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『小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「だってここ十六年間、どんな、猫と関係ない場面を書いていても、私小説の「私」と同じ位にドラは「そこ」にいた。私が小説に何を書いたってその今の一番核心を猫は生きていた。私の心臓の鼓動として。なのに今その鼓動が。」(単行本p.25)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第63回。

 序章含め六部作になる予定の大作『小説神変理層夢経』の第二部、『猫ダンジョン荒神』が単行本化されました。出版(講談社)は、2012年09月。シリーズ初の単行本です。

 同時期に並行して連載されていた序章『猫トイレット荒神』の方が先に単行本化されるものとばかり思っていたので戸惑いましたが、よく考えてみれば、序章のラスト、様々な神の声があまりにも天国的に響きわたるなか「そのとき」がやってきますので、順番として老猫介護を扱った『猫ダンジョン荒神』の方を先に出したということでしょう。おそらく。

 「ローン十年目、千葉の小さい建売に私は住んでいる。このわが家には、今、一柱の荒神様が祀られている。彼は私がこの家で見いだした、(家内)宇宙最強の神様である。」(単行本p.3)

 という書き出しで始まる本作は、老猫介護その他に苦しむ作者が荒神様のサポートを受けて猫ダンジョンを作り上げる、というところから始まります。

 「実はこの家の持主を、母神、巫女に見立てて、僕はそのアラミタマ、彼女の心の働きのもっともいきいきとした部分となって、働いているのです。現在はこの作者の家の屋敷荒神と猫荒神を務めながら、文学関連というか言語全体をサポートしています。」(単行本p.96、97)

 わりと気さくに語ってくれる荒神様、名前は「若宮にに」(仮名)。多くの場合、可愛い子猫の姿をとって荒神棚を出入りします。

 「自分で言うけどね、可愛いでしょう、僕。」(単行本p.100)

 「声だけが幼い、アニメの声優みたいなところもあると思います。」(単行本p.100)

 自分で言っちゃう若宮にに様。でも、使い魔的マスコットキャラかな、などと思ってはいけません。祟ります。ちなみに前作『人の道御三神といろはにブロガーズ』に出てきた(本作にもちらりと登場)御三神の息子だということで、こうして作品間がリンクされてゆきます。

 「荒神様は単なる私の空想の産物とは「別の世界」にいる。夢や、「白昼夢」の中でさえ声と声のつきあいをする他者というのは自分の人形ではない。それは「空想」の対象でありながら、フィクションの「語り」によってしか客観化出来ないもの。」(単行本p.114、115)

 そして猫ダンジョンとは何か。それは、老猫介護の労苦のなかで作者が作り上げた空想の場所。愛猫ドラとの死別を前提とした上での、今のこの刹那の幸福を永遠のものにするための洞窟です。

 「最後までドラと生を生きたい、瞬間を生きたい。きちんと看取る事は飼い主の義務だ。その後は心の世界でドラと会える時が来るかもしれないけど時間がかかる。老化は止まらない。私もいつか死ぬ。明日かもしれない。いつかは判らない。今はそう思える。でもそう思う事も一秒後にはなくなっているかもしれない無常の世を神は見せる。」(単行本p.172)

 「荒神様! 荒神様! このダンジョンのお蔭で言える事ですが、今とても幸福です。ずっと幸福です。」(単行本p.48)

 迫りくる死別のときを意識しながら、たった一人で過酷な猫介護生活を送る作者。せめて残り少ない時間を愛猫とともに心静かに過ごしたいところですが、心を乱すあれこれは絶えることがありません。

 「家族の歴史のつぼのところが丁度嘘だった。その嘘のただ中で私は努力して来た。無駄な努力だった。」(単行本p.172)

 「ああ、知らなかった。父はお坊ちゃんで侍の子孫だった。でもその事を母は黙っていた。そしてそのかわりに母は言った。自分の夫は平民で貧しく強欲な両親から冷たい扱いを受けてきた苦労人だと。みんなが子供の頃の父を苛めたので、父はきびしい人になったのだと。私のする事が気に入らないのもそのせいだと。」(単行本p.41、42)

 家族との確執、身体の不調、あるいは論争、粘着質読者からの脅迫。苦しみのなかで作者は祈ります。

 荒神様! 荒神様!

 しかし、本当に凄いのはここから。後半にかけて、もしかしたらこれまでに書かれたことがないかも知れない、ポリフォニー私小説とでも呼ぶべき極北めざし突き進んでゆくのです。

 「今まで、託宣小説みたいなものを書いて神様との対話を私は小説化して来た。だけどその時は託宣という言葉の固まりを「翻訳」して来ただけだ。それが直に「人格」を持ってこっちに来る、そりゃ進化ではある。危険過ぎるけど。」(単行本p.110)

 「私に人間をやめさせて時間もばらばらにする危険な他者、今、猫の都合に合わせ、猫の生を生きている。その結果脳がゆるくなっている。そこで自我の外にあるものがすこすこと脳内に入って来て住みつく。でも考えてみればそこにこそ自分がある。」(単行本p.111)

 「外」から脳内に入ってくる神々の言葉を、「翻訳」しないでそのまま書いて文学にする。「そこにこそ自分がある」とまで断言する。そりゃ危険です。やばいです。

 「まあそんなの危険に決っているんですけど実況できれば立派な「特技」ですわっ。だって空想よりぶっ飛んだ「心の外(それも脳内)」の世界の御報告よ。しかも私の今までの小説登場人物とは違ってまさに神様だ。人間に近いけど人間ではない。登場人物とも言い切れない。」(単行本p.110)

 というわけで、脳内他者たる神々の言葉を小説に書いてしまう。そういう設定というのではなく、本当に書いた文章を読者の前に差し出してみせる。やっちゃうんですよ。

 「なんかお墓の前で平家物語とか、彼ひとりで語ってるような感じの語りだわな。」(単行本p.93)

 まるで琵琶法師の語りのように、複数の自我、脳内の他者、神々が、それぞれの一人称を用いて語り始めます。例えば、金毘羅としての作者は「私」、その金毘羅に身体を奪われて死んだ女子霊は「あたし」。

 「金毘羅ってばっかみたい見ていてイライラしますわ。ぷ、別に羨ましいとは思っていないですよ。」(単行本p.80)

 「要するにね、この人、やはり祈る対象が必要なただの深海生物にすぎないと思います。」(単行本p.89)

 「え、人としてひどくないかって別にー、だって、あたしにあたしはない、あるのはただ、ふっきれた笑い声だけですもの。」(単行本p.189)

 個人的に「あたしちゃん」と呼んでいるこの女子霊の出現を皮切りに、一人称が「私」と「あたし」に分裂してゆき、最後の方では一つの文章中で連続性を保ちながら人称も自我もころころ切り替わるという超絶技巧が用いられます。

 「それは、私を乗っ取りにやって来たあたしなのだった。」(単行本p.154)

 「捨てる冷たいあたし、しがみつく熱い私、じゃあその線上でせめぎあったら、うちの場合は結局俺っていうかも。」(単行本p.155)

 「でも生が私で死があたしなら、本当は。そう。私はあたしに裏打ちされるすととすとと。あたしは私に裏返るでんぐりこ。」(単行本p.160)

 特権的な視点人物を排し、複数の登場人物の視点を用いて物事を多層的に書くという小説技法をポリフォニー(多声法)というのだそうですが、複数の自我、そしてその中にある他者(しかも神々)の声を響かせ、生と死の線上を書くという、驚異のポリフォニック「私小説」、今読んでいるのがそういうものだと気づいたときには愕然としました。しますよそりゃ。しかもこれはまだ序の口、シリーズ次作『猫キャンパス荒神』ではさらにその先へ進んでゆくのです。畏怖。

 というわけで、これまでの作品を集大成、というより取り込んで再定義し直してゆくような、畢生の大作が生まれつつあります。ずいぶん昔、笙野頼子さんが、神々が対話する小説を書いてそれを60代の代表作にしたい、とおっしゃっていたと記憶しているのですが、それを50代で書いてしまうという、その急ぎ様、切迫感、読者としては固唾をのんで見守るしかありません。


タグ:笙野頼子
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