SSブログ

『ペルシア王は「天ぷら」がお好き? 味と語源でたどる食の人類史』(ダン・ジュラフスキー、小野木明恵:翻訳) [読書(教養)]

--------
食べ物の言語は、文明の相互関係や大規模なグローバル化の起源を理解することに一役買っている。グローバル化といってもおそらく私たちが思いつくような最近のものではなく、何百年前、何千年前に起きたことだ。それらはすべて“おいしいものを見つけたい”というもっとも根本的な人間の欲求からもたらされた。
(中略)
 すべての革新は間隙において発生する。おいしい食べ物も例外ではなく、文化と文化が交わるところで生み出される。近隣の文化から取り入れたものに手を加え、改良を重ねるのだ。食べ物の言語という窓を通して、こうした「狭間」で起こっていること、すなわち古代における文明の衝突、現代の文化のぶつかり合い、人間の認識力や社会や進化を読み解くための隠れた手がかりをのぞき込むことができる。
--------
Kindle版No.98、139


 料理の名前、メニューや食品包装に記されている言葉、そして料理の構成そのものには、言語における文法に相当する規則がある。そこから異文化交流をめぐる人類の長い長い歴史を読み解くことも出来るのだ。「食の言語学」という観点から人類史を俯瞰する一冊。単行本(早川書房)出版は2015年9月、Kindle版配信は2015年9月です。


--------
 料理の類似点と相違点、さらには時とともにどのように変化するのかを説明するために、「料理の文法」という理論を提唱したい。料理は言語のようなものだとするこの理論は、言語学の文法を比喩として用いている。
(中略)
 言語においてネイティブ・スピーカーが説明することはできなくても暗黙のうちに了解している文法があるように、料理にも暗黙の構造がある。その構造とは、どの料理とどの料理が合うのか、ある料理法において「文法的に正しい」一品や食事が何から構成されるのかなどについての一連のルールである。料理にある暗黙のこの構造は、一品が材料によってどのように構成されるか、一品から食事がどのように構成されるか、特定の味の組み合わせや要求される調理法を用いて全体的な料理がどのように構成されるかというルールによって成り立っている。こうした各々の構造によって、料理法の性質と、その類似点や相違点を説明づけることができる。
--------
Kindle版No.3639


 「食の言語学」という観点から、様々な料理の歴史を語る本です。特に、ある料理がいつ頃どこで発明され、どのような変遷を経て現在の姿になったのか、料理の名前からその痕跡をさぐってゆくエピソードが豊富。例えば、表題にもなっている「天ぷら」の起源をめぐる驚くべき歴史。


--------
多くの国が自国文化の宝と自慢する料理の数々(ペルー、チリ、エクアドルのセビーチェ、イギリスのフィッシュ・アンド・チップス、日本の天ぷら、スペインのエスカベーチェ、フランスのアスピック)は、豊穣の女神イシュタルを崇拝する古代バビロンの人々によって予示され、ゾロアスター教を信仰するペルシア人によって発明され、イスラム教徒のアラブ人によって完成され、キリスト教徒によって改良され、ペルー人のモチェ料理と融合し、ポルトガル人によってアジアに、ユダヤ人によってイギリスにもたらされたのだ。
(中略)
 ここで得られる教訓は、私たちは誰もが移民であり、島国文化のように孤立した文化などなく、異なる文化や民族や宗教が接する混沌としてときに痛みを伴う境界でこそ美が生まれるということだと思いたい。
--------
Kindle版No.1007


 あるいは、ケチャップの歴史から見えてくる東洋と西洋の交易。


--------
 中国と東南アジアで作られる発酵させた魚のソースから始まり、日本の鮨、さらには現代の甘いトマトのチャツネにいたるまでのケチャップの物語は、つまるところグローバル化と、世界の超大国による何世紀にも及ぶ経済支配の物語なのだ。ただしその超大国とはアメリカではなく、この数世紀を謳歌していたのもアメリカ人ではない。みなさんの車の座席の下に落ちている小さなケチャップは、これまでの1000年間の大半にわたり、中国が世界経済を支配していたことを思い起こさせてくれるものなのだ。
--------
Kindle版No.1283


 このようにして、トースト(乾杯)、ターキー、フラワー(小麦粉)、マカロンとマカロニ、シャーベット、といった馴染み深い名前の背後にある歴史が語られてゆきます。いずれも多くの時代や国境を越えて続いてゆく異文化交流と交易の物語で、それだけでも読みごたえ充分。

 しかし、個人的には、むしろ「食にまつわる言語学的研究」の紹介を興味深く読みました。例えば、レストランのメニューに記されている料理名とその説明文を、コンピュータを駆使して言語学的に統計解析してみると。


--------
私の研究チームは、6500件のメニューにある65万種類の料理すべての価格を調べた。統計手法を用いて、どの単語が高いあるいは低い価格と結びついているのかを明らかにした。(中略)そこで発見したのは、料理の説明に長い単語を使うほど、その料理の値段が高くなるということだ。料理の説明に費やされる単語の平均的な長さが一文字増えると、価格が18セント高くなる。(中略)delicious、tasty、terrificのような、肯定的だが曖昧な単語ひとつにつき料理の平均価格は9パーセント低くなる。rich、chunky、zestyのような興味をそそる形容詞ひとつにつき、価格 は2パーセント低くなる。
(中略)
レストランがどの料理について「real」と言うかは価格帯によってはっきりと変わってくる。安いレストランは本物のホイップクリームや本物のマッシュポテト、本物のベーコンを出すと確約する。(中略)もう少し価格の高いレストランでは、「real」は主にカニやメープルシロップを形容するために使われる。(中略)メニューでどういう食品が「real」や「genuine」〔まがいものではない、本物の〕と形容されているかを知るために歴史をさかのぼると、どういう食べ物の模造品を製造すると儲かったのかがだいたいわかる。
--------
Kindle版No.295、407


 あるいは、ネットに書き込まれたレストランの評価レビューを言語学的に統計解析した結果、こんなことが判明したそうです。


--------
 レストランに良い印象を抱いた人は、実際に性的な比喩を使う頻度が高かった。そのうえ経済的なつながりも発見できた。セックスへの言及は、高価なレストランのレビューで使われる頻度がとりわけ高いのだ。(中略)この経済的なつながりは非常に強い。レストランのレビューにセックスへの言及が多いほど、その店の価格帯が高くなるのだ。
(中略)
 安いレストランの食事を気に入った場合には、まったく異なる比喩が使われる。高価ではないレストランのフライド・ポテトやガーリック・ヌードルについて語るときには、セックスではなく、中毒やドラッグにまつわる言葉が使われる。
(中略)
 セックスにかんする言葉をレビューで使うとき、人は何を食べているのだろうか。性的な言葉の近くによく出てくる食べ物関係の言葉を調べれば、その答えがわかる。セックスと関連づけられる食べ物は二種類ある。そのうちのひとつが鮨だ。(中略)もっとも頻繁にセックスと関連づけられるもう一種類の食べ物が、デザートである。(中略)セックスとデザートの比喩がレビューにたくさん使われていると高い評価になる傾向は、驚くほど強いことがわかった。
--------
Kindle版No.2095、2102、2125


 スイーツはともかく、西洋人にとってスシがそれほどセクシーな食べ物だとは知りませんでした。というか、そもそも料理に対して興奮しすぎではないでしょうか。

 さらに、ポテトチップスの袋に書かれている文章を解析した結果からは、そこに秘められた意図が露骨に見えてきます。


--------
健康にかかわる表現は、高いポテトチップのほうが、安いポテトチップの6倍も多く使われていた。袋に書かれている宣伝文の量が6倍もあるのだ。
(中略)
値段の安いポテトチップの宣伝文には比較的単純な文と単純な単語が使われており、平均値は中学二年だった。(中略)値段の高いポテトチップの宣伝文は、高校一年から二年のレベルになる。(中略)このように、広告主はポテトチップが健康に良いと信じ込ませようとしているだけではない。メニューの作成者と同様に、お金をたくさんもっている人ほど、複雑な言葉で話しかけられるといっそう喜ぶと考えているのだ。高い奨学金を借りて勉強したかいがあったというわけだ。
(中略)
最後にもうひとつ、値段の高いポテトチップの宣伝にかんする特徴を発見した。宣伝文に差別化や比較の言葉がぎっしり詰まっているのだ。(中略)否定の表現によってそのポテトチップにはない悪い品質が強調され、それにより他のブランドの品質が悪いと巧妙に示唆している。つまり他のポテトチップは不健康で、不自然で、中毒性があるというメッセージを送っているのだ
(中略)
値段の安いポテトチップには家庭のレシピやアメリカの歴史、風土についての基本的な知識が強調されていることを発見した。(中略)値段の安いポテトチップの購買層は、差別化や独自性や健康よりも家族や伝統のほうを気にかける、と広告主は想定しているのだ。
--------
Kindle版No.2315、2327、2344、2384


 このような興味深い成果が次々と報告され、食の歴史をめぐる章と合わせて、食と言葉の関係をさぐる「食の言語学」がどのようなものかが具体的に示されるのです。

 というわけで、大量のうんちくがぎゅっと詰まった「食の言語学」入門書ともいうべき一冊。料理の歴史などのエピソードに興味がある方にはもちろんのこと、伝統的な料理のレシピ、食べ物の宣伝戦略、料理単品の構成からコース組み立てに至るまで様々な規則がどのようにして作られているのか、など、料理にまつわるあれこれに興味がある方にお勧めします。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

『カタツムリハンドブック』(西浩孝:解説、武田晋一:写真) [読書(サイエンス)]

--------
 日本からは、カタツムリとナメクジが約800種知られています。その多くは日本の固有種です。南北に長く、島が多い日本で、カタツムリは多様に種分化を遂げたのです。
 本書では、その中で見つけやすいと思われる147種(亜種を含む)を取り上げました。
--------
単行本p.2

 カラを背負って目を伸ばす。愛嬌あるその姿ゆえに昔から「でんでんむし」などと呼ばれ親しまれてきたカタツムリ。その中には、殻が小さくて身体が入らない種や、殻が毛まみれの毛深い種、肉眼では見つけにくい極小種など、様々なものがいる。日本に生息するカタツムリ800種から選ばれた147種を記載するカラー図鑑。単行本(文一総合出版)出版は2015年7月です。


 カタツムリというと好き嫌いが分かれるらしく、苦手な人はもう見るのも嫌なようです。本書はカタツムリ図解なので、もちろん全ページにカタツムリ(およびナメクジ)のカラー写真が所狭しと掲載されていますので、苦手は人は避けた方がいいかも知れません。

 写真を見るくらいは平気だけど、特に興味はないし、親しみも感じない、という方には、エリザベス・トーヴァ・ベイリーのエッセイ『カタツムリが食べる音』をお勧めします。一読すれば、カタツムリのイメージが変わる名著です。ちなみに単行本読了時の紹介はこちら。

  2014年10月23日の日記
  『カタツムリが食べる音』(エリザベス・トーヴァ・ベイリー、高見浩:翻訳)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-10-23

 というわけで、本書は、日本で見られる147種のカタツムリについて、名称、サイズ、生息域、生態、発見の難しさなどのデータと共に、すべてカラー写真付きで紹介する図鑑です。

 カタツムリは地域分化が大きく、すべての掲載種についてカラー写真をとるためには日本全国を飛び回る必要があったとのこと。それはそれは大変だったようで、写真家の武田晋一さんが色々と苦労話を書いているのが印象的です。


--------
 全国を巡るカタツムリ探しの旅で怖いのは、ヒル、ダニ、ハブ、ヒグマでした。ヒルはとにかく気持ちが悪い。しかし命の危険はありません。その点、ダニやハブは運が悪ければ命を失いますが、最も怖いのはヒグマです。
--------
単行本p.80


--------
 ルーペを片手に、落ち葉の中に潜むケシガイを探しました。ケシガイは殻の長さが約2mmと極小。おまけに半透明なのでとても見にくいのです。近年、若干の老眼で小さなものには自信がなく、仲間に応援を頼んだものの、ようやく見つけたケシガイっぽいものを見せると、
「小っさ、これは心が折れる」とみな言葉を失いました。
--------
単行本p.42


--------
普遍種なのに苦労したのが、主に九州南部に分布するカタギセルでした。見つけたと思ったら誤同定で、出直しが2度。3度目の正直でようやく数匹見つけても、今度は殻がボロボロで撮影には不適。探して探して宮崎の森の中を歩き回るうちに、思わぬ珍種サダミマイマイに出くわしました。「今はお前じゃないんだ。それどころじゃないんだ!」。普遍種のカタギセルに苦心をしているというのに、檄レアなサダミが何匹も出てくるのですからなんたる皮肉。
--------
単行本p.109



 「最も怖いのはヒグマ」「これは心が折れる」「それどころじゃないんだ!」といった言葉の数々に、尋常ではない苦労がしのばれます。

 見つけるだけでも一苦労なのに、さらに「図鑑に掲載するにふさわしい写真を撮る」というのがまた難しい。何しろ相手はモデルじゃなくて野生生物。ボロボロになっても生き延びてきた猛者たちです。


--------
 ありのままでいいじゃないか、と思う反面、殻に傷がない、きれいな個体を撮影したいと思うのが写真家の性。ところが、キセルガイの場合は傷みのないきれいなものがなかなか見つかりません。倒木をひっくり返すと目的の種類が何匹も出てくる場合でも、しばしば殻が傷んでいるのです。キセルガイは寿命が長く、そうなってしまうのだそうです。
 その点、ハゲキセルという命名はすばらしい。「禿げ」なのだから、殻が傷んだハゲハゲの個体でもかまいません。いや、ハゲハゲの個体が望ましいのです。
--------
単行本p.47


 この「長く生きていると殻が傷んでしまう」という現象は、写真家だけでなく学者も困らせるようで、西浩孝さんはこのように書いています。


--------
以前、図鑑に載っていない檄レアなカタツムリを見つけた! と大興奮したら、オオケマイマイの毛が取れてしまった個体に過ぎなかった過去を、この場を借りて告白しておきます。
--------
単行本p.71


 ちなみにこの文章には、わざと「毛の取れたオオマイマイ」の写真が添えられており、写真家が散々苦労して撮った写真を一目見て「誤同定」と却下したりする学者への「しっぺ返し」感が高まります。

 他にも、カタツムリの探し方、飼い方なども掲載されており、カタツムリに興味があり、また見つけたカタツムリの名前を知りたいという方にはぴったりの図鑑です。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

『[現代版]絵本 御伽草子 付喪神』(町田康、石黒亜矢子) [読書(小説・詩)]

--------
「え、知らないの? じゃあ、教えてやるよ。俺たちはなあ、物なんだよ。物というものは人と違って意識がないんだよ。考えたり、喋ったりすることはできないんだよ。けど、生まれてから百年経つと、物にも意識が生まれてくる」
(中略)
「なるほどねぇ、そう言えば俺も物心ついたのは九十年目くらいからだと思う。あ、そういう意味なんですね、物心っていうのは」
--------
単行本p.3、5


 シリーズ“町田康を読む!”第48回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、活き活きとした現代語による古典リライトとユーモラスな百鬼夜行画のコラボレーション。現代版「絵本 御伽草子」シリーズ第一弾です。単行本(講談社)出版は2015年10月。

 宇治拾遺物語の現代語版が話題となっている町田康さんですが、こちらは「御伽草子」から付喪神の話を現代語で書き直した作品です。イラストは『ばけねこぞろぞろ』でユーモラスな百鬼夜行画が話題となった石黒亜矢子さん。

 百年を経て物心ついた「物」たち。付喪神にあおられて、自分たちを棄てた人間に復讐しようという話になります。存立危機事態だやっちゃえ派と、戦争したくなくてふるえる派に分かれて、侃々諤々。


--------
「おまえは阿呆か。棒、持って殴りかかってくる奴に、ラブ&ピース、言うたら殴るのやめると思とんのか、ど阿呆っ。殴りかかってこられたら殴り返さんとこっちがやられるやろが、アホンダラ」
(中略)
「それは私たちが以前に妖物に変化して人間に害をなしたからです。だからこそ私たちはそれを心から反省して謝罪して人間を脅かさないようにしなければならんのです」
「ですよね」と、布巾が言った。
「ですよね。私たちが棄てられたのは私たちが妖怪化して人間を怖がらしたからなんです。私たちは私たちの過去の罪を拭き清めなければなりません。私は布巾です。変化である前に布巾なんです。一枚の布なんです。たとえ、私は路傍に朽ちてもそのことを忘れたくありませんっ」
「後半、なにを言ってるのかわからんね」
「そうだね」
--------
単行本p.18


 妖怪変化だ百鬼夜行だ、いきおいに乗って人間をばんばん殺してゆく物たち。人間も法力で対抗しようとしますが、それはそれ、いろいろとあって、予算配分とか。


--------
「マジですか。なんかこういうさあ、朝廷のさあ、面倒くさい案件って、全部、こっちに投げてくるよね。そのくせ、おいしい案件は抱えて放さない。別にいいんだけどさあ、なんつうの? めげるよね。俺、もう忠誠心とかぜんぜんないよ。マジで」
「ほんとだよね。これだってさあ、けっこう貰ったけど、上で抜いてるよね」
「あたりまえじゃん。半分は抜いてんじゃない」
「めげるなー。どうしよう。つかさあ、なんの経、読めばあいつら死ぬんだろう。実際の話」
「適当なの読んで駄目だったら駄目でいいんじゃね? 責任は元請けがとるっしょ」
「うーん、でもさあ、それも面倒くさくねぇ?」
「じゃあ、どうしよう。下に丸投げする?」
「それだね」
--------
単行本p.38


 三本の矢が機能しないまま、がしがし喰われる庶民たち。ついにラブ&ピース派が反乱を起こします。しゃらくせえくらえ妖怪ビーム! させるか読経バリア!


--------
読経によって形成された透明のバリアがビームを跳ね返して、その地点に火花が散った。
「おしっ、いけてるいけてる。もっと、読経せいっ」
 一連が叱咤して、弟子たちはなおも経を誦した。護摩も焚いた。バリアが厚くなっていった。バキバキバキバキ。ビームは、流れる水、誰かの満たされぬ想い、いつかみた希望のようにバリアの表面を青白い光となって走った。
「あかんがな。もっと、ビーム、出せ。ビーム」
--------
単行本p.47


 人間のことなどそっちのけで内紛に没頭する物たち。その様子を物見高く見物しては次々と命を落とす人間たち。戦争なんて、戦争なんて。だがそのとき、見よ、光の彼方より飛来してきたヒーローが登場……。

 というわけで、絵本ではありますが、内容は大人向けというか、正直、子供に読ませるのはもったいない素敵な一冊です。石黒亜矢子さんの妖怪画がまた、けっこう怖いのに、ユーモラスという、いい味出してます。


タグ:絵本 町田康
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

『まぼろしの夜明け』(川村美紀子:振付) [ダンス]

--------
ヒトは、どれくらい踊れるだろう?

限界まで踊ってみたい。

太陽が追いつけないくらい、からっぽになるまで踊り続けたら、
その先には一体何が待ち受けているのだろう。
--------
川村美紀子


 2015年10月11日は、夫婦でシアタートラムに行って、「トヨタコレオグラフィーアワード 2014 受賞者公演 川村美紀子 『まぼろしの夜明け』」を鑑賞しました。「ヒトは、どれくらい踊れるだろう?」をキャッチフレーズに、ダンスの限界に挑戦する作品です。

 あっさり書いてしまいますが、どれくらい踊れるだろう? というのは、「どのくらい最小限の動きだけで、ダンス公演を成立させることが出来るのだろう?」ということでした。

 いわゆる「ダンス」と聞いて思い浮かべるような、大きな、速い、リズミカルな動きは一切なく、基本的に「倒れているダンサーたちが、100分かけてゆっくりゆっくり立ち上がる」という構成。これを思いつく振付家は多いと思われるのですが、実際にやってしまう、しかも「トヨタコレオグラフィーアワード受賞者公演」で、というのが、さすが。

 薄暗いなか三つのミラーボールがきらきら回っている会場、特設ステージ上には倒れ付している六名のダンサーたち。それぞれ純白の薄布一枚が身体にかけてあり、その様はまるで、戦場か災害現場に並べられている遺体収容袋か、蛾のサナギ。あるいは某舞踊評論家の表現をお借りするなら「ベトナムの生春巻き」。

 オールスタンディングということで、入場した観客は特設ステージの周囲に突っ立ったまま、開演時刻を待ちます。

 六名のなかで、ただ一人、うつ伏せに倒れ伏しているのが川村美紀子さん。思い出されるのは、先日のソロ公演『春の祭典』のオープニングです。照明がつくといきなり全裸でうつ伏せに倒れて死体となっていて、観客思わず心の中で「おいおい、倒れて死ぬのはラストじゃないの」と突っ込んでしまう演出。あのときは、立ち上がって全力で踊りまくった挙げ句、最後は「誰が死ぬかよオラァーッ」というイキオイでぶちかましてくれました。

 今回もそういう感じかな、と思うわけですよ。その時点では。

 ところが開演時刻が来て音楽が流れても誰も動きません。それはもう、ぴくりとも動きません。観客の戸惑いも、音楽も、照明も、何もかも意識しないでひたすら凝固しています。恐るべき集中力。

 入場から30分経過。まだ動きらしい動きはありません。観客もそろそろ困ってきます。まず、立ち続けなので足が痛い。腰も微妙に痛い。音楽と照明は極めて印象的で、今にも何かが(具体的には出演者たちが)起きそうな気配が続きます。ふと意識を逸らしたりすると、その瞬間に何か重要なことを見逃しそうな予感。それぞれに意識を集中させて、出演者は凝固を、観客は凝視を、ひたすら続けます。

 困ったことに、ダンサーたちは完全に凝固しているわけでもなく、よく見ると少しずつ動いていたりするのですね。手のひらがゆっくり開いたり、少しずつ少しずつ体勢を変えていたり。目覚める直前、あるいは羽化する直前のような動き。知覚できるか否かの境界に近い、超スローモーションの動き。時計の分針。

 確かに、これは強靱な筋力と、さらに強靱な精神力を必要とする「ダンス」ではあります。

 そろそろ入場から1時間経過。大きな動きはなし。足腰は痛いし、長時間におよぶ精神集中を強いられたため、意識も朦朧としてきます。脳裏には、妄想もいっぱい。

 もしかしたら、こういう演出なのは今回だけなのでは。他の回では、元気よく踊ってたりしたのではないか。

 「特定の曲がかかったら一斉に起きて踊り出す」というルールになっており、その曲がかかる時刻はコンピュータがランダムに選ぶという仕掛け、これがいわゆるチャンス・オペレーションというやつか(違います)、そんで、今日は極めて低い確率で、その曲が全然かからないという事態が実現した、ということではないか。

 もしや『春の祭典』の演出は、観客にあらぬ期待をさせるための周到な伏線だったのでは。いやまあ、それはうがちすぎとしても、ポスターの「限界まで踊ってみたい」とか、インタビューの「今回一緒に踊るダンサーのオーディションは、5時間通しで踊ってもらって、残った人の中から直感で選びました。5人のメンバーはそうとう辛抱強い人ばかりです」といった言葉は、あれは観客を誤解させるための周到な罠。一言も嘘を言ってない、手遅れになってから意味が分かる、というのがまた底意地が悪い。叙述トリックか。

 90分が経過する頃には、「これは、観客にこういう体験をさせる作品なのだ。足腰いてえ」という諦念と共に、しかしそれでも「最後の最後に何かが起きるかも」という往生際の悪い期待、「どうやって公演を終わらせるつもりなのか」という疑問、などを抱えたまま観察を続けていた観客は、ついにダンサーたちがゆっくりゆっくり立ち上がってゆく過程を見つめることになります。でもまた、その過程が長い長い。長い長い。

 じっと倒れている、微妙に姿勢を変える、何十分もかけてゆっくりゆっくり立ち上がる。しくしく泣く。これはそういうダンス、これはそういう川村美紀子。


[キャスト他]

振付: 川村美紀子
出演: 亀頭可奈恵、後藤海春、鈴木隆司、住玲衣奈、永野沙紀、川村美紀子


タグ:川村美紀子
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇

『書き下ろし日本SFコレクション NOVA+ 屍者たちの帝国』(大森望:編、藤井太洋、津原泰水) [読書(SF)]

--------
計劃氏が書きたいと願っていた小説のひとつが、言うまでもなく『屍者の帝国』だった。その長編を計劃氏にかわって完成させるつもりだという話を円城氏の口から初めて聞いたのは、その夜、千葉から東京にもどるガラ空きの電車の中でのことだったと思う。たしか、「こうなったら、やるしかないでしょう」みたいなニュアンスだった。目的は、“伊藤計劃の名を語り継ぐこと、その忘却を阻止すること”(円城塔、『屍者の帝国』文庫版あとがきより)。そのために、できることはなんでもしよう。口に出して確認したわけではないけれど、それがその場に居合わせた関係者たちの共通の思いだったし、僕にとっては、その夜が Project Itoh の出発点だった。その延長線上に円城版『屍者の帝国』があり、劇場アニメ「屍者の帝国」があり、本書『屍者たちの帝国』がある。
--------
文庫版p.376


 伊藤計劃の遺稿を円城塔が書き継いで完成させた『屍者の帝国』。その世界観を共有する8篇の書き下ろし新作短篇を収録した異色のSFアンソロジー。文庫版(河出書房新社)出版は2015年10月です。


--------
 本書『屍者たちの帝国』は、それらと同じく、伊藤計劃版「屍者の帝国」に記された世界観のもと、新鋭からベテランまでが新作短編を競作する書き下ろしアンソロジーである。いわゆるシェアード・ワールドものってやつですね。一部、長編版の記述に準拠した作品もある。(中略)
 キャリアも活動領域もさまざまな八人の書き手がそれぞれ違う角度から“屍者”にアプローチし、パロディあり、アクションあり、ペーソスあり、哲学あり、バラエティ豊かな八編が誕生した。長編版やアニメ版とは、同じ土から生まれたきょうだいのような関係なので、本書を楽しむために、必ずしもそちらを先に読んでいる/観ている必要はない。
--------
文庫版p.5、6


[収録作品]

『従卒トム』(藤井太洋)
『小ねずみと童貞と復活した女』(高野史緒)
『神の御名は黙して唱えよ』(仁木稔)
『屍者狩り大佐』(北原尚彦)
『エリス、聞えるか?』(津原泰水)
『石に漱ぎて滅びなば』(山田正紀)
『ジャングルの物語、その他の物語』(坂永雄一)
『海神の裔』(宮部みゆき)
特別インタビュー『屍者の帝国』を完成させて(円城塔)


『従卒トム』(藤井太洋)
--------
 四十九名は赤黒い血をまき散らして前進し、次弾を装填するサムライたちへ銃剣を突き入れる。
 十九世紀が生んだ最強の兵器、屍兵だ。
 対抗するには、同じように屍兵からなる部隊をぶつけて損耗させ合うしかない。より多くの屍兵を投入できた方が戦争に勝つ。それが米国を二分した内戦で生まれた常識であり、トムが二年前まで嫌というほど目にしてきた現実だ。
--------
文庫版p.23

 傭兵として四十九名の「部下」と共に日本に派遣されてきた、黒人奴隷出身である米国人のトム。彼は、忌み嫌われる屍兵部隊の指揮官として、部下の練成に熱心に取り組んでいた。いかなる相手をも物量によって容赦なく切り裂いてゆく無敵の部隊。だが、その前に、たった一人のサムライが立ちはだかる。江戸開城前夜の知られざる戦いをえがいた、荒唐無稽にして感動的な作品。


『小ねずみと童貞と復活した女』(高野史緒)
--------
   けーかほおこく 一  三がつ○にち
 ケルンせんせいがぼくにおこたことおかいておきなさいていった。あとでやくたつからとケルンせん生はいいました。ぼくはレふ・ニコラえビチ・ムイシュキンとう名まえです。
--------
文庫版p.83

 『カラマーゾフの妹』の著者が、再びドストエフスキーの「続編」に挑む。今度のターゲットは『白痴』。あの事件の後、白痴に戻ったムイシュキン公爵はどうなったのか。その運命が今明らかに。

 実は、開発されたばかりの知能向上薬により、実験動物であるネズミ(名前はアルジャーノン)と共に天才化していたのだった。ドウエル教授の首との共同研究により彼は、ナスターシャを屍者としてではなく、本当に復活させる方法を探し求めていた。だが、答えは意外に簡単なところにあったのだ。そうだ、惑星ソラリスに行けばイイじゃん(以下略)。


『神の御名は黙して唱えよ』(仁木稔)
--------
ムスリムには屍者を受け入れる用意ができていた。審判の日にはすべての死者が生前そのままの姿で復活する、とコーランに記されているばかりではない。広く浸透した神秘主義は、死者の在りようを理想の生き方とする。生前そのままの姿を保ち、自我意識に悩まされることもないという屍者は、敬虔なムスリムにとって好ましい存在だったのだ。
--------
文庫版p.136

 自意識を捨て、無我の境地に至ることで神との合一を目指すイスラム神秘主義。その理想は、つまるところ屍者そのものではないだろうか。ロシア辺境で起きたある奇怪な事件により、イスラム神秘主義の修行者が行うズィクルと屍者制御ネクロウェアとの意外な接点が明らかになる。


『屍者狩り大佐』(北原尚彦)
--------
「しかし」とわたしは言った。「人間以外の動物のクリーチャ化に成功した者は、まだひとりもいないはずだ」
「では、あの虎が第一号ということだな」とバーナビーは、こともなげに言った。
--------
文庫版p.187

 ワトソンたち一行が日本を訪れる前、インドの寒村で出くわしたのは、ライフルで撃たれても倒れない屍者化された人食い虎だった。誰が、どうやって、そして何のために、そのような恐るべきクリーチャーを作り出したのか。謎を探るうちに、事件の背後にかのモロー博士がいることを突き止めた一行だが……。

 例によって「知られざる事件」です。むろんホームズは登場しませんが、後に著名事件に関わる人々が色々と登場するので要注意。


『エリス、聞えるか?』(津原泰水)
--------
 林太朗は独逸語で、「エリス、聞こえるか?」
 寺西は顔を上げて振り返り、「聞こえていらっしゃるかと存じます」
 林太朗は泪を堪えるために唇を嚙んだ。それから微笑して、「動かぬ、口もきかぬ嫁との暮しは、どういったものだろうね」
「お小言を聞かずに済みますよ。そのぶん淋しいですけど」
--------
文庫版p.242

 森林太郎(森鷗外)を追って日本にやってきたエリス。だが、既に彼女は生者ではなかった。『舞姫』のラスト「エリスが生ける屍を抱きて千行の涙を濺ぎしは幾度ぞ」という一行から紡ぎだされた感傷的な一篇。というだけに留まらず、「外部から操作される意識」という伊藤計劃っぽいテーマが、混ぜるな危険、ということに。


『石に漱ぎて滅びなば』(山田正紀)
--------
漱石は一週間日付をまちがえたのであろうか。だとしたら、わずかに一行だけのことであり、どうして一月二十六日の記述を消さなかったのか。なぜ訂正せずに、わざとのようにそれを残したのであろうか。
--------
文庫版p.247

 ロンドンの貧民街を巡回して行き倒れの死体を回収してまわる謎の霊柩車。その後を追うは夏目金之助(夏目漱石)たち一行。秘かに倫敦塔に集められた死体は、どのように使われているのであろうか。明治34年1月26日の日記の記述「女皇ノ遺骸、市内ヲ通過ス」という一行から紡ぎだされた奇想天外な一篇。


『ジャングルの物語、その他の物語』(坂永雄一)
--------
 かつて私は、彼らを勇ましくも恐ろしい生き物に空想した。父はそれを優しい生き物に描きかえた。電灯に照らされた彼らはその二重写しだった。(中略)光と視線を受けた一瞬に、地中の闇のなかで眠る獣たちに父の手による霊素が吹き込まれる。父はまぎれもなく本当の人狼部隊を知っていた。その想像力は正反対の方向を示していたかもしれないが、父もまた彼らの友だったのだ。
--------
文庫版p.323

 屍者技術により作り出された半人半獣の屍者からなる軍団、人狼部隊。そこから生まれた二つの空想物語が交差する。『フランケンシュタイン』とはまた別の、屍者から生まれた物語についての物語。


『海神の裔』(宮部みゆき)
--------
「トムさんは海の向こうから来て、古浦村の漁師の骨を拾ってくれた上に、磯の漁場を平らして(元に戻して)くれたんじゃあ。有り難え神様じゃで、丁重にお祀りするのがいちばんええ」
--------
文庫版p.348

 大戦中に田舎の小さな漁村に流れ着いた一人の屍者。最初はおそれていた村人たちも、次第に彼と親しくなってゆく。活き活きとした方言を駆使して、『屍者の帝国』を日本昔話にしてみせた一篇。


特別インタビュー『屍者の帝国』を完成させて(円城塔)
--------
──どのようなお気持ちで、「やるしかない」と思われたのでしょうか。
円城 死者が動いてる話じゃなければ、やらなかったです。当人が死んじゃったので、「それは冗談的にも誰かやらなきゃだめだろう」と。SF業界の「人の悪さ」みたいな。業界ごとの冗談の特性ってありますよね。伊藤計劃自身もそういう成分があるわけですが。この「人の悪さ」はなんとかしなきゃ、そんだけ「人の悪い仕事」を受けるのは僕しかいなくない? と。
--------
文庫版p.359

 円城塔氏へのインタビュー。死者が書き残した原稿を使って、屍者を動かす話を完成させることで、死者を動かし続ける。そこらへんの事情が率直に語られます。基本、悪趣味な冗談。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ: