはめた者にその力を与えたが、物理学者たちは、これまで誰も見たことのない謎の力の正体を暴こうとしている。それは、あらゆる力のもとになる根源的な力であり、その力を握っているのは自然だ。
――――
単行本p.9

 2012年にヒッグス粒子の存在を確認した大型ハドロン衝突型加速器LHC。大型加速器の建造とその目的を概観し、その意義(そして予算を理由にそれを逃した米国政府に対する嫌味のかぎり)を語ります。


「第二章 その時、ニュートン物理学は崩れた」
――――
自然の中でわれわれが目にする「複雑さの構造」は、玉ねぎのように層状になっていて、それぞれの層ごとに、起こる現象が異なるらしいのだ。それぞれの層は、それを調べるために必要なエネルギーによって特徴づけられる。(中略)原子核の層は、数百万から数億eV程度のエネルギーで特徴づけられる。逆に言えば原子核を探るためには、数億eVのエネルギーを持つ粒子が必要になるということだ。
――――
単行本p.56

 巨大加速器が極微の世界を探るための「顕微鏡」だというのは、どういう意味か。物質の存在スケールの階層を一つ一つ下って観察してゆくために何が必要なのかを具体的に解説します。


「第三章 世界は右巻きか左巻きか」
――――
「やあ、ディックか、すごいアイデアを思いついたよ。びっくりするぐらい簡単に、パリティの破れを検証できそうだ」。わたしは急いでその実験のことを説明すると、「研究所に来て、手を貸してくれないか?」と言った。ディックはうちと同じ、スカーズデールにに住んでいた。午後八時には、ディックとわたしは、事情がわからず動転している大学院生の目の前で、彼がこれまでせっせと準備してきた実験装置を解体していた。マーセルは、自分の博士論文のために用意していた実験装置が解体されるのを、ただ呆然と眺めているしかなかった。
――――
単行本p.107

 素粒子の世界では対称性が破れている? パイ粒子とミュー粒子の崩壊過程におけるパリティの破れを確認した重大な実験。その一部始終を、張本人であるレーダーマンが活き活きと語ります。対称性の破れ、その発見はヒッグス粒子へと向かう重大な一歩でした。


「第四章 相対性理論の合法的な抜け道」
――――
ヒッグス粒子とは何なのか? この粒子はなぜ存在しているのか? ヒッグス粒子はこれだけなのか、それともほかに仲間がいるのか? この先しばらく、新たな発見はできそうにないのか? それとも、今われわれは新たな発見の時代に入ろうとしているのか? この発見をどう受け止めたらいいのだろう? ヒッグス粒子のその先には、どんな謎が待ち受けているのだろう? これらの問いの中心にあるのが、次の大きな問いだ。――質量とは何なのだろう?
――――
単行本p.116

 質量とは何か。「物質の“量”を示す値」という漠然とした理解から始まって、それは素粒子に内在されている本質的な性質ではなく、とりまく場との相互作用から生じている、という根本的な理解の転換へと読者を導いてゆきます。


「第五章 初めに質量あれ」
――――
宇宙が誕生してまもない頃は、あらゆる粒子は質量がゼロで、標準理論の対称性が壮麗な塔のように高くそびえていた。ところが宇宙が膨張して冷えるうちに、対称性は次々と崩れて瓦礫の山となり、粒子は質量を背負わされ、人間が今日目にしている低エネルギーの物質世界が姿を現した。その世界では、基礎となる標準理論はほとんど見えなくなっている。あえてたとえ話をすれば、対称的な世界は、ウォータン(オーディン)のワルハラだった。しかし神々の黄昏が訪れて、対称性は打ち砕かれ、ワルハラは廃墟になった。ウォータンの娘であるワルキューレのブリュンヒルデがその出来事の引き金を引いたように、原初の宇宙で成り立っていた標準理論の対称性が崩れ去るという出来事にも、その引き金を引いたものがいる。それがヒッグス粒子なのだ。
――――
単行本p.146

 加速器から得られた知見を積み重ね、ついに物理学者たちは標準理論にたどり着いた。素粒子に質量がなく、対称性が保たれている、すべての基礎となるその状態を説明する標準理論。それを元に、真空の構造、カイラリティ(スピンの右巻きと左巻きの違い)、そして二つのカイラリティの間を往復する振動(チッターベベーグング)を解説し、対称性の破れと「質量」の関係に踏み込んでゆきます。


「第六章 何もないところになぜ何かが生まれたのか?」
――――
標準理論から引き出される予測の多くは、すでに実験で証明されており、実験上、この理論の不具合はただのひとつも見つかっていない。
 標準理論がこうして作り上げられたことは、1970年代のはじめに素粒子物理学に起こったひとつの革命だった。陽子、中性子、パイ粒子などを構成しているクォークという小さな粒子が、初めて実験でその姿を現したのも、ちょうどその頃のことである。1970年代の十年間には、自然の力はすべて、「ゲージ対称性」という包括的な対称性原理に支配されていることが理論と実験の両面から明らかになった。
――――
単行本p.191

 標準理論から「質量」を説明するために必要となるヒッグス場。真空を満たすヒッグス場がどのようにして素粒子に「質量」を与えているか、そのメカニズムが解説されます。そして今や読者は、2012年7月4日の「ヒッグス粒子を確認」という歴史的発表がどのような意義を持つのかを理解したことになります。


「第七章 星が生まれた痕跡」
――――
そのとき発せられる強烈な光が、いわゆる「超新星」として観測されるものだ。それはビッグバン以降、この宇宙で起こるもっとも激烈な爆発である。
「あらゆる爆発の母」というべき激しい爆発を引き起こすのが、粒子の中でもとりわけ地味で目立たないニュートリノだというのは、なんとも不思議なめぐり合わせではないか。星の中心部から猛烈な勢いで飛び出してくるニュートリノは、星の外殻を作り上げているすべての物質、その星の中心部で新たに合成された重い元素のすべてを道連れにして、銀河に輝く星たちをすべて合わせたよりも、さらに数千倍も明るい閃光を放たせるのである。
――――
単行本p.222

 ニュートリノの質量問題、フレーバー振動、ニュートリノにおけるCP対称性の破れが持つ意味など、ニュートリノ物理学の現状をざっと見てゆきます。


「第八章 加速器は語る」
――――
 フェルミ研究所は、長基線ニュートリノ実験(LBNE)の準備を進めており、最終的にはダコタ州のホームステーク鉱山に向けてニュートリノ・ビームを打ち込むことになるが、それと並行して、世界一大きなビーム強度を持つ粒子加速器、「プロジェクトX」の準備も進めている。プロジェクトXは、フェルミ研究所とアメリカの高エネルギー物理学の将来計画において、要となるものである。
 それは大強度陽子加速器で、「陽子ドライバー」と呼ばれることもある。なお、この加速器に「プロジェクトX」という謎めいた名前がついたのは、何か隠さなければならないような秘密があるからではなく、単にもっと良い名前を誰も思いつかなかったからにすぎない。
――――
単行本p.242

 著者たちがいるフェルミ研究所の将来計画を紹介し、加速器の未来を語ります。そしてもちろん、それが経済価値につながる(だからもっと予算をくれ)というポイントを力説することも忘れません。


「第九章 ヒッグス粒子を超えて」
――――
 しかしこれを書いている現在、ダークマターに関する理論は、シカゴに生息する野良猫よりも多いというのに、加速器実験でダークマターを作り上げている粒子を作って検出することはできていない。(中略)
 このように、ダークマターは今も、宇宙論と素粒子物理学という、深く結びついた二つの分野にまたがる、謎の物質であり続けている。高性能の「顕微鏡」を作ろうとする素粒子物理学と、やはり高性能の望遠鏡を作ろうとする宇宙論とは、科学の分野として大きく重なり合っている。(中略)素粒子物理学と宇宙論は、密接に結びつきながら、互いのために役立っているのである。ダークマターは、れわわれがまだ理解していない何か、標準理論という枠組みを超える何かが、すぐ目の前にあるということを思い知らせてくれる。標準理論を超える何か、ヒッグス粒子を超える何かが、間違いなくそこに存在しているのだ。
――――
単行本p.268

 ヒッグス粒子が他の素粒子に「質量」を与えることは分かったが、ではヒッグス粒子それ自身の質量はどこから来るのか。天文学がその存在を明らかにした「ダークマター」は未知の素粒子なのか。様々な未解決問題を前に、物理学者たちは標準理論を、ヒッグス粒子を、超えて先へ進もうとしている。様々な加速器を建造し、互いに補いながら、極微の世界の完全な理論に向けての探索は続いてゆく。そして本書の最初にして最後の問い、太文字で書かれた声高な叫び声が響くのだ。「加速器の費用はそんなに大金か?」(単行本p.269)



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ: