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『バベル九朔』(万城目学) [読書(小説・詩)]


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「彼が作ったの、ここのすべてを。この場所はバベル。彼はこの世界の王。この世界のすべてを司っている」
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単行本p.221


 五階建ての古びたテナントビル「バベル九朔」の管理人を務めながら、作家デビューを夢見て原稿を書き続けている男。彼の前に現れた謎のカラス女は言う、「扉は、どこ?」と。自伝的要素を含む最新長篇。単行本(角川書店)出版は2016年3月、Kindle版配信は2016年3月です。


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 その後は「どうして小説家になろうと思ったのか?」という質問を、会社で会う人会う人に投げかけられるようになるわけだが、これがうまく答えることができない。きっと、今も完璧には答えられないだろう。
 きっかけは常に一つじゃない。卵が割れて、真下にぽとんと中身が落ちる。そんなわかりやすい道筋で生まれるわけではなく、幾つもの支流がひょんなことでぶつかり合い、これまでの水流では乗り越えることがなかった堤の向こう側が、うっかり氾濫でも起こせば手が届かないこともないと気づく――、そんな偶然の組み合わせの結果だと思うのだ。
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単行本p.98


 作家になるために会社を辞め、しょぼいテナントビルの管理人を務めながらひたすら原稿を書いている男。もう何年もひたすら書き、せっせと新人賞に応募しているのに、一向に夢に近づく気配がない。


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 これまで誰にも教えたことのない事実がある。
 この二年間、小説を書いては新人賞に送る生活を続けてきたが、俺はたったの一度も新人賞の一次選考を通過したことがない。
 だが、どれほど落選を続けようと、賞に応募し、選考結果を知らせる雑誌が出るまでの間、俺は未来を保留することができた。可能性を担保することができた。しかし、長篇原稿を応募し損ねた俺には、保留すべき未来も、担保すべき可能性も失われてしまった。俺にはもう、次に準備している作品もなければ、それを書き終えるまでの金の余裕もない。(中略)俺はどうしても現実を見てしまう。考えないようにしても、本当はとうに知っているのだ。自分が崖っぷちにいることを。いや、すでに崖から落下していることを。
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単行本p.102、103


 そんな未来も夢も失った男の前に現れた巨大なカラス。それが全身黒ずくめの女に化けたとき、物語は大きく動いてゆきます。


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 全身が黒一色に覆われた女が、まるで俺を待ち構えていたかのように、少し足を開き腰に手を置いた姿勢で立っていた。(中略)
「扉は、どこ?」
 女がほんの少し首の位置を傾けただけで、身体を覆う漆黒のラインに銀色のぬめりが音もなく走った。無意識のうちに、視線を上方へさまよわせた。最上部のへりに先ほどまでいたカラスの姿は見当たらなかった。
「あなたが扉の在りかを知ってることはわかっている。ここがバベルだってこともわかっている。やっと突き止めた。いったい、どれだけ飛んだか」
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単行本p.78


 あ、これは漫画やアニメでよくある、異世界への「扉」を通り抜けて、この世界の命運のかかった戦いに巻き込まれるパターンや。読者の予想通り、主人公は空に向かって果てしなくのびるバベルの塔を一歩一歩のぼってゆくはめに。なんでこんなことに。


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こうしておけば、ああしておけば、こんな目に遭わずに済んだ、という後悔をしたくても、分岐点すら見つけることができない。なぜなら、俺はまったく悪くないからだ。ぼろ雑居ビルの管理人として電気代や水道代を計算し、共用部分を掃除し、踊り場に殺鼠剤をまき、部屋でひたすら何ら芽が出ない小説を書いていた、それだけの毎日を送っていた男なのに、どうして、どうして、どうして――。
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単行本p.351


 果たして塔の最上階に待っているものは何か。カラス女の目的とは。そして、バベルを創った「世界の王」とは。何もかもが謎のまま、ひたすら階段を昇る主人公。途中で出会う店は、どれもこれも、かつて「バベル九朔」に店を開き、繁盛しないまま夢破れて商売を畳んだテナントばかり。もしやここは「バベル九朔」の過去が積み重なって出来た塔なのか。

 たぶんバベルは「小説」の、塔は積み重なった「原稿用紙」の、それぞれの象徴なんだろうな、と思う読者。であれば、塔を登り切ったところには「祝 第4回ボイルドエッグズ新人賞受賞!」とか書いてあるのでは。

 そんな予想を裏切るように、塔のなかで待っているのは二転三転するプロット、そして最終的にどこに着地するのか分からない展開。

 というわけで、自伝的要素を含む異色のファンタジー作品です。個人的には、ファンタジーへと飛翔する前、テナントビル管理人の地味な仕事(カラスに荒らされたゴミを片付けたり水道メーターの数値を記録したり)をリアルに描写したパートがむしろお気に入り。このままデビュー前の生活を書いた私小説になってもいいのではないか、と思ったくらいです。



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