SSブログ

『精神のけもの道  つい、おかしなことをやってしまう人たちの話』(著:春日武彦、漫画:吉野朔実) [読書(随筆)]

 「人は現実が何だか微妙に「わからなく」なることがある。しかもその状態から日常へと引き返すことをせずに、いつしか意味の真っ白な場所へたどりついてしまうことがある」(文庫版p.158)

 天井裏に潜む幻の同居人、神の啓示で空飛ぶ円盤を建造した男、会話に延々とインチキ英単語を混ぜてしまう日本人。本人のなかでは整合性があるらしいものの、どこかで道を踏み間違えたような心の有り様について、精神科医が語ってくれる一冊。文庫版(アスペクト)出版は、2012年07月です。

 「精神のけもの道とは、人の心の働きにおいて、なるほど論理的で整合性はあるもののそれが「普通の人の日常的な文脈」からは逸脱してしまい、しかも何か過剰なものを現出させてしまっている人物の精神の様相を指す言葉である」(文庫版p.14)

 最初に登場するのは、病死した姉が好物だったというドラ焼き二十個を懐に入れて投身自殺した老女。この痛ましいニュースを読んだ著者は、ふと、こう考えるのです。

 「果たして飛び降り自殺に臨んで懐に入れねばならないものなのか。(中略)おまけにドラ焼きが二十個というのは多過ぎないか」(文庫版p.15)

 さすが精神科医。人間の心に潜む妙なものに敏感です。

 異常というほどではない、不可解というわけでもない、でも考え始めると妙に気になってきて、その先を想像するとなんだか戻れなくなるようなかすかな不安を感じる、そんな「精神のけもの道」に踏み込んでしまった人々の逸話を、ご自身が扱った患者、ニュース記事、文学作品などから取り出して、あれこれ語ってみせるエッセイ集です。

 例えば、天井裏に怪人が潜んでいると訴える老婦人。誰がそんな狭いところにわざわざ隠れているのかと問われていわく、「可哀相な人なんじゃないかしら」(文庫版p.34)。

 「わたし自身、幻の同居人を語る老人とはかなり多く出会っている。おそらく日本全国では、とんでもない数の怪人が天井裏に潜んでいるに違いない。どこの町にも、天井裏へと精神のけもの道が続いている家がある」(文庫版p.37)

 あるいは、日記マニアの長期入院患者。全く無内容な日記を何年にも渡ってひたすら書き続けるその様に、著者はこのように感じるのです。

 「わたしは彼の日記に心を動かされる。その理由はおそらく、運命に対する無頓着さがありありと伝わってくるからなのである」(文庫版p.51)

 こういう精神科医らしい印象的な洞察があちこちに散りばめられています。

 「神経症的に生きるということは、つまらないことを糧に生きること、あえて人生を単純化して生きることであり、それは数多くのワーカホリックたちと大差ないとも言える」(文庫版p.84)

 神の啓示に従って張りぼての空飛ぶ円盤を一生かけて作り上げた人、自宅の裏に本格的なマイ踏切を作ってしまった人、泡沫候補と揶揄されつつも選挙のたびに立候補をくり返す人など、本書に登場する神経症的な人々と、いわゆるワーカホリックというか仕事熱心なデキる社員とでは、どこか違うのでしょうか。

 他にも、鍵をかけ忘れたのではないかと心配で仕方ない人、自分を励ましてくれる言葉を聞くまで引き下がらない人、何の意味もなく安っぽい嘘を平然とつく人、他のことはすべて覚えているのに自分の身元だけ記憶喪失して人生リセットかけてくる人、そして自己嫌悪に苦しんだ挙げ句に意味不明な自虐行為に走る人。

 「突飛な妄想に駆られたり、不可解な「こだわり」で身動きのとれない人たちが興味を惹くのはもちろんだが、自己嫌悪に囚われた人こそが一番わたしの琴線に触れてくる」(文庫版p.162)

 随筆に華を添えるのが、吉野朔実さんのコミック。各章ごとに、扉絵と見開き2ページの漫画が提供されています。文章に書かれている内容をそのまま絵にしたというわけではなく、独立したコミック作品になっているのが素晴らしい。

 例えば、「つまらないことほど大切」という章に添えられた漫画はこう。

 知人の旅行中に猫の世話をするために部屋に入ったところ、クローゼットの扉が開いていることに気づいてしまう。このままでは自分が開けたと疑われるかも知れない。でも他人の部屋のものに勝手に手を触れては駄目だ。どうする、どうする、さあ、どうする。悩んだ挙げ句に、猫の手を使って扉を閉めるのであった。(実は、もともとクローゼットの扉を開けたのはその猫だった)

 他にも「何がなんでも安心したいという欲望」という副題がついた章の扉絵では、「火葬場で生き返らないように、一滴残らず血を絞ってから焼いてね」と一言。「愚かさがまぶしい」の章に添えられた扉絵に描かれているのは、安っぽい浴槽の湯に、笑顔で超高級ワインを注いでいる婦人。

 文章と絵、それぞれ微妙にずれた感じを出していて、味わい深いものがあります。どこか変な人々、他人の行為から感じられる何とも言えない違和感、日常のなかにふと開いている意味不明な空白へとつながっているマンホール。そんなものに心惹かれる方にお勧めです。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ: