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『ベスト・ストーリーズⅡ 蛇の靴』(若島正:編、岸本佐知子、他:翻訳) [読書(小説・詩)]

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ウィリアム・ショーンの編集長在任期間中には、短篇小説だけでなく長篇やノンフィクションにも大きなスペースが与えられ、歴史に残るような作品が一挙掲載されることもしばしばだった。(中略)また、この時期にはJ・D・サリンジャーをはじめとして、《ニューヨーカー》誌を主な活躍の場とする作家たちが輩出した。《ニューヨーカー》に常勤ライターとして勤務していたこともあるジョン・アップダイクの他にも、ジョン・チーヴァー、ドナルド・バーセルミ、アン・ビーティが挙げられる。
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単行本p.384


 ここ90年間に《ニューヨーカー》誌に掲載された作品から選ばれた傑作を収録する短篇アンソロジーシリーズ。そのうち1960年代から1980年代までをカバーする第2巻です。単行本(早川書房)出版は2016年4月。

 ちなみに、1920年代から1950年代までをカバーする第1巻の紹介はこちら。


  2016年04月11日の日記
  『ベスト・ストーリーズⅠ ぴょんぴょんウサギ球』(若島正:編、岸本佐知子、中村和恵、他:翻訳)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-04-11


 さて第2巻になると、アン・ビーティやドナルド・バーセルミなどなじみ深い作家が登場するようになります。さらにはアーシュラ・K・ル・グィン、ジーン・ウルフというSF・ファンタジー読者にとって大切な名前も。さらには岸本佐知子さんが訳したニコルソン・ベイカーの初期作品という、ファンには見逃せない一篇も収録されています。


[収録作品]

『幸先良い出だし』(シルヴィア・タウンゼンド・ウォーナー)
『声はどこから』(ユードラ・ウェルティ)
『俺たちに明日はない』(ポーリーン・ケール)
『手紙を書く人』(アイザック・バシェヴィス・シンガー)
『ホフステッドとジーン?および、他者たち』(ハロルド・ブロドキー)
『お静かに願いません、只今方向転換中!』(S・J・ペレルマン)
『蛇の靴』(アン・ビーティ)
『大尉の御曹司』(ピーター・テイラー)
『野球の織り糸』(ロジャー・エンジェル)
『脅威』(ドナルド・バーセルミ)
『シュノーケリング』(ニコルソン・ベイカー)
『教授のおうち』(アーシュラ・K・ル・グィン)
『列車に乗って』(ジーン・ウルフ)
『マル・ヌエバ』(マーク・ヘルプリン)



『手紙を書く人』(アイザック・バシェヴィス・シンガー)
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めったに感じたことのない喜びがハーマンを包んだ。彼はまだ、死の淵から生還したことを神に感謝していなかった。逆に憤慨さえ覚えていた。しかし、ネズミを生かしておいてくれたことについては、“天上の力”を讃えずにはいられなかった。(中略)ハーマンは涙を流すような男ではなかった。カローミンの破壊で家族が死んだという知らせを受け取ったときも、目は乾いたままだった。しかし今、彼の顔は濡れ、ほてっていた。彼はネズミ殺しの罪を背負う運命ではなかった。
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単行本p.113

 ナチスに家族全員を殺され、米国に逃げて孤独に生きるユダヤ人の老人。勤め先は倒産し、粗末な部屋にただ一人とり残され、今や肺炎で死にかけている。悲惨そのものの境遇なのに、彼の心を占めているのは、部屋に「同居」している一匹のネズミのことだった。自分が餌をやらなければネズミは死んでしまうだろう。それなのに彼は死にかけており、もう動けないのだ。

 すべてを奪われすべてに絶望した孤独な老人に訪れるささやかな奇跡。どこか深いところで心をうつ作品。


『お静かに願いません、只今方向転換中!』(S・J・ペレルマン)
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カメオ出演を承諾させた何人かの大スターのために、至急に台詞と場面設定を決めてほしいのだと、彼は告白した。扶養家族のために至急に食物がほしいのだと、同じように素直に私は告白した。彼はどんよりした、催眠術師のような目で私を見つめ、私の運勢を占い始めた。〈北極星号〉のような大きさのヨットや、競走馬の廓や、ジェイン・ラッセルをしのぐ乳白色の肌の美女が群れをなす後宮が見えるということだった。私は彼の予知能力に打たれはしたが、冷静さを失うことなく、すぐに現金がほしいのだと言った。彼は私を罵り、着衣をかきむしり、嘆きの声を張り上げたが、やがて出来高払いという原則に同意した。それから数週間、夜毎に私どもはベヴァリー・ヒルズ・ホテルの駐車場で逢った。私は翌日の撮影に必要なシナリオの原稿を握りしめ、彼はそれに見合う現金を手にしていた。阿吽の呼吸で私どもは用意して来たものを手早く交換し、それぞれの車に飛び乗って走り去るのだった。
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単行本p.179

 1956年に公開された映画『八十日間世界一周』の脚本を書いたペレルマンが、その裏話を綴ったエッセイシリーズの一篇。映画の製作プロセスやプロデューサーの俗悪ぶりを思う存分からかい倒す辛辣なユーモア短篇。


『蛇の靴』(アン・ビーティ)
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「問題は、これからどこへ行くか、だ」リチャードがいった。
「シーフード・レストランはどう? モーテルのオーナーに聞いたんだけど、ベビーシッターを呼んでくれるそうよ」
 リチャードは首を振った。
「駄目?」アリスはがっかりした。
「いや、それはいいんだ」リチャードはいった。「さっきの質問は、実存的な問いかけのつもりだったんだが」
「ジツゾンテキって何?」小さな女の子が尋ねた。
「きみのお父さんがでっちあげた言葉だよ」サムがいった。
「この子をからかわないで」アリスがいった。
「あの男の人に借りた双眼鏡、また覗きたいな」小さな女の子はいった。
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単行本p.198

 離婚した夫婦、元夫の兄、元妻の娘、再婚後に生まれた赤ん坊。何でかよく分からないうちに、彼らは同じモーテルに泊まることになる。「蛇には足があるんだが、夏になると脱ぎ捨てるんだよ。森の中にちっちゃな靴があったら、それは蛇の靴だ」(単行本p.184)といったしびれるセリフが飛び交い、無意味にみえて意味深なようにも思える絵空事めいているのに限りなくリアルに感じられるようなドラマが展開するような展開しないような、その見事なバランスと会話のセンスに脱帽する他はない傑作短篇。


『脅威』(ドナルド・バーセルミ)
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 たとえばナカミチ・モデル500は、通常の長さの書物であれば7秒で脱構築し、歪率0.5パーセント、SN比124db、ダンピング・ファクターは60、と米国製書評のとうてい及ばないレベルのテクノロジーに達していた。アメリカの短評は往々にして手書きで作成され、多くの場合ジョン・ケネス・ガルブレイスかジョイス・キャロル・オーツによって書かれていたが、対して日本の書評はコンピュータに管理された白衣の専門家チームにより、社歌(「進め、ナカミチ、永遠に」)を歌う合間に生産された。またこれらの輸入品には、無骨ででっぷりしたアメリカの書評には望むべくもない新機軸がいくつも見られた。サンヨー・モデル350は「ハイ」すなわち過度の絶賛書評を特殊マイクロプロセッサー・ユニットによって抑制するようになっており、またこちらはユニット自体に社歌(「偉大さは、サンヨーよ、可能なのだ」)を歌う機能が付いていた。
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単行本p.287

 米国の書評産業は日本からの輸入品によって深刻な打撃を受けている。旧態依然とした書評家では、最新テクノロジーと護送船団方式によって容赦ない貿易戦争を仕掛けてくる日本に対して勝ち目はないだろう。素直に「作品けなされた、書評家死ね」と言えば済むところを、米国の出版事情から日本のカイシャ(毎朝、従業員が社歌を詠唱したり)まで手当たり次第に皮肉まみれにしてうっぷんを晴らす爆笑ユーモア短篇。ちなみに1980年代には、米国の産業界において「日本の脅威」は深刻な話題だったんです。


『シュノーケリング』(ニコルソン・ベイカー)
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創作意欲の爆発のおもむくままに、ロイヤルは十以上もの作品に一度に着手した。海岸を埋めつくしてのたうつオットセイの群れの中に一人たたずむ尼僧の姿を空撮でとらえたシーンで幕を開ける映画の脚本(そこから先はまだできていない)。ジョイス・キャロル・オーツ全作品を網羅する用語索引(相対使用頻度つき)。「太陽をオムレツで包むことができたら/どんなオムレツができるだろう!」で始まる叙事詩(そこから先はまだできていない)。政治家ダニエル・パトリック・モイニハンの生涯を題材にしたフレスコ画の連作と、同じく韻文劇。国務省にもコンタクトを取った――国家の防衛最高機密を、自分の作曲したピアノソナタの旋律を基に暗号化することはできないか? 頭が固いと見られることを恐れてか、国務省は可能性はあると回答してきた。だがそのころにはロイヤルの興味はもう別の分野に移っていた。
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単行本p.304

 睡眠代行業社と契約した作家が、24時間眠らずに済むハイパーアクティブ状態でばりばり仕事をする。だがもちろん、彼に不足しているのは時間ではなく、才能だった。暴走する彼を待っていた運命とは。軽妙なユーモア短篇ながら、そこはやはりニコルソン・ベイカー。


『教授のおうち』(アーシュラ・K・ル・グィン)
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十一月の暮れかたに闇に呑まれていくその部屋を覗き込むと、窓越しのはかないひかりのなかに屋根や露台の鋭角的な輪郭が映った。どちらも、変わらず乾いていた。ここは雨でなく埃が降る。不公平だな、と彼は思った。教授は家の正面をひらいて、暖炉のスイッチを入れた。絨毯に蹲るちいさな猫を、炎が赤々と照らしだす。ぬくもりという幻影、避難所という幻想。台所の戸口には、“キティ”と書かれた青いボウルに、半分までの乾いたミルクが満ちていた。そして子どもは、もういない。
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単行本p.324

 もともと幼い娘のために買ってきたドールハウスに、教授は夢中になった。極小サイズの家具をそろえ、丁寧に掃除や修理を行い、まるでそこに住んでいるような具合。俗事にかまけているときも、心はドールハウスの中に、陶器の猫と共に、あるのだった。何しろル・グィンが書いた「ぬくもりという幻影、避難所という幻想」ですから、現実からの飛躍が何一つなくてもそれはファンタジー。


『列車に乗って』(ジーン・ウルフ)
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 ぼくは列車の全長についていくつか仮説を立ててみた。とても長いか、とても短いかのどちらかで、というのも、カーヴを曲がるときに(めったにないが)、機関車が見えないからだ。ひょっとすると無限なのか――ただ、それは開いた無限なのかもしれないし、閉じた無限なのかもしれない。もし線路が西に伸びていて、大きな円弧を描き、線路のどこにも車両があるとしたら、回転する大地が際限なく車両を通り過ぎてゆくことにはならないか? 窓から見える景色はまさしくそうだ。一方、もし線路全体がまっすぐだとすれば(その大半はたしかにそう見える)、それは星空のどこまでも伸びていくことになる。ぼくにはそれも見える。たぶん、機関車が見えないのは、ぼくたちのうしろにあるからだろう。
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単行本p.328

 いつから乗っているのか、いつまで乗っているのか、分からない列車に乗って僕は旅をしている。人生の暗喩かと思わせておいて宇宙論。凄腕のSF短篇。


『マル・ヌエバ』(マーク・ヘルプリン)
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私はよく想像した。波の中のどこか、すぐ近くに、かぎりなく優しく包容力に満ちたもうひとつの世界があり、そこではあらゆる疑念が払いのけられ、あらゆる矛盾が解決され、あらゆる恐怖が消え去るのだと。
 マル・ヌエバで過ごした最後の夏の日々のひとつひとつを、私は心から慈しむようにして覚えている。すべてが海と結びついていた。
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単行本p.337

 中南米の独裁国家マル・ヌエバ。語り手は、そこで過ごした最後の夏のことを思い出す。ごくささやかな、幼い少年の小さな冒険から始まった出来事。永遠に忘れることが出来ないあの日と同じ海。不思議なことに、目を閉じて浮かぶものは現実より鮮やかなのだ。美しい風景描写と権力の不気味さを巧みに混ぜ合わせ、深い感動を呼ぶ傑作。



タグ:岸本佐知子
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『あまたの星、宝冠のごとく』(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、伊藤典夫・小野田和子:翻訳) [読書(SF)]


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1987年5月19日早朝、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアというペンネームを使用していたアリス・シェルドンは、当時84歳にして寝たきりの夫ハンティントン・シェルドンを射殺し、その直後に自分自身にも銃弾を撃ち込んだ。享年71。責任感の強い元軍人ならではのマッチョな責任の取り方とも、老々介護の果ての夫婦心中とも解釈できる事件であり、本書にもその雰囲気が封じ込められている。
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文庫版p.585

 あの衝撃的な死の翌年に刊行された、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア最晩年の作品を収録した短篇集。自身の死や絶望をも冷徹に解剖しあざけり笑うような研ぎ澄まされた十篇。文庫版(早川書房)出版は2016年2月、Kindle版配信は2016年3月です。


[収録作品]

『アングリ降臨』
『悪魔、天国へいく』
『肉』
『すべてこの世も天国も』
『ヤンキー・ドゥードゥル』
『いっしょに生きよう』
『昨夜も今夜も、また明日の夜も』
『もどれ、過去へもどれ』
『地球は蛇のごとくあらたに』
『死のさなかにも生きてあり』


『肉』
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容赦なく生まれつづけ、ここやほかのセンターに仮借なく押しよせてくる赤ん坊、赤ん坊、赤ん坊。ときどき、赤ん坊の洪水で溺れてしまいそうな気がすることがある。赤ん坊は最初はひとりひとり痛ましい存在なのだが、最後にはただの数字になってしまう。委員会に示した134人とはなんの関係もない数字に。詮索好きなミスター・ジョージの目から真実を覆い隠すという彼女の仕事のよりどころとなる数字に。
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文庫版p.143

 とうとう妊娠中絶が非合法化された近未来の米国。保守派が命の勝利を祝ううちにも、様々な事情で赤ん坊を育てることが出来ない女たちが全国の養子縁組センターに津波のように押し寄せてくる。引き取られる可能性があるのは「まともな」赤ん坊(健康、金髪、碧眼、白人)だけ。毎日毎日、大量に預けられる「その他」の赤ん坊たちがどうなるのか、胎児の生きる権利を守る中絶反対派の人々は誰も気にしていなかった。

 ジョナサン・スウィフト流の風刺作品ですが、風刺というにはあまりにも痛々しく、冷徹な表層の下で煮えたぎる怒りのマグマに焼き尽くされるような短篇。


『ヤンキー・ドゥードゥル』
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殺せ! 殺せ! 彼は訓練を受け……いつのまにか赤いカプセルを与えられて、発砲する状況になったら一錠飲めと指示された。BZ――戦闘地帯(バトルゾーン)――は、人を吹き飛ばすことへのためらいを一掃し、爽快感を与えてくれた。じつをいえば、なにをするにもためらいというものがなくなっていた。だが幸いなことにBZの影響下での行動の記憶はあまりはっきりしていない。かれらは小さな集落をいくつか掃討し、火を放った。ほかにも断片的な記憶がある――女の肌、あふれかえる悲鳴、そしてずっと彼を悩ませつづけている、ある場面――いまはそのことは考えたくなかった。
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文庫版p.239

 兵士を麻薬漬けにして戦場に送り込む近未来の米軍。負傷して除隊した主人公は、リハビリ施設で解毒プログラムを施される。重度中毒の身体からドラッグが抜けてゆくときの死ぬほどの苦痛。だが彼を苦しめているのは肉体的苦痛だけではなかった。戦場における残虐行為の記憶が、彼を死に駆り立ててゆくのだった。

 経済的徴兵制で集めた貧しい若者たちを、消耗品として戦場に送り込み続ける現代戦の本質をついた短篇。怒りの銃口を向けるべき相手は誰なのか。


『もどれ、過去へもどれ』
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 そして愛が消えていった。その記憶さえも。混乱しながらも、彼女はよろこんでいた――あたしが落ちぶれたのは愛のせい、彼の愛があたしを潮騒と小鳥の鳴き声の世界から引き離した。彼への愛があたしをここに引きとめている――とにかく、すべては愛のせい。いま逃れなければ、永遠に迷子になってしまう。いまやらなければ。
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文庫版p.457

 いずれ大金持ちの男と結婚して、セレブでゴージャスでアッパーでハッピーな人生を送るつもりの若く美人で小金持ちのヒロイン。未来へタイムトラベルしたところ、年老いた自分はどうにもぱっとしない地味な生活をしていると判明。結婚相手は、クラスいち人気のないガリ勉ナードだった男。しかも米国社会はぐずぐずに崩壊しつつある。こんな未来は間違っている、何としてでも変えてやる、と決意した彼女は、拳銃を用意してチャンスを待つのだが……。

 真実の愛は、人を救えるのか。いかにも明るいラブコメ展開を予想させておいて、容赦なく裏切ってくる辛辣な短篇。読後、著者自身が下した決断を思い出すところまで計算に入っているとしか思えない切れ味。


『地球は蛇のごとくあらたに』
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「ハドリー、〈地球〉が太陽から離れていくのよ。空気が凍りつくわ。なにもかも死んでしまう、なにもかも。地殻が不安定になる。そうなったら、たぶん大陸もばらばらに分解してしまうでしょうね」
「この世の終わりだ」彼はため息をついた。「いっただろう?」
「終わり? いいえ――はじまりよ!」彼女は恍惚とした表情で、雲の壁の上の低いところで燃えている太陽を見あげた。「〈彼〉はついに自由になるのよ。ついに! ああ、ダーリン!」
「まだご執心なんだ」ハドリーがいった。
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文庫版p.535

 幼い頃から〈地球〉に恋い焦がれてきたヒロイン。早く私を奪って、あなたの愛で激しく貫いて。愛に駆り立てられた彼女は、〈地球〉から選ばれた花嫁となるべく、ありとあらゆる手段を尽くす。環境保護運動とか。人類絶滅計画とか。だが、なかなか彼女の愛にこたえてくれない〈地球〉。焦った彼女は、彼の愛を確かめるべく、ついに実力行使に出るのであった。

 ヒステリックなまでの勢いとユーモアで最後まで突っ走る短篇。何もかもに(とりわけ男に)絶望した挙げ句の笑うしかない境地を宇宙規模に拡大した強烈な寓話で、個人的には本書収録作品中もっとも気に入ってしまいましたすいませんなんかもう。



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『ネットロア ウェブ時代の「ハナシ」の伝承』(伊藤龍平) [読書(オカルト)]


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 一般的に「ネットロア」という語からイメージされるのは、ネット上で生まれた説話だろう。本書で扱う例でいえば、「くねくね」や「八尺様」「南極のニンゲン」などがそうである。しかし、本書ではそれに加えて、口承・書承の説話が源の話であっても、ネット上で流通しているものはすべて「ネットロア」と呼ぼうと思う。もとが書承説話であっても、口頭で流通していれば口承説話と目されるのと同じ理屈である。
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単行本p.15


 くねくね、八尺様、南極のニンゲン、探偵!ナイトスクープの封印回、杉沢村。ネットで流布する現代説話「ネットロア」、そしてその伝播媒体である「電承体」は、従来の地域共同体ベースの口承説話・書承説話と比べてどのような特性を持っているのだろうか。電承説話という、現代におけるハナシの伝播に関する研究書。単行本(青弓社)出版は2016年2月です。


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 おそらく、ネットロアを本格的に論じるのは本書が最初になるのではないかと思う。とかく新しいことに取り組もうとすると反発や戸惑いを招くこともあるが、いま・ここの説話伝承について考えるうえで、インターネットの存在を抜きにすることはできない。(中略)将来的には、口承・書承・電承の三ジャンルを往還する研究が説話研究の中核を担うようになると予想されるし、また、そうならなければいけないとも思う。
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単行本p.16、37


 台湾における説話伝承を追った『現代台湾鬼譚 海を渡った「学校の怪談」』の著者によるネットロア(電承説話)の研究書。ちなみに前作の紹介はこちら。


  2014年02月06日の日記
  『現代台湾鬼譚 海を渡った「学校の怪談」』(伊藤龍平、謝佳静)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-02-06


 ネットを媒体として伝承される説話=ネットロア。それは口頭や書籍による伝播と比べて、単に速度や規模の違いだけでなく、様々な意味で従来なかった新しい特性を備えていることが分かる一冊です。全体は7つの章から構成されています。


「第1章 ネットロア「くねくね」と電承体について」
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「くねくね」の話は、解釈しようという欲求にかられる2ちゃんねらーの潜在意識に作用するのだろう。通常、怪異は解釈されることによって非日常から日常へ変換されるが、「くねくね」の場合、解釈すると発狂するのである。解釈されるのを拒む怪異――それが「くねくね」の怖さであり、この怪談の生命力の強さもそこに由来するのだろう。
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単行本p.36

 まずは2ちゃんねる発祥の怪談「くねくね」を題材に、電承説話という研究対象について紹介します。


「第2章 再び「くねくね」と電承体について」
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「くねくね」を育んだ「2ちゃんねる」にはカテゴリーごとに七百を超える多種多様な「板」があり、それぞれの板のなかにはさらに数十から数百にも及ぶスレが生動している。そのスレの一つ一つが、電承体を生み出すネット空間の世間といえるだろう。口承の説話では見ることができない「世間」が、可視化されたものといえる。
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単行本p.54

 2ちゃんねるログの時系列分析結果をもとに、多様なスレ上で生成消滅を繰り返しているネットロア媒体たる「電承体」の特性を明らかにしてゆきます。


「第3章 『探偵!ナイトスクープ』の「謎のビニールひも」について」
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 各メディアには、媒介可能な領域と不可能な領域がある。先に挙げたような、テレビをテレビたらしめる要素の多くは、文字媒体では伝導されない。「謎のビニールひも」は、その媒介可能な要素を捨象して文字化したときに、怪談としての生命力を保持していたのだ。(中略)この問題について考える際、テレビからネットへとメディアを変えたときに生じる語りの変容に注意を払う必要がある。テレビで媒介可能な領域と不可能な領域、そしてネットで媒介可能な領域と不可能な領域、その間隙に新たなネットロアが生じる可能性もあり、反対に、消滅する可能性もある。
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単行本p.85、86

 テレビで放映された人気番組の特定の回が、あまりにヤバいので封印されたという噂。動画共有サイトが存在しない時代に、他人が確認したくても出来ない「テレビ目撃談」がネットで流布してゆく過程を追い、甚大な影響力を持つ従来メディアとネットとの相互作用から生まれるネットロア、という現象について考察します。


「第4章 「八尺様」とネットの身体について」
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背後にいる八尺様は画面に映されない。動画を見ている受け手はたいがい一人で、視聴時間も夜中が多いはずだ。この点も、意識された作りだと思われる。これを文字電承の八尺様と比較してみると、動画電承の特性がよくわかる。口承説話でも書承説話でも不可能だった体験を一人称として受け手に放り投げることが、電承説話では可能なのだ。(中略)そして、「怪異の見える風景」を「怪異の風景」に見せるために、八尺様動画の送り手は受け手の身体を想定して技巧を凝らした。
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単行本p.110

 受け手に「怪異を疑似体験させる」ことを可能にした電承説話を取り上げ、ネットにアクセスしているときの身体意識が伝承媒体の一部として機能する、という新たな特性を明らかにしてゆきます。


「第5章 鳥居みゆきの黒い笑いについて」
「第6章 『あまちゃん』がいる「郷土」について」
「第7章 「南極のニンゲン」とネット時代の「秘境」について」
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デジタル・ネイティブ以降の世代が抱く奇妙な全能感は、ネットへの幻想によって生み出されている。すなわち、検索することで森羅万象、あらゆるものにたどり着けるはずだという感覚である。ならば、検索でたどり着けない場所こそが、ネット時代の「秘境」といえるのではないか、ということになる。
 ネットロアのなかには享受者が検索して話を探し続けることを前提としたものがあるが、それなどはネット上の「秘境」を活用しているといえる。
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単行本p.179

 杉沢村、鮫島事件、きらさぎ駅、そして南極のニンゲン。かつて謎の怪物が棲息し奇怪な事件が起きる場所だった「秘境」が、今ではネット内に移動し、そこに辿り着こうとする人々が検索を繰り返すことで新たなネットロアが生まれ、拡散してゆく。芸人、ドラマ、怪生物など幅広いトピックをもとに、実際の土地とは異なるネット空間内「秘境」と一体化したネットロアの特性を考察してゆきます。



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『「居場所」のない男、「時間」がない女』(水無田気流) [読書(教養)]

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 この国の男性、とりわけサラリーマンには真の意味で仕事以外の人間関係が乏しく、居場所がなく、孤立しがちである。一方、女性には圧倒的に時間がない。しかも、お互いにその事実に気づいていない点もまた悲劇的である。
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単行本p.6


 家庭にも地域にも居場所がなく、職を失えばたちまち孤立する男。家事育児と仕事の両立という極めて困難な状況にすべての時間を犠牲にする女。性別分業という国家総動員体制の呪縛にとらわれ、誰も幸福になれないまま少子化によって滅びつつある日本社会の病理をえぐる好著。単行本(日本経済新聞出版社)出版は2015年6月です。


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 この国で、多くの夫と妻はたとえ「生涯」を共にしても、「生活」を共にしてはいないのである。いわゆる、夫が稼ぎ、妻が家事育児を引き受ける……という性別分業は、夫婦の生活時間と空間を分離してきた。
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単行本p.1


 離婚した母親が子育てしながら生きてゆくことの困難さを分析した話題作『シングルマザーの貧困』の著者が、今度は離婚していない夫婦が直面している不幸な状況を分析してくれます。ちなみに前著の紹介はこちら。


  2015年01月28日の日記
  『シングルマザーの貧困』(水無田気流)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2015-01-28


 タイトルの通り、職場にしか「居場所のない男」と、自分のために使う「時間がない女」の間にある「暗くて深い時空の溝」について、様々なデータにもとづいて具体的に見てゆきます。ぞっとする、というか、こんな仕打ちに黙って耐えるだけの人生に何の意味があるのか、それは人間性に対する侮辱ではないのかと、真剣に考え込まざるを得ないような惨状。でも、これが、日本における平均的な夫婦の姿なのです。

 少子化問題にしても、女性の就労問題にしても、決して「女性の(ための)問題」ではなく、男性の問題でもあること、そして優先度を上げて真剣に対処しなければならないことがしみじみと分かります。どなたにも一読をお勧めします。

 全体は三つのパートから構成されています。


「第1部 居場所のない男」
――――
 実は日本の男性は、国際比較から見ても、突出して「孤立化リスク」が高い。これは、男性が就業以外の社会参加に乏しいという社会的背景による。労働時間が長く、家族や地域社会とのかかわり合いも希薄な日本人男性は、仕事の場以外の人間関係も築けず、失職や定年退職が、孤立に結びつきやすいのだ。この現状を、私は日本男性の「関係貧困」とよぶ。
(中略)
 退職後の自分の人生など考えたこともない、という貴兄にこそ、立ち止まって考えていただきたい。自宅では妻に鬱陶しがられて居場所がなく、近隣の図書館などで日がな一日新聞紙面をめくり、子どもの声がうるさいと市役所にクレームを入れる時くらいしか他人とのコミュニケーション機会がない……。
 そんな老後は、果たして幸福だろうか。だが、放っておけばそのリスクが非常に高いのが、この国の男性である。
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単行本p.114、134

 日本男性が抱えている孤立リスクについて具体的に検証してゆきます。就労第一主義にとらわれ、家庭に居場所はなく、地域社会からは疎外され、未婚あるいは離婚すればすぐさま孤立死まっしぐら。世界各国との比較データから見ても異常としか言いようがない「マイノリティと見られないマイノリティ」である日本男性の姿を明らかにします。まるでこの国では、いまだ国家総動員体制が解除されてないかのようです。


「第2部 時間のない女」
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 仕事と育児の両立は難しい。そのことは、骨の髄から実感している。育児には愛情がともなって当たり前と思われているが、愛情も慢性的睡眠不足の前には無力である。
(中略)
 あえて言えば、この国の女性は、家族のためにどれだけ時間を差し出すことができるかが、愛情深さのパラメーターとされてしまう。昨今は、有償労働の場で時短勤務や成果主義などが論じられる日本だが、女性の家事育児などの無償労働は、愚直なまでの長時間労働だ。
 家事も育児も細やかに愛情をもって自発的に「やって当たり前」。できなければ人格を疑われるほどの非難を浴びるのが、日本の母親である。この終わりのなさと報われなさは、いったいどこから派生したのだろうか。
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単行本p.142、150

 自らの体験も織りまぜながら、日本社会における仕事と家事育児の両立がいかに困難であるかを具体的に解説してくれます。海外に比べてあまりにも高い要求と責任を引き受けさせられる日本の母親。途方もない長時間労働でありながら、全く労働評価の対象にされない家事育児。出産タイムリミットに追われつつ就業と結婚という二つのターゲットを追わなければならず、一度の失敗で人生を根こそぎ奪われてしまう若い女性たちの労苦。

 正直、早めにドロップアウトして逃げた方が人間らしいと思えるほどのひどさ。未婚化、少子化が進むのも無理はないというか、むしろ人間の尊厳を守るための覚悟の抵抗とすら感じられます。


「第3部 時空の歪みを超えるために」
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 大きすぎて見えない問題を、英語では「リビングにいる象」という。見慣れすぎて、異常が日常風景に親和し、誰もそのおかしさに気づかなくなっている状態を意味する。(中略)見える敵は戦いやすいが、巨大すぎて見えない敵は戦う気にすらならないのが人間である。
 危機を正視し、その解消のためになし得ること。その第一歩は、性別に大きく偏った時空間の歪みである。近年推奨される「ワークライフバランス」も「ダイバーシティ」も、この歪みを正すことを眼目としている。
 そのためにも、今日本社会に最も必要なのは、男性も含めた総合的な雇用環境と社会保障の改善である。
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単行本p.229、265

 第1部と第2部で明らかにされた問題について、解決に向けた方策を探ってゆきます。「ベビーカー論争」に見られる不寛容さの問題、日本社会に根づいた性別分業モデルの破綻。オランダにおける労働制度改革の事例を参考にしながら、危機を乗り越えてゆくための道を示します。というか道を示そうとして思わず腕組みしてしまった観もありますが。


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 余談になるが、私もこのごろは「少子化」や「女性活躍」などのテーマでテレビの討論番組に呼ばれることも増えてきた。だが、このテーマは緊急のトピックが浮上するとたちまち差し替えられてしまうことに気がついた。
(中略)
 すでに70年代から今後の少子高齢化が指摘されていたにもかかわらず、なぜこれは常に「後回し」にされてきたのか。おそらく、「いつでも考えられる・後回しにできる」問題とみなされてきたからに違いない。だが、これらはすでに単独の課題を通り越して、日本社会の危機の根幹にある問題だ。
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単行本p.263


 個人的には、少子化や女性就労などの問題については、面倒くさいことは何でも奥さんに丸投げしてきたおじさんたちが「いざとなれば女が我慢すれば何とかなる」と思って後回しにしているのではないか、と疑っています。



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『リネア(Linea) ダンシングロープ!』(カンパニー・ドゥッシュドゥッスゥ) [ダンス]

 2016年5月5日は、夫婦で東京芸術劇場に行って、TACT/FESTIVAL 2016 の公演三本を鑑賞しました。三本目の演目はフランスのカンパニー・ドゥッシュドゥッスゥ(Cie Sens Dessus Dessous)による『リネア』。出演者二名の50分ほどの作品です。

 舞台の周囲をぐるりと取り巻いているのは白いロープ。他にも何本もの白いロープが使われます。難しい顔をしてロープを巻いて仕舞っている男。彼にちょっかいを出す女。彼女がとても可愛く、ねえそんなこと後にして踊りましょうよ、いちゃいちゃしましょうよ、と口説いている様が、無言なのに身振り手振りでびっしびし伝わってきます。

 しかし男は邪険にするばかり。ついに彼女はそこらにあるロープを使って遊び始めます。最初は仕方なく付き合っているという態の男も、だんだん楽しくなってきたらしく、二人で色々なロープ遊びをやってみせます。くるっと輪を作って即興の人形劇をやってみたり、両端を持ったロープ上に波を往復させたり。彼女の「きゃっ」「きゃ」というカトゥーン声が異様にチャーミングです。

 しかし最大の見せ場は後半。サーカスの伝統的演目でいうと「ジャグリング」で、ロープと同じ太さの白棒を使って二人がトスジャグリングを行います。

 暗い舞台に白い棒が何本も宙を舞う様は美しく、特に各人それぞれ四本のバトンを使って計八本をジャグリングするシーンが印象的。二人の動作がぴったりシンクロすると、まるで白いバトンが軌道の頂点に止まり、そこで羽ばたいているように見えてきます。


[キャスト他]

出演: キム・ヒュン、ジャイブ・ファウリィ



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