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『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』(デイヴィッド・イーグルマン、大田直子:翻訳) [読書(サイエンス)]


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 脳は情報を集めて行動を正しい方向に導く仕事をしている。決定に意識がかかわるかどうかは問題ではない。そしてたいていの場合、かかわっていない。(中略)意識は脳の営みのなかでいちばん小さな役割しか果たさない。脳はたいてい自動操縦で動いていて、その下で稼働する謎の巨大工場に意識はほとんど近づけない。
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単行本p.14


 私の意識は、どれくらい「私」を支配しているのだろうか。実のところ脳と身体はほぼ完全に自動運転しており、意識はその結果を後から知らされる傍観者に過ぎない。では、自由意思は存在するのだろうか。存在しないのなら、犯罪者をその行為の「責任」によって罰することは合理的だろうか。様々な研究成果をもとに意識と脳の関係を整理するサイエンス本。単行本(早川書房)出版は2012年4月、文庫版(『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』と改題)出版は2016年9月、文庫のKindle版配信は2016年9月です。


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 人はどうして自分自身に腹を立てることができるのだろう? いったい誰が誰に腹を立てているのか? 滝をじっと見つめたあと、岩が上昇していくように見えるのはなぜだろう? 最高裁のウィリアム・ダグラス判事は、脳卒中のあと麻痺していることは誰の目にもわかるのに、なぜ、アメフトをやったりハイキングに行ったりすることができると主張したのだろう? なぜ、1903年にゾウのトプシーはトマス・エジソンに感電死させられたのか? なぜ、人は利子のつかないクリスマス口座にお金を貯めたがるのか? 酔っ払ったメル・ギブソンが反ユダヤ主義の発言をして、しらふのメル・ギブソンが心から謝罪するのなら、本物のメル・ギブソンはいるのだろうか? オデュッセウスとサブプライムローンの破綻に共通点はあるのか? 一ヶ月のうちでストリッパーがもうかる期間があるのはなぜなのか? なぜ、Jで始まる名前の人はJで始まる名前の人と結婚する可能性が高いのか? 人が秘密をしゃべりたくなるのはなぜだろう? 浮気をする可能性が高い結婚のパターンはあるのか? パーキンソン病の薬物治療を受けている患者は、なぜ、ギャンブルに取りつかれるのか? IQが高く、銀行の出納係を務め、模範的な男子だったチャールズ・ホイットマンは、なぜ、突然オースティンのテキサス大学タワーから48人もの人を撃とうと決めたのか?
 これらはすべて、脳の舞台裏の働きとどう関係があるのか?
 これから見ていくように、すべてが関係している。
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単行本p.32


 脳と身体は「意識」とは関係なく神経プログラムによって自動的に動いており、意識はただの傍観者に過ぎない。したがって、少なくとも古典的な意味でいう「自由意思」は幻想である……。生理学、心理学、神経科学が明らかにしてきたこれらの衝撃的な事実を、一般向けに平易に解説してくれるサイエンス本。

 さらに、人に自由意思はなく、したがって行為の「責任」をとることは出来ない、という事実を元にして、どのようにして社会を(特に法体系を)再構築すればいいのか、という点にまで踏み込んでゆきます。

 次から次へと挙げられる社会学や心理学の研究成果はどれも興味深く、最後まで好奇心が刺激され続ける一冊。全体は七つの章から構成されています。


「第1章 僕の頭のなかに誰かがいる、でもそれは僕じゃない」
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 あなたの内面で起こることのほとんどがあなたの意識の支配下にはない。そして実際のところ、そのほうが良いのだ。意識は手柄をほしいままにできるが、脳のなかで始動する意思決定に関しては、大部分を傍観しているのがベストだ。(中略)20世紀半ばまでに思想家たちは、人は自分のことをほとんど知らないという正しい認識に到達した。私たちは自分自身の中心ではなく、銀河系のなかの地球や、宇宙のなかの銀河系と同じように、遠いはずれのほうにいて、起こっていることをほとんど知らないのだ。
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単行本p.18、31

 自意識は「自分」の中心ではなく、その片隅にいて新聞を読んでいる傍観者に過ぎない。地球が銀河の中心ではないように。まずは本書のテーマを、宇宙論の発展になぞらえて紹介します。


「第2章 五感の証言――経験とは本当はどんなふうなのか」
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 結局のところ、私たちは「外に」あるものをほとんど自覚していない。脳が時間と資源を節約する憶測を立てて、必要な場合にだけ世界を見るようにしている。
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単行本p.77

 様々な錯視や錯覚の例をもとに、私たちの「知覚」の大半を占めているのは脳による憶測だということを示します。「意識」に最小限の処理結果だけを与えてなだめている間に、私たちの脳は、生き延びるために、外界からやってくる情報に反応するのに忙しいのです。


「第3章 脳と心の隙間に注意」
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 とんでもない話に聞こえるかもしれないが、これらの発見はすべて、統計的な有意性の閾値を越えている。影響は大きくないが、真実であることを実証できる。私たちは自分ではアクセスできない動因、統計が暴かなければ信じないような動因に影響されているのだ。
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単行本p.90

 脳には意識が直接アクセスできない知識があり、脳はそれに基づいて自動的に判断を下している。車線変更、ヒヨコの雌雄鑑別、対空監視、自分では認識できない偏見の検証実験、本人の名前とその配偶者や住所や職業の名前に統計的に有為な関係があることの発見、プライミング効果、虫の知らせを人為的に作り出す実験、その他その他。多くの興味深い研究成果が示されます。


「第4章 考えられる考えの種類」
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私たちは自分の行動のまさに原動力である本能を見ることができない。これらのプログラムにアクセスできないのは、それが重要でないからではなく、きわめて重要だからである。(中略)性的に誘惑し、暗闇を恐れ、共感し、言い争い、嫉妬し、公平さを求め、解決策を探し、近親相姦を避け、顔の表情を認識する。これらの行為を支えている広大な神経回路網はとてもうまく調整されているので、私たちはその正常な動きを自覚しない。
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単行本p.121、123

 感覚の欠如に対する適応、共感覚、知的能力の著しい偏りに見られる進化の影響、意識されない性的誘惑のメカニズム。私たちの遺伝子に焼き付けられ、行動どころか「思考」「認識」そのものの可能性を強く制限している様々な「本能」の働きについて示します。


「第5章 脳はライバルからなるチーム」
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脳は議会制民主主義に似ている。大勢の重複するエキスパートがいて、さまざまな選択に介入し、競いあっている。ウォルト・ホイットマンがいみじくも要約したように、私たちは大きくて、私たちのなかには大勢がいるのだ。そしてその大勢はつねに争っている。(中略)あなたの行動、つまりあなたが実際にやることは、争いの最終結果にすぎない。しかし話はもっとおもしろくなる。というのも、脳内の各党は相互作用について学ぶことができる。その結果、状況はすぐに短期的欲求と長期的願望の単純な腕相撲の域を出て、驚くほど高度な交渉プロセスの世界に入る。
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単行本p.147、161

 人は酩酊やある種の脳障害によって簡単に人格が変わる。では「本当の自分」なるものは存在するのだろうか。実は、脳内では一つの判断に関わる複数のモジュールが互いに競合しており、どれが「本当の自分」でもないことが分かっている。メル・ギブソンの暴言、トロッコ問題と身体性の関係、サブプライムローン破綻、クリスマス預金に人気がある理由、様々な疾病失認。「互いに競合し葛藤する複数のゾンビ・システムから構成された脳」という観点から、意識が進化してきた理由を探ります。


「第6章 非難に値するかどうかを問うことが、なぜ的はずれなのか」
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 問題の核心は、あなたの行動のすべてが根本的に自動運転なのか、それとも生物学のルールとは無関係の選択する「自由」がわずかでもあるのかどうか、である。この点に哲学者も科学者もつねに固執している。(中略)自由意思があるという私たちの希望や直感に反して、その存在を納得のいくように確定する論拠はいまのところない。
 自由意思の問題は、有責性のことを考えると非常に重要になる。最近罪を犯した者が裁判官席の前に立つとき、法制度は彼が非難に値するかどうかを知りたがる。
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単行本p.222

 脳が下す判断に意識はほとんどまったく関与していないという冷厳な事実から、いわゆる自由意思は存在しないか、少なくとも人の言動における責任主体にはなり得ないことが分かる。では、犯罪者をその行為の「責任」によって罰するのは不合理ではないだろうか。責任ではなく矯正可能性に基づく処置、という新たな法体系が提案されます。


「第7章 君主制後の世界」
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何兆ものシナプスが同時に会話している。この広大な卵のような構造の超薄型回路は、現代科学には思いもよらないアルゴリズムを実行している。そしてこれらの神経プログラムが私たちの決断、愛情、欲求、恐怖、願望を引き起こす。私にとって、この理解は崇高な経験であり、どんな聖典に示されているどんなことよりも素晴らしい。科学の限界の向こうにほかに何が存在するかは、将来の世代に託された未解決の問題だが、たどえ厳密な唯物論がその答えだと判明しても、それで十分だ。
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単行本p.296

 自由意思の否定は、人間の尊厳を失わせるのではないか。ハードな唯物論がはらむ様々な問題と思索を通じて「私たち自身を知る」ということの意味を探ります。