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『音速平和』(水無田気流) [読書(小説・詩)]

 「世界がカオモジで記載される夜に/私は君とどの地点で待ち合わせよう?」
 「君の手にしたクリティークと/私の手にした温度計の数値は/どの基点で対話しよう?」

 詩人、社会学者、子育てツイート、様々な分野で活躍している著者の第一詩集。単行本(思潮社)出版は、2005年10月です。

 著者が社会学者でもあるせいか、現代社会の動線をくっきり写し取ろうとするクールな言葉が並びます。

 「私が生まれた/ディアスポラ・サイエンス時代に/ディスプレイ・パノプティコン時代に/デジタル形而上学時代に/DNA倫理学時代に/私は生まれた」
  (『ライフ・ヒストリー』より)

 「午前四時の自動販売機は/路上の水族館/電信柱の一個電球は/溜め息一歩手前/アスファルト上の影は/青くて長い螺旋階段」
  (『午前四時の自動販売機』より)

 「コンビニエンス・ストア前アゴラには/コンビニエンス・シツギョウシャたちが/集う 飲む 食べる 吸う 捨てる 笑顔」
  (『東京水分』より)

 社会時評や統計データをいくら積み重ねてみても、社会や生活の実相が見えてこないとき、そのとき詩の言葉が必要になってくるのではないでしょうか。それも、明晰で、企みを秘めた。

 「私の回路には 毎日/君の記憶が循環していく//いましがた/熱を飲んだばかりの風が/ジェット・エンジンに溶かされ//障-壁(サウンド・バリア)の直前」
  (『マージナル』より)

 「変化の空と同化の空気は/そのまま一面の魚の群れ/停止と静止と中止の中間点で/看板は爆破一秒前/ブロック塀は/乾燥したまま保存された博物館(ムゼアム)」
  (『午前四時の自動販売機』より)

 「ルクレティウスの原子の雨が降る/眠たい不協和音と/数滴の了解域を飲み込んで//恒常的な騒音(ノイズ)と圧搾機の夢を越え/震える世界と傘の林が一面/ナノハナバタケののどかさ」
  (『オンリツ』より)

 見よ、散乱するかっちょいい言葉の数々を。

 プレ・大洪水(デリュージ)地質学時代
 日向計測器
 八月透明自動ドア
 十一月降下速度
 カタカナ機械軸
 封鎖境界
 越境雨
 了解域
 甘味記憶
 絶対値零(ゼロ)
 シュミット=ロットルフの青
 微分音音楽
 六員芳香族複素環化合物
 路面月
 無拘束物質
 純粋音程感覚
 色相環六角形
 ・・・。

 サイバーパンクの残響、出版社としても勝負どころの海外SF大作翻訳版タイトル、社会学者の精確なる幻視。視床下部に響くステキにいかがわしいハッタリめいた言葉が、惜しげもなくぽんぽんと。

 というわけで、そのかっちょよさに震える詩集。キオイが入りすぎてぎこちない印象も受けますが、私はね、SFを感じました。

 「君のいた場所/君のいル地点/誤差はいつも未来を志向し/未来は郷愁(ノスタルジア)を追尾スル」
  (『マージナル』より)

 「下層の温度差 上空の音階/境界線が投下される地点では/線而下に、だだ広い世界が伸ビる」
  (『マージナル』より)

 「世界はいつも/明日終焉を迎える直前に静止し/轟音の中心できらめいている」
  (『水宴』より)


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『ゴースト・ハント』(H・R・ウェイクフィールド) [読書(ファンタジー・ミステリ・他)]

 「わたしたちはいま三階建ての中規模のジョージ朝様式の屋敷のなかにおります。場所はロンドン近郊です。記録によりますと、この屋敷が建てられた時からいままで、屋敷のなかで、もしくは屋敷を出て自殺した人間の数はなんと三十人にも及ぶそうです・・・」

 ラジオ番組のリポーターが実況中に遭遇する惨劇、屋敷のなかを徘徊する緑色の恐怖、死者の怨念がとりついた棋譜、夢のなかで時を刻み続ける時限爆弾。英国ゴースト・ストーリーの伝統を継承しつつ、現代的な作風で一世を風靡したウェイクフィールドの傑作選。文庫版(東京創元社)出版は、2012年06月です。

 伝統的な幽霊譚の風格に加えて、モダンホラーを思わせるサスペンスやはっきりとした怪異出現、クライマックスの恐怖シーンでさっと終わらせる鮮やかな構成。幽霊屋敷から呪術対決まで、H・R・ウェイクフィールドが遺した短篇小説から選び抜かれた18篇を収録した傑作選です。

 まず、何といっても収録数が多いのが、幽霊屋敷もの。

 表題作『ゴースト・ハント』は、幽霊屋敷に乗り込んだラジオ番組のリポーターの実況中継、という形で書かれています。最初は余裕たっぷりだったリポーターが、次第にうろたえてきて、恐怖と不安でしどろもどろになってゆく。読者に「視聴者」の立場を強いて、パニック状態のリポーターが口走る謎めいた言葉や叫び声だけから、現場で起きていることを想像させる、という手法が極めて効果的に使われています。

 『赤い館』では、掃除しておいたはずなのに朝になると床にてんてんと落ちている緑色の泥、という描写によるほのめかし(水にふやけ緑色に膨れ上がった何かが夜中に廊下をうろついているのではないか)が強烈。真っ暗闇のなか幽霊屋敷に取り残され出口が見つからなくなる『目隠し遊び』もシンプルに怖い。

 他に、『見上げてごらん』、『通路(アレイ)』、『暗黒の場所』、『死の勝利』などが幽霊屋敷を扱っています。屋敷ではないものの、山、農村、谷といった「呪われた場所」に踏み込んだ登場人物が恐ろしい体験をする『ケルン』、『最初の一束』、『チャレルの谷』なども同じ種類の怖さがあります。

 また、殺人事件の犯人が被害者の怨霊に苦しめられ、ついに無残な死を遂げる、という幽霊譚の基本もしっかり。

 『ポーナル教授の見損じ』で扱われるのは、チェス名人同士のいさかいから起きた殺人。死者の怨念がこもるのは、何とチェスの棋譜そのもの。神の手筋ともいうべきその究極の手を指した棋士は無差別に怨霊にとり憑かれる。祟りが時間空間をこえて伝搬し、無差別にたまたま触れた犠牲者を襲う、という設定には非常に現代的(というかJホラー的)なものを感じます。

 殺人事件の被害者の怨念がやどった何かが身辺に出没して、犯人を心理的に追い詰めてゆく、というパターンの作品もけっこう収録されています。『〝彼の者、詩人(うたびと)なれば……〟』の詩、『湿ったシーツ』のシーツ、『悲哀の湖(うみ)』の湖、『不死鳥』の鳥、といったものが怨念の媒介物として印象的。

 そして、何らかの呪術的パワーを持った怪人物をめぐる心理サスペンス、という趣向の作品がいくつか。『〝彼の者現れて後去るべし〟』や『蜂の死』では、魔人に東洋の呪いをかけられた犠牲者が非業の死をとげますし、『中心人物』では呪いは演劇の脚本という形をとって惨劇を引き起こします。

 個人的に気に入った作品を挙げるなら、鳥にやどった怨霊がじわじわと追い詰めてくる『不死鳥』、小説としての面白さが際立っている『蜂の死』、妙なユーモアと心理的虐待の陰惨さが渾然一体となった『死の勝利』、そして語りの手法で強烈な恐怖を表現したキレ味鋭い『ゴースト・ハント』と『目隠し遊び』、あたりです。全体的に退屈な作品はなく、短篇小説集として充分に楽しめる出来ばえです。

[収録作品]

『赤い館』
『ポーナル教授の見損じ』
『ケルン』
『ゴースト・ハント』
『湿ったシーツ』
『〝彼の者現れて後去るべし〟』
『〝彼の者、詩人(うたびと)なれば……〟』
『目隠し遊び』
『見上げてごらん』
『中心人物』
『通路(アレイ)』
『最初の一束』
『暗黒の場所』
『死の勝利』
『悲哀の湖(うみ)』
『チャレルの谷』
『不死鳥』
『蜂の死』


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『3mmくらいズレてる部屋』(振付:伊藤千枝、珍しいキノコ舞踊団) [舞台(コンテンポラリーダンス)]

 先週の土曜日(2012年09月29日)は、夫婦でスパイラルホールに行って、珍しいキノコ舞踊団2006年作品の再演を鑑賞してきました。振付はもちろん伊藤千枝さん、彼女を含む五名のダンサーが踊る1時間強の公演です。

 舞台の上には奇妙な家具が並べられています。斜めに傾いた机、落ち着かない椅子、歪んだ形のソファ、謎の「&」マーク、天井近く張り渡されたロープから不安定にぶら下がっているハンガー、それに取り付けられた黄色い電球。あ、歪んでるな、ズレてるな、と一目で分かるこの部屋で、キノコのダンサー達がはしゃぎ回ります。

 斜めになった机の上を滑り台のようにすべり下りたり、ソファの両端に足を乗せてゆーらゆら揺らしたり、まるで遊園地。歪んだ家具を組み合わせるといきなり水平になって安定する、卓上照明を机の断ち切られた脚の下に置いたらピタリはまる、など意外性に満ちた舞台です。

 何とも奇妙で不思議、だけどキュートな動き。驚きのあるダイナミックなリフト。ひょうきんなのに、なぜか深刻にも感じられる魅力的なダンス。若い女の子たちが合宿しているような、そんな雰囲気が舞台を包み込みます。

 途中で挟み込まれる他愛もないガールズトークがまた、そういう感じを盛り上げてくれます。観客のところまでやってきて「台風が逸れて良かったですね」とか「いつ衣替えすればいいか迷って」みたいな世間話トークを仕掛けたり。

 何にせよ多幸感あふれる舞台です。いつまでも観ていたい気持ちになりますが、そういうわけにもいかず。終わってしまったときはとても残念でした。しかし、二週間後にはまたキノコを観るのだ。

[キャスト]

構成・振付・演出: 伊藤千枝
演出補: 小山洋子
出演: 山田郷美、篠崎芽美、茶木真由美、梶原未由、伊藤千枝


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『小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「だってここ十六年間、どんな、猫と関係ない場面を書いていても、私小説の「私」と同じ位にドラは「そこ」にいた。私が小説に何を書いたってその今の一番核心を猫は生きていた。私の心臓の鼓動として。なのに今その鼓動が。」(単行本p.25)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第63回。

 序章含め六部作になる予定の大作『小説神変理層夢経』の第二部、『猫ダンジョン荒神』が単行本化されました。出版(講談社)は、2012年09月。シリーズ初の単行本です。

 同時期に並行して連載されていた序章『猫トイレット荒神』の方が先に単行本化されるものとばかり思っていたので戸惑いましたが、よく考えてみれば、序章のラスト、様々な神の声があまりにも天国的に響きわたるなか「そのとき」がやってきますので、順番として老猫介護を扱った『猫ダンジョン荒神』の方を先に出したということでしょう。おそらく。

 「ローン十年目、千葉の小さい建売に私は住んでいる。このわが家には、今、一柱の荒神様が祀られている。彼は私がこの家で見いだした、(家内)宇宙最強の神様である。」(単行本p.3)

 という書き出しで始まる本作は、老猫介護その他に苦しむ作者が荒神様のサポートを受けて猫ダンジョンを作り上げる、というところから始まります。

 「実はこの家の持主を、母神、巫女に見立てて、僕はそのアラミタマ、彼女の心の働きのもっともいきいきとした部分となって、働いているのです。現在はこの作者の家の屋敷荒神と猫荒神を務めながら、文学関連というか言語全体をサポートしています。」(単行本p.96、97)

 わりと気さくに語ってくれる荒神様、名前は「若宮にに」(仮名)。多くの場合、可愛い子猫の姿をとって荒神棚を出入りします。

 「自分で言うけどね、可愛いでしょう、僕。」(単行本p.100)

 「声だけが幼い、アニメの声優みたいなところもあると思います。」(単行本p.100)

 自分で言っちゃう若宮にに様。でも、使い魔的マスコットキャラかな、などと思ってはいけません。祟ります。ちなみに前作『人の道御三神といろはにブロガーズ』に出てきた(本作にもちらりと登場)御三神の息子だということで、こうして作品間がリンクされてゆきます。

 「荒神様は単なる私の空想の産物とは「別の世界」にいる。夢や、「白昼夢」の中でさえ声と声のつきあいをする他者というのは自分の人形ではない。それは「空想」の対象でありながら、フィクションの「語り」によってしか客観化出来ないもの。」(単行本p.114、115)

 そして猫ダンジョンとは何か。それは、老猫介護の労苦のなかで作者が作り上げた空想の場所。愛猫ドラとの死別を前提とした上での、今のこの刹那の幸福を永遠のものにするための洞窟です。

 「最後までドラと生を生きたい、瞬間を生きたい。きちんと看取る事は飼い主の義務だ。その後は心の世界でドラと会える時が来るかもしれないけど時間がかかる。老化は止まらない。私もいつか死ぬ。明日かもしれない。いつかは判らない。今はそう思える。でもそう思う事も一秒後にはなくなっているかもしれない無常の世を神は見せる。」(単行本p.172)

 「荒神様! 荒神様! このダンジョンのお蔭で言える事ですが、今とても幸福です。ずっと幸福です。」(単行本p.48)

 迫りくる死別のときを意識しながら、たった一人で過酷な猫介護生活を送る作者。せめて残り少ない時間を愛猫とともに心静かに過ごしたいところですが、心を乱すあれこれは絶えることがありません。

 「家族の歴史のつぼのところが丁度嘘だった。その嘘のただ中で私は努力して来た。無駄な努力だった。」(単行本p.172)

 「ああ、知らなかった。父はお坊ちゃんで侍の子孫だった。でもその事を母は黙っていた。そしてそのかわりに母は言った。自分の夫は平民で貧しく強欲な両親から冷たい扱いを受けてきた苦労人だと。みんなが子供の頃の父を苛めたので、父はきびしい人になったのだと。私のする事が気に入らないのもそのせいだと。」(単行本p.41、42)

 家族との確執、身体の不調、あるいは論争、粘着質読者からの脅迫。苦しみのなかで作者は祈ります。

 荒神様! 荒神様!

 しかし、本当に凄いのはここから。後半にかけて、もしかしたらこれまでに書かれたことがないかも知れない、ポリフォニー私小説とでも呼ぶべき極北めざし突き進んでゆくのです。

 「今まで、託宣小説みたいなものを書いて神様との対話を私は小説化して来た。だけどその時は託宣という言葉の固まりを「翻訳」して来ただけだ。それが直に「人格」を持ってこっちに来る、そりゃ進化ではある。危険過ぎるけど。」(単行本p.110)

 「私に人間をやめさせて時間もばらばらにする危険な他者、今、猫の都合に合わせ、猫の生を生きている。その結果脳がゆるくなっている。そこで自我の外にあるものがすこすこと脳内に入って来て住みつく。でも考えてみればそこにこそ自分がある。」(単行本p.111)

 「外」から脳内に入ってくる神々の言葉を、「翻訳」しないでそのまま書いて文学にする。「そこにこそ自分がある」とまで断言する。そりゃ危険です。やばいです。

 「まあそんなの危険に決っているんですけど実況できれば立派な「特技」ですわっ。だって空想よりぶっ飛んだ「心の外(それも脳内)」の世界の御報告よ。しかも私の今までの小説登場人物とは違ってまさに神様だ。人間に近いけど人間ではない。登場人物とも言い切れない。」(単行本p.110)

 というわけで、脳内他者たる神々の言葉を小説に書いてしまう。そういう設定というのではなく、本当に書いた文章を読者の前に差し出してみせる。やっちゃうんですよ。

 「なんかお墓の前で平家物語とか、彼ひとりで語ってるような感じの語りだわな。」(単行本p.93)

 まるで琵琶法師の語りのように、複数の自我、脳内の他者、神々が、それぞれの一人称を用いて語り始めます。例えば、金毘羅としての作者は「私」、その金毘羅に身体を奪われて死んだ女子霊は「あたし」。

 「金毘羅ってばっかみたい見ていてイライラしますわ。ぷ、別に羨ましいとは思っていないですよ。」(単行本p.80)

 「要するにね、この人、やはり祈る対象が必要なただの深海生物にすぎないと思います。」(単行本p.89)

 「え、人としてひどくないかって別にー、だって、あたしにあたしはない、あるのはただ、ふっきれた笑い声だけですもの。」(単行本p.189)

 個人的に「あたしちゃん」と呼んでいるこの女子霊の出現を皮切りに、一人称が「私」と「あたし」に分裂してゆき、最後の方では一つの文章中で連続性を保ちながら人称も自我もころころ切り替わるという超絶技巧が用いられます。

 「それは、私を乗っ取りにやって来たあたしなのだった。」(単行本p.154)

 「捨てる冷たいあたし、しがみつく熱い私、じゃあその線上でせめぎあったら、うちの場合は結局俺っていうかも。」(単行本p.155)

 「でも生が私で死があたしなら、本当は。そう。私はあたしに裏打ちされるすととすとと。あたしは私に裏返るでんぐりこ。」(単行本p.160)

 特権的な視点人物を排し、複数の登場人物の視点を用いて物事を多層的に書くという小説技法をポリフォニー(多声法)というのだそうですが、複数の自我、そしてその中にある他者(しかも神々)の声を響かせ、生と死の線上を書くという、驚異のポリフォニック「私小説」、今読んでいるのがそういうものだと気づいたときには愕然としました。しますよそりゃ。しかもこれはまだ序の口、シリーズ次作『猫キャンパス荒神』ではさらにその先へ進んでゆくのです。畏怖。

 というわけで、これまでの作品を集大成、というより取り込んで再定義し直してゆくような、畢生の大作が生まれつつあります。ずいぶん昔、笙野頼子さんが、神々が対話する小説を書いてそれを60代の代表作にしたい、とおっしゃっていたと記憶しているのですが、それを50代で書いてしまうという、その急ぎ様、切迫感、読者としては固唾をのんで見守るしかありません。


タグ:笙野頼子
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