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『浮遊霊ブラジル』(津村記久子) [読書(小説・詩)]


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一日に何回も殺される前の週は、おとなしく小説を読んでいたのだが、一日に四〇〇ページのノルマを課せられた上に、すべての本の最後の数ページが破かれていた。それをわかった上で読まされたのだった。
(中略)
 そして今週は、十二時間交替ぐらいで私はさまざまな役割に成り代わって、いろいろな極限状態を追体験している。昨日の午前はJFKを暗殺したかと思うと、午後はジャック・ルビーに暗殺された。明日は、宇宙ステーションの外壁の修理をするらしい。カノッサでは屈辱的な経験もした。
(中略)
 今日の早くには、2006年W杯決勝のジダンになっていた。私は、自分の引退する試合がW杯の決勝という人類史上ありえないような花道で、マテラッツィに頭突きをした。あー頭突きするんだ、と知りながらした。思い出すだけでも、一瞬で胃潰瘍になりそうな気分になる。地獄に来てみて、いやだな、とか、しんどいな、とか、めんどくさいな、と思うことはしょっちゅうなのだが、この時はさすがに、よそ様の修羅場を消費しすぎました、と反省した。
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単行本p.72


 死んだ作家が地獄で受けるわりと面倒な刑罰。辛いとき悲しいとき落ち込んでいるときに限って他人から道を尋ねられるしょんぼり運命。西アイルランドに行けなかったのが心残りで浮遊霊となった男がなぜかブラジルに。奇抜なシチュエーションで人生あるあるをしみじみ描く七篇を収録した短篇集。単行本(文藝春秋社)出版は2016年10月です。


[収録作品]

『給水塔と亀』
『うどん屋のジェンダー、またはコルネさん』
『アイトール・ベラスコの新しい妻』
『地獄』
『運命』
『個性』
『浮遊霊ブラジル』


『給水塔と亀』
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 給水塔があったのだ。どこかは思い出せない。畑の中だったか、誰かの家の敷地の中だったか。私は、白群というのか、瓶覗というのか、美しい水色に塗装された、小学校よりも背の高いその威容に惹かれて、友達と遊ぶ合間に、彼らの目を盗んでいつも見上げていた。というか、給水塔だというのは、大人になってから知った。私は、ああいうものを建てたい、と漠然と思って、水周り関連に強いという建設会社に入社した。
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単行本p.12

 うどんの製麺所、給水塔、前の住人が残していった亀。故郷に戻ってきた男が、子供時代を過ごした様々な場所を再訪しつつ、暮らしてゆく決意をする。


『うどん屋のジェンダー、またはコルネさん』
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 静けさ。この話におけるうどん屋には、それが全くない。常駐している店主と思しきおやじが、超気さくという態で客に話しかけまくる店。この店主のトークも、店の売りの一つと考えて良い、と雑誌などにはある。(中略)結構こと細かい。その店はあっさりしたうどんを売っているのに、店主がこってりしている、という矛盾を抱えたまま繁盛していた。
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単行本p.26

 客にこと細かにうどんの蘊蓄を語るうどん屋のおやじ。そこで何度か見かけたコルネさん(仮名)は、いつもいつも仕事に疲れてぎりぎりな感じだった。一方、店主が話しかける相手は女性ばかりだということに気づく語り手。ちょっとした、いらっ、が積もり積もって、ついに爆発する瞬間がやってくる。


『アイトール・ベラスコの新しい妻』
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 私自身も無意識にそういうことに参加していたのか、していなかったのかについては定かではない。ただずっと、誰かを仲間外れにしたり、無視したり、教材を隠したりして青ざめさせるよりは、男子の誰それが五厘刈りにしてきたので頭を触らせて欲しい、だとか、誰々ちゃんの眼鏡の度が強そうなので掛けさせて欲しい、とか、そんなことにこだわっていいのは小二までだと頭ではわかっているが、今一度BCGの小さい正方形に並んだ二組の九つの跡が欲しいものだ、などと考えていた。特にBCGにはこだわりがあった。あれがあれば、自分は腕を眺めながらトイレで何時間でも過ごせそうな気がしていた。そして日替わりで、その理由を創作する。
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単行本p.54

 海外のサッカー選手のゴシップを追っているうちに、そのスター選手の再婚相手が小学生のときの友達であることに気づく語り手。その子はクラスのボスに目をつけられ、ほぼ全員からいじめられていたのだった。他人を支配することに異様に執着する子、そんなことに興味のない子、見返してやると心に誓う子、彼らのその後の人生を鮮やかに対比してみせる短篇。


『地獄』
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最近は他の鬼もかよちゃんに打ち明け話をしに来るようになった。かよちゃんはうんうんと聞いてやり、適切な合いの手も入れるのだが、いいかげん疲れてきたという。鬼にもいろんな悩みがある。西園寺さんの、それは女が寂しさに任せていいようにあんたを利用しているだけ、と一瞬でわかるような悩みだとか、働いても働いても給料がなかなか上がらない、だとか、正直この仕事は向いていないような気がする、といった深刻なもの、野菜が高い、よく眠れない、本当は血の池地獄に勤めたかった、肩がこる、常に眠い、仕事はいいが家事はしたくない、など多岐にわたる。
(中略)
 悩みは悩みとして、合わない理由の説明について、あの人は元ヤンキーだから、とか、上司の愛人だったから、とか、鉄道研究会出身だから、など、それぞれの意外な過去に関する言及があった際に、かよちゃんは苦しむのだという。
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単行本p.83

 親友のかよちゃんと一緒に事故で死んでしまった作家。「物語消費しすぎ地獄」に落とされて、そこで様々な「物語」を追体験するというそれなりに過酷な刑罰を受けるはめに。一方、かよちゃんは「おしゃべり下衆野郎地獄」で「断しゃべ」の刑に苦しめられていた。しかも、仕事の悩みから不倫の泥沼まで、鬼たちが色々と悩み事を話すのでけっこう面倒。特に上司、じゃなかった担当鬼の恋愛相談が長く、連日のサービス残業だという。どこの職場も、じゃなかった地獄も、大変だなあ。


『運命』
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 ごめんなさい、と思った。私でいいはずがない。きっととろくさい個体が生まれる。なんとなくわかる。不幸ではないし、最終的にやるべきことの一つ二つは果たすのだけれど、回り道が多くて、とにかく他人の案内ばかりしている個体。
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単行本p.126

 受験に落ちて、病気で、絶望しているとき。異国の地で途方にくれているとき。恋人にふられて彷徨っているとき。なぜか赤の他人に道を尋ねられる。なんでよりによって私に声をかけるんだよ、このタイミングで。でも、思い起こしてみれば、自分はそういう運命にあるらしい。宇宙ステーションでは道に迷った宇宙人と遭遇するし、死んでしまったら三途の川はどちらでしょうかと亡者に尋ねられるし、思い起こせば生後二カ月のとき病院内で小児科の方向を尋ねられたのが、いやいや、それ以前に、卵子はどっちにあるか尋ねられたことが……。シリアスな話からどんどん無茶な方向にとんでゆく落語のような短篇。


『個性』
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 私は、ここ数日の板東さんの変わりように、ちょっと油断していられないものを感じていたのだが、秋吉君は、板東さんのTシャツを指さして、トラー、とのんきに喜んでいた。板東さんは、ぶすっとした顔で秋吉君をしばらく睨んでいたかと思うと、秋吉君の視界からトラを消すように、右向け右で私たちから離れ、背を向けて課題に取りかかった。
「トラが行っちゃったよ」
「トラじゃないよ、板東さんだよ」
「え、板東さんなのか」
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単行本p.135

 最近、板東さんの様子がちょっとおかしい。それまで無口で地味で目立たない子だったのに、いきなり変なTシャツ着てきたり、アフロのヅラをかぶったり。個性的というか、なんだそれ。どうやら同じ班の秋吉君の目にとまりたい、という動機でやっているようだが、秋吉君は秋吉君で、板東さんの姿がまったく見えないらしいのだ。どんなに個性的な外見にしても振り向いてもらえない、というより目撃されない、というかUMA扱い、いらだった板東さんはついに……。ちょっと変てこな青春小説。


『浮遊霊ブラジル』
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私は漠然とした不安を感じ始めていた。私は、なんとしてでもアラン諸島に行かなければ、あの世へ行くことはできないのだ、ということに気付いたのは、だいたいこの頃だった。ロナウドさんを始め、周囲の人々にアラン諸島へ向かう気配はまったくなく、私は途方に暮れて日々を過ごすようになっていた。
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単行本p.170

 西アイルランド、アラン諸島への旅行を楽しみにしているうちに死んで浮遊霊となってしまった語り手。アラン諸島に行かない限り成仏できないので、とりあえず何とかして他人に憑依してアラン諸島を目指そうとするも、ただ憑依するだけで相手を操ることは出来ないもので、まったくどうしようもない。だが、ときまさにリオ五輪。何とかブラジルまで辿り着けば、選手村にアラン諸島出身者がいるかも知れない。人から人へと憑依しながら遠い異国の地を目指す浮遊霊のもどかしい冒険譚。



タグ:津村記久子
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