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『図書館情調』(日比嘉高:編、笙野頼子、三崎亜記、他) [読書(小説・詩)]

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 図書館は単に本が収められている空間ではない。そこで人が本に出会い、人に出会うことによって、静謐な読書の場は何事かが始まる物語の空間となる。多くの作家や詩人たちが、図書館という場に目を向けてきたのも当然だ。彼らはものを書く人間として、知識を書物から吸収しなければならず、図書館はその生活圏の一つであった。そうしてまた、書物を目指して見ず知らずの者たちが一所に集い、本を媒介として過去や現在に繋がり、その場所で人と人同士も接触するというこの空間の面白さに、創作の種子を見い出した者たちがいたとしても、何の不思議もあるまい。
 本書はそんな図書館に魅入られた作家詩人たちによる、〈図書館文学〉のアンソロジーである。
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単行本p.222


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第112回。

 書物を介して見知らぬ者同士が出会う場所。図書館という不思議な空間を舞台とした小説や詩のアンソロジー。単行本(皓星社)出版は2017年6月です。


[収録作品]

  『図書館情調』(萩原朔太郎)

第一部 図書館を使う
  『出世』(菊池寛)
  『図書館』(宮本百合子)
  『文字禍』(中島敦)
  『世界地図を借る男』(竹内正一)

第二部 図書館で働く
  『柴笛詩集(抄)』(渋川驍)
  『少年達』(新田潤)
  『司書の死』(中野重治)
  『図書館の秋』(小林宏)

第三部 図書館幻想
  『深夜の道士』(富永太郎)
  『S倉極楽図書館』(笙野頼子)
  『図書館幻想』(宮澤賢治)
  『図書館あるいは紙魚の吐く夢』(高橋睦朗)
  『図書館』(三崎亜記)



『出世』(菊池寛)
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自分の顔を知って居るかも知れないあの大男は、一体どんな気持で自分の下駄を預るだろう。あの尻切草履を預けて、下足札を貰えなかった自分と、今の自分とは夢のようにかけはなれて居る。あの草履の代りに、柾目の正しく通った下駄を預けることが出来る。が、預る人はやっぱり同じ大男の爺だ。そう思うと、譲吉はあの男に、心からすまないように思われた。何うか、自分をしまって居て呉れ、自分がすまなく思って居るような気持ちが、先方の胸に起らないで呉れと譲吉は願った。
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単行本p.23

 貧乏学生だった頃に通っていた帝国図書館にひさしぶりに足を向けた語り手は、かつて下足番の老人との間で起きた小さなトラブルのことを思い出す。あの頃から自分は随分と出世した。それなのに、あの老人は今も図書館の地下の暗がりで客の下駄を預っているに違いない。そしてそのまま出世することなく一生を終えるのだろう。出世した自分との境遇の差に何やら申し訳ないものを感じ、語り手はどうか老人が自分のことに気付かないでくれ、と祈るような気持ちになるのだった。

 有名な短篇。若い頃に読んだときはそのエリート意識に何とも鼻持ちならないものを感じて嫌だったのですが、この歳になって読むと、まあ自意識過剰な若者らしくて大いに結構結構、といった気持ちに。


『図書館』(宮本百合子)
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広間の入口で、学生に、婦人閲覧室はどこでしょうときいたら、不思議そうに一寸黙っていて、ここです、と答えた。ここというのは、一般閲覧室である。入って行ってみると、男女区別なしに隣りあって読書したり、ノートしたり、居睡りしたりしている。戦争はその結果としていろいろの変化をもたらした。けれども、この役人くさい図書館が、やっと世間なみに、男女共通の閲覧室をもつ決心をしたということには一種のユーモアがある。
(中略)
 もうこれからは、どこの図書館でも、婦人閲覧室というものは無くなってゆくだろう。云ってみれば、社会の全面から、そういう差別を無くしたい気持ちに燃えている、女の人たちの集りが、最後の婦人閲覧室から生れたことは面白く思われる。
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単行本p.32

 ひさしぶりに帝国図書館を訪れた語り手。戦前の婦人閲覧室が廃止され、男女平等の一般閲覧室になっていることに、ある種の感銘を受ける。「男子、女子の区別は、従来の日本の半官的な場所では愚劣なほど神経質であった」という過去、「男女区別なしに隣りあって読書したり、ノートしたり、居睡りしたりしている」という現在、そしてその隔離された婦人閲覧室に集っていた女性たちこそ、その変化を勝ち取った主役であったに違いないことを想像する。

 前述の『出世』(菊池寛)と同じ場所、似た状況なので、読み比べると面白いと思います。前者がもっぱら自分と他人の出世を比べて互いに傷つかないように接するエリートしぐさに汲々とするばかりなのに対して、本作の語り手は、世の中の変化とそれをもたらした人々、そして自分がいまいる場所と彼女たちとのつながりに思いを馳せるのです。


『文字禍』(中島敦)
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文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智恵もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智恵の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶えが悪くなった。之も文字の精の悪戯である。人々は、最早、書きとめて置かなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、最早、働かなくなったのである。
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単行本p.40

 古代アッシリアの老博士が、粘土板に刻まれた文字は単なるシンボルではなく、そこには文字の精が宿っていることを発見する。文字の精は人間をたぶらかし、堕落させ、真の智恵からむしろ遠ざけるものである、と主張する博士。だが、さすがの博士も、文字の精による反撃は予期していなかった。

 SFファンならつい「ああ、飛浩隆さんのあれの元ネタ」などと思ってしまう有名作。頭でっかちな知的エリートに対する風刺でしょうが、文字をネットあるいはSNSと読み替えれば、そのまま今日の風潮に対する風刺になってしまうというのが恐ろしい。「歴史とはな、この粘土板のことじゃ」「書かれなかった事は、無かった事じゃ」と叫ぶ博士の姿にも、何やら強い既視感があります。


『S倉極楽図書館』(笙野頼子)
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 そこでの利用者は異種間の衝突を避けるため、頭から布類または木の葉をすっぽり被って、体を隠していることが多い。「いろいろな方が来られるのですから」という特別地下司書も、カウンターでは腹這い。その司書だけは多分、私と「同族」だ。初めての利用者は特別図書カードをまず拵えるのだが、署名はいらない。葉書大の紙と、朱肉ではなくて畑の土が一塊手渡されるだけ。そこで私は指先を丸めて肉球ぽくしながら土をなすり、紙に「足型」を押した。形で固体を区別するのなら土よりインクがと思って尋ねてみると。「形より足臭です、臭いで区別します」と。カードも今のプラスチックのでなく、昔高校の図書館にあったような紙製のである。隣でふと差し出したそれを見ると、「日本の言葉」なのだが、見た事ない文字だ。本の分類も数字ではなく、多くは肉球ハンコ、その大小の羅列で整理してある。
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単行本p.134

 千葉のS倉に家を買って保護した猫たちと共に引っ越した作家。とりあえずの「無事」と「幸福」のなかで森茉莉の評伝小説を書いていたところ、調べ物があって、S倉地下図書館に行くことになる。そこは神明神社の横にある小さい祠の床に開いた大穴から這って入る「哺乳類だけの」図書館。しかし、どうも狐狸妖怪のたぐいもいっぱい利用しているようで「動物でなくても動物の形さえとっていれば」OKという、さすが極楽図書館。

 本作が収録されている短篇集の紹介はこちら。

  2014年08月29日の日記
  『片付けない作家と西の天狗』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-08-29


『図書館』(三崎亜記)
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 地に繋がれたとはいえ、「図書館」は、完全に野生を失ってしまったわけではない。人のいない深夜だけ「野生」を取り戻すのだ。そこで働く者にとっては周知の事実であるが、一般の人々にはほとんど知られてはいない。
 閉ざされた暗闇の中で、図書館の野生に庇護されて、本たちはゆっくりと回遊し、遺伝子に遺された野生の血を受け継いでゆく。
 長き図書館の歴史に思いを馳せ、静まり返ったフロアを見渡した。私は、「図書館の野生」を、一般の人々にも触れる機会を持たせるべく派遣されてきた「調教士」だ。
 夜の図書館を一般公開するというのは、猛獣の檻の中に人を案内しようとするようなものだ。だからこそ、私のような仕事、すなわち「図書館の調教」が必要となってくる。
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単行本p.160、

 夜の図書館。一般利用者の目に触れないところで、書物たちは大きく羽ばたいて図書館内を回遊している。そこは本が束縛から解き放たれ、本能に従って群れなし飛翔する野生の空間。この、本来、人が触れるべきではない本の夜の生態を、地域振興のために一般公開するというイベントが全国で行われるようになってきた。事故が起きないよう安全に公開するためには、野生動物の調教と同じく専門家による管理が必要不可欠なのだ。

 本作が収録されている短篇集の紹介はこちら。

  2009年04月27日の日記
  『廃墟建築士』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2009-04-27



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『ふしぎの国のアリス』(小野寺修二、カンパニーデラシネラ) [ダンス]

 2017年6月11日は夫婦で新国立劇場に行ってカンパニーデラシネラの新作を鑑賞しました。ルイス・キャロルの原作をもとにした105分(途中休憩20分を含む)の公演です。


[キャスト他]

振付・演出: 小野寺修二
出演: 荒悠平、王下貴司、大庭裕介、斉藤悠、崎山莉奈、仁科幸、藤田桃子、小野寺修二


 「夏のこども劇場セット」の一部ということで子供にも楽しめる作品となっていますが、そこはやはり小野寺修二さんの作品。

 舞台上にニヤニヤ笑う小野寺さんが立っていて、崎山莉奈さんが「バッカみたい」と吐き捨て、藤田桃子さんが「んまー、なんてこと!」とか脈絡なく叫び、大庭裕介さんが大真面目な顔で観客に状況説明するふりをして、その背後でみんなが不思議な踊りを踊っていれば、そのまま『不思議の国のアリス』の世界。なぜ今までやらなかったのかと思うほど、カンパニーデラシネラにぴったりの題材です。

 最初に舞台上に置いてある傾いて歪んだ台形の机から始まって、様々なサイズの椅子、壁になったり部屋になったりと大活躍する複数のドアなど、舞台道具そのものがキュートです。実質的な扉として使われるルービックキューブも印象的。

 それらのギミックを駆使しつつ、全員が完璧な振付でぶつからずに紙を受け渡す同時多発的書類まわし、アリスが歩くスピードに合わせて次に踏むべき椅子をみんなで背後から前に受け渡し続ける無限軌道空中歩行など、人気の演出が出し惜しみなく投入されます。

 穴への落下、大きくなったり、小さくなったり、涙に溺れたり、といったシーンの演出がひとつひとつ工夫されていて飽きません。ようやくドアを開けてワンダーランドに入ったところで前半が終わり、後半はもう赤の女王、という大胆な途中省略もクール。

 大胆といえば、前半のアリス役が、傍観者の立場で事態が混乱してゆくのを眺めているような崎山莉奈さんと、積極的に事態を混乱させてゆく藤田桃子さんのダブルキャスト、というのも見事な演出だと思います。

 あと、崎山莉奈さんのアリスがレザージャケットびしっと決めて啖呵を切るのがカッコよくて、どちらかといえばエミリー・ザ・ストレンジ。そういやエミリーってアリスが下敷きになってますよね。原作のアリスもけっこう相手構わず喧嘩売ってゆくタイプだし。それと崎山莉奈さんが唐突にソロで踊るシーンは素敵でした。

 幕間には、子供たちが飽きないようにと玩具を用いた参加型パフォーマンスで注意を引きつけつつ、そのままホールから座席に誘導してゆくという気配り。親子で楽しめる演目として、小野寺版『ロミオとジュリエット』のように何度も上演されることになるといいなあと思います。



タグ:小野寺修二
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『短篇ベストコレクション 現代の小説2017』(日本文藝家協会:編、両角長彦、三崎亜記、森絵都、姫野カオルコ、他) [読書(小説・詩)]

 2016年に各小説誌に掲載された短篇から、日本文藝家協会が選んだ傑作を収録したアンソロジー。いわゆる中間小説を軸に、ミステリからハードSFまで幅広く収録されています。文庫版(徳間書店)出版は、2017年6月です。


[収録作品]

『早朝始発の殺風景』(青崎有吾)
『給餌室』(両角長彦)
『無事これ貴人』(伊坂幸太郎)
『猫とスコッチ』(太田忠司)
『サルビアの花』(井上荒野)
『温厚と激情』(東山彰良)
『砂時計の伝言』(法月綸太郎)
『共学における体育と男子』(姫野カオルコ)
『青空』(森絵都)
『父と私の桜尾通り商店街』(今村夏子)
『花はバスにのって』(小島水青)
『タマ取り』(今野敏)
『水谷くんに解けない謎』(芦沢央)
『淑女の嗜み』(木下古栗)
『町内会の草野球チーム』(中島京子)
『雲南省スー族におけるVR技術の使用例』(柴田勝家)
『流出』(三崎亜記)


『早朝始発の殺風景』(青崎有吾)
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 その苗字が体現するとおり、殺風景はおよそ愛嬌というものを持ち合わせない少女だった。顔立ちは整っていて、ビー玉みたいな瞳が印象的だが、常に無表情で喜怒哀楽のバリエーションがない。その荒涼ぶりはクールというよりも空虚である。下手に近づいたら痛い目を見そうな雰囲気があり、ゆえに友達も多くない。
(中略)
 だからといって、彼女を避けたいわけじゃないけれど。いまから二十分近く一緒というのは正直困りものである。まったく、どうしてこんな朝早くに登校を?
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文庫版p.10

 ある事情で始発電車に乗ったところ、同じクラスの女子と出会ってしまった男子高校生。なぜ彼女はこんな早い時間に登校するのだろうか。向こうも同じ疑問を抱いているらしく、いつのまにか互いに「自分の事情を隠しつつ相手の事情を推理する」という心理ゲームが始まる。小さな謎をささいな手がかりから推理してゆくミステリ。


『給餌室』(両角長彦)
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 あと一日で終わる。金をもらって、うまいもの食って、すべて忘れてしまおう。何もかも他人事だ。ここで何がおきていたとしても、あのペットの正体が何だったとしても、すべて岸田さん個人の趣味の問題で、こちらには関係ない。
 あと一日だ。会社に通って、デブデブとからかわれて、今まで通りの生活だ。何もかも元通りだ。関係ない関係ない。
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文庫版p.67

 肥満気味の男が、金持ちの依頼人に頼まれた仕事。それは別荘にいるペットに十日間だけ生肉を給餌するという簡単なもの。ただしペットの姿を見てはいけない。建物から外に出てもいけない。食事は三食すべて上質のステーキとワイン。男は喜んで仕事を引き受け、どんどん体重が増してゆく。いやこれどう考えても『注文の多い料理店』でしょ、と思いいつも、先が気になってついつい読み進めてしまう切れ味のよい短篇。


『温厚と激情』(東山彰良)
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作家先生は自分の小説に『激情』などとつけたことを、ほんのちょっぴり恥じた。彼がこの講演会で学んだ教訓は、庶民のえげつない生命力にくらべれば正木賞作家などいかほどのこともない、ということである。
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文庫版p.222

 有名な文学賞を受賞したハードボイルドな作家が、母校に招かれて講演会を行う。司会を担当する教授はひたすら見苦しいお世辞を続け、作家を怒らせてしまう。教授が抱えているのは果てしなく下世話な事情(金・色・権力)。ユーモラスな文章で、俗悪な登場人物がみっともないドタバタを繰り広げる痛快作。著者が東山彰良さんという事実が格別な効果をあげています。


『共学における体育と男子』(姫野カオルコ)
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 数学少年で、他教科も体育以外は10で、ギターの名手。こんなかっこいい事実要素が生徒の目に入らなくなるようなカバーが新沢くんには常にかかっており、結果、彼は常に、おぼつかなげであった。
「でも、奇天烈な発言をしたことがあるのです」
 四十年たっても忘れられない。忘れようもない。それは―――。
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文庫版p.271

 どんなに成績優秀だろうと、「体育ができない」「お肌すべすべ」(肌の色みは文春文庫)というだけで女子の視界から外れていた新沢くん。そんな新沢くんが、奇天烈発言で皆を絶句させたことがあった。そう、あれは四十年前のある日のこと。「青春の残酷をストンと避けていた」(文庫版p.292)天然男子高校生の思い出が何故か心に染みる短篇。本書収録作品中、個人的にもっともお気に入り。


『青空』(森絵都)
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 そう、アレだ。おそらく。十中八九。ベニヤ板の奇襲にともない、どこの神経回路がどうねじれたのやら、遥か昔の胸きゅんエピソードが記憶の底から逆流した、といったところではなかろうか。あの切羽詰まった緊急時においてさえ、その残像はどこかしら甘やかな、私をときめかせるに足る青春の一ページとして再来した。
 あなたはもはや聞く耳を失っているかもしれない。
――――
文庫版p.310

 妻と死別し、残された息子を義父母に預けることに決めた男。息子と一緒に車に乗って高速道路を走行中、前のトラックの荷台から巨大なベニヤ板が外れて、こちらのフロントガラスをまさに直撃……。その瞬間、男は若いころの父親とのエピソードをありありと思い出す。それから、高校時代の胸きゅんエピソードとかも。まだベニヤ板は直撃してない。あと一秒ある。いわゆる走馬灯現象をユーモラスに描いて、緊張感と脱力感を巧みにより合わせてみせる短篇。


『父と私の桜尾通り商店街』(今村夏子)
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「ゆうこ……。この通り、お父さんもう年なんだよ。とても体がついていかない……」
「またそんなこと言って」
「……それにほら、入り口のところに新しいパン屋ができたそうじゃないか? お客はどうせあっちに流れていくさ。うちは用済みというわけだ。な、ちょうどよかった。誰がわざわざこんなはずれの店に」
「はずれ? お父さん今はずれって言った? ちょっとおもてへ出なよ」
 外へ連れて行こうと腕を引っぱると、父はいやがった。
「痛い、やめなさい、やめろ」
「あのねお父さん、商店街にははずれもあたりもないんだよ。出口も入り口もない。知ってた? 知らなかったでしょう。ほらしゃんとして」
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文庫版p.369

 商店街から村八分扱いされているパン屋の親父とその娘。もう限界ということで、ストックしてある原材料を使い切ったら店を畳もう、そう決めて店じまいに向けたカウントダウン営業に入る。しかし、あまりに売れないので、いつまでたっても店じまい出来ない悲しみ。店で接客をしていた娘は、ある出会いによって、今更やる気がみなぎってくる。へたれ親父を前にした娘の(方向を間違えた)奮闘を描く短篇。


『流出』(三崎亜記)
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 流出した私の「情報」は、会社の同僚たちだけでなく、既に見知らぬ他人にまで知れ渡っているというのだろうか?
 カップルの言葉で、周囲の人々も、私に気付いたようだ。あちこちでひそひそ話が始まった。下車する駅ではなかったが、私はいたたまれなくなって、俯いて車両から飛び出した。扉が閉まると、男の嘲笑も遠ざかった。私はほっとして、動き出した車両を振り返った。
 心臓が止まりそうになった。
 列車に乗る乗客すべてが、私を見ていた。憐れむように、蔑むように、あざ笑うように……。シートに座る者まで、わざわざ背後を振り返って、私を凝視していたのだ。
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文庫版p.502

 「君の個人情報がネットに流出した」と告げられた男。といっても、どんな情報が流出したのか見当もつかない。しかし、同僚たちは露骨に彼を避けるようになり、どこに行っても周囲の人が彼を見てひそひそ噂をする。いったい何が流出したんだ。どこで炎上しているんだ。本人とは無関係に一人歩きする個人情報、そしてそれが事実どころか本人よりも優先されてしまうネットの不条理を、今や懐かしい風刺ドタバタSF風に描いた短篇。



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『誤解するカド ファーストコンタクトSF傑作選』(野﨑まど・大森望:編) [読書(SF)]

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この広い宇宙のどこかには、人間がまだ見ぬ異質な地球外生命がいるのではないか――その可能性は、なぜか、わたしたちの興味を強くひきつけます。そうした異質なものとの“最初の出会い”を、SFの世界では“ファーストコンタクト”と呼びならわしてきました。
(中略)
ファーストコンタクトSFは、『竹取物語』以来、千年以上の長い歴史を持ち、作品数も膨大。本書一冊でその歴史を概観するのはさすがに無理があるので、このテーマの多様性が一望できるよう、なるべく違ったタイプの作品を集めようと心がけた。
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文庫版p.7


 異星文明など「未知なるもの」との最初の遭遇をえがく「ファーストコンタクトSF」のアンソロジー。文庫版(早川書房)出版は2017年4月です。


[収録作品]

『関節話法』(筒井康隆)
『コズミックロマンスカルテット with E』(小川一水)
『恒星間メテオロイド』(野尻抱介)
『消えた』(ジョン・クロウリー)
『タンディの物語』(シオドア・スタージョン)
『ウーブ身重く横たわる』(フィリップ・K・ディック)
『イグノラムス・イグノラビムス』(円城塔)
『はるかな響き Ein leiser Ton』(飛浩隆)
『わが愛しき娘たちよ』(コニー・ウィリス)
『第五の地平』(野崎まど)


『消えた』(ジョン・クロウリー)
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残された選択肢は、その受けとりを拒否することしかない。首を振り、きっぱりと、しかし礼儀正しく「いいえ」と告げること、なぜなら善意チケットを受けとるだけで「はい」のしるしと受けとられるかもしれないし、なにに対する「はい」なのかだれも正確には知らないけれど、少なくとも識者のあいだでは、これが《世界支配》に対する同意(または、少なくともそれに抵抗しないこと)を意味するという見方が主流だった。
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文庫版p.132

 巨大なマザーシップから現れた「エルマー」と呼ばれる生体ロボットか何かが、一件一件、個別に家庭訪問。親切に雑用を引き受けながら「善意チケット」へのサインをお願いしてくる。サインしたらどうなるのか分かったものではない。だが、たまたま別れた夫に子供を拉致され気が動転していた語り手は、なかば自棄になって善意チケットにサインしてしまう。彼女はいったい何に同意したのだろうか。善意とは何なのだろうか。


『タンディの物語』(シオドア・スタージョン)
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 母親は、金属質のぐにゃぐにゃしたものと、その中で震えていた紫色の謎めいたものを思い出した。あれはまるで、窓からべつの世界を覗いているみたいだった。それとも戸口。
「タンディ」母親は衝動的に質問を口にした。「戸口を抜けてきたブラウニーは何人いるの?」
「四人よ」タンディは快活に答え、スキップしはじめた。「ひとりはわたし用、ひとりはロビン用、ひとりはノエル用、ひとりは赤ちゃん用。ねえ、ジュース飲んでもいい?」
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文庫版p.193

 これはタンディの物語。カナヴェラルのくしゃみ、縮れのできたゲッター、漂う状態、サハラ墜落事故のアナロジー、ハワイと失われた衛星、利益分配プランのアナロジー。これらのレシピからつくられる、これはタンディの物語だ。

 「異世界から侵入してきた何かが子供たちにとりつく」という古典的な物語が、高揚感をもたらす素敵な文体で語られます。実は、子育てに疲労困憊している親のための願望充足SFだったりして。


『イグノラムス・イグノラビムス』(円城塔)
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 多数の触手で飾られた球体は、センチマーニにもよくわからない複雑な情報処理をその内部や表面で実行しており、センチマーニの意識なるものはその流れに浮かぶ泡のようなものだとも言える。脳の活動を化学反応と考えるなら、人間の意識も同じくその泡のような存在なのだが、センチマーニは別の個体の上に浮かんだ泡ですら、特徴さえ一致するなら、同じ自分として認識するし、認識される。
(中略)
 そこでのわたしは、センチマーニという流れの中に突然浮かんだ、人間という泡だった。そこにわたしというパターンが浮かび、わたしは自分がそこにいると認識し、膨大な距離を一瞬にして飛び越えていた。
――――
文庫版p.235

 突然、異星種族センチマーニになった語り手。いや、センチマーニの意識が走っている情報処理媒体(触手)上に「わたし」に相当するパターンが生じたのだ。こうして語り手はセンチマーニの文化と社会について学ぶことになったが……。

 「ワープ鴨の宇宙クラゲ包み火星樹の葉添え異星人ソース」から始まるグルメSF、だと思っていたら、いきなり人類とは本質的に異質な世界観、時間観、アイデンティティを持った異星人の文化と社会を正面から描くハードSFへと跳躍する傑作。ワープ鴨。

 映画『メッセージ』の原作『あなたの人生の物語』(テッド・チャン)を読んで、あの異星人たちはどんな社会でどういう人生観のもとに暮らしているのか、もう少しそこ突っ込んで知りたいなあ、と思った方にもお勧めです。


『わが愛しき娘たちよ』(コニー・ウィリス)
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「父親なんてクソの山よ」
 そのときあたしは、アラベルの話を思い出していた。ひじから先くらいの長さのちっちゃな茶色い動物。それから、ブラウンの言葉――お父さんはきみを守ろうとしてるだけなんだ。あたしは口を開き、
「クソの山以下よ。父親なんて、だれもかれも」
――――
文庫版p.328

 全寮制寄宿学校に放り込まれた不良娘のタヴィは何もかもむかついていた。ボーイフレンドは「テッセル」と呼ばれる小動物に夢中で、彼女とセックスしようとしない。校長は露骨に色目を使ってくるし、同室になった新入生はいつも何かに怯えてゲロ吐いてる。何が、お父さんはきみを守ろうとしてるだけなんだ、だよ、クソが、死ねよ。

 男が誇らしげに「父性」「男らしさ」とみなすもろもろの実態(つまり未成年者など身を守ることも抵抗することも出来ない相手に対する性暴力、性的虐待、服従強制)を、怒りを込めて告発した1985年発表作品。今でも古びていません。


『第五の地平』(野崎まど)
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 彼の目の前に、寥廓たる草原が広がっている。
 そして頭上には、それよりも遙かに広大な宇宙があった。
 故郷モンゴルはすでに7auの彼方であった。今チンギスが立っている場所はモンゴル族の勢力の前線。木星の軌道を越えて、土星周回軌道へと向かう道程の中ほどである。
(中略)
 人類の技術進歩はチンギスを宇宙に連れ出した。それからチンギスはがむしゃらに覇道を進んできたが、地球から7auの地において、とうとう自分の疑問を無視できなくなっているのだ。上下左右前後の区別すらない宇宙で、自分はいったい何を目指して走り続ければいいのか、と。
――――
文庫版p.355

 時は13世紀初頭。遥か太陽系の彼方まで広がる大草原を、宇宙馬に乗って駆けるチンギス・ハーン。だが、土星軌道を前にして、彼の心には疑問が生じていた。遠くへ行きたい、その一心でここまで版図を広げてきたが、宇宙で真に「遠く」を目指すには、どちらへ向かえばいいのか。腹心の部下は助言する。宿敵に一騎討ちを申し込むのです。互いの回りを馬で周回しつつ光速近くまで加速し、しかる後に正面から激突すれば、そのエネルギーは必ずや超根理論が予言する余剰次元への扉を開くことでしょう、と。

 まあとにかく、これが、野崎まど。



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『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介) [読書(小説・詩)]

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「男どもは、尻尾を巻いて逃げたってこと」
 答えて、アイシャは無表情にテラスの柵に寄りかかった。(中略)
 議員たちが逃げた理由は明らかだ。
 まず、自分たちの国軍はあてにならない。そして、図体の大きいCISは意思決定が遅い。平和維持軍が派兵されるよりも前に、皆殺しになると踏んだわけだ。
(中略)
「こんな状況だから、誰も矢面に立とうとはしない。それで、しょうがないから、国家をやることにしようかなと」
 まるでバンドか何かを結成するみたいに言う。
(中略)
 なんだか大変なことになってきたぞ。
 手元の難民申請に眼を落とした。まさか、こんなに早く友情が試されることになろうとは。
「これより、この部屋に臨時政府を樹立する」
――――
単行本p.57、70、71


 中央アジア、アラル海が干上がって出来た塩の沙漠。そこに創られた小国アラルスタンで政変が起きた。大統領は暗殺され、イスラム原理主義運動のゲリラ組織が首都に迫るなか、政治家たちは無責任にも我先に国外逃亡してしまう。この危機に立ち上がったのは、後宮の少女たち。複雑に利害が入り組む中央アジアの政治情勢のなか、逃げ場のない彼女たちはすべてを賭けて国家運営に挑む。次々と話題作を放つ著者による最新長篇。単行本(角川書店)出版は2017年4月、Kindle版配信は2017年4月です。


――――
 まもなく風が吹いた。
 沙漠であるのに、潮の香りがふわりと皆を包み、過ぎ去っていく。まるで、かつてここにあった海の幽霊が、月とともに満ち、ふたたび引いていったように。
 この国の名は、アラルスタン。――かつて、アラル海と呼ばれた場所だ。
――――
単行本p.377


 「二十世紀最大の環境破壊」と呼ばれるアラル海の消滅。だが、残された塩の沙漠に、新たな国が創られた。それがアラルスタンである。迫害されている少数民族や難民を積極的に受け入れることで、きわどい安定と国家承認を得ている国。一歩間違えればあっという間に蹂躙される運命にある小国。

 カザフスタン、ウズペキスタン、トルクメニスタン、そしてロシア。周辺国との複雑な利害関係と地政学的バランスを巧みに活かし、現実に存在する場所に架空の国を作り上げてしまう手際が見事です。

 都市景観、生活習慣、衣装などがリアルに書き込まれ、まるで実在する国を舞台にした歴史小説(設定は現代ですが)を読んでいるような感触を味わえます。それに、何といっても、登場する料理がどれも美味しそう。

 物語の主要登場人物となるのは、タジキスタン内戦の難民、アフガン紛争から逃れてきたハザーラ人、迫害されるヤズディ教徒、チェチェン紛争で家族を殺された娘、ODAのため現地入りしていた両親を空爆で失った日系少女など、いずれも悲惨な境遇を生き延びてアラルスタンの後宮に拾われた少女たち。

 他にゆくあてもなく、この国を背負って生きてゆくしかない少女たちが、自分の居場所と明日を守るために奮闘する物語です。


――――
 アイシャを中心に雛鳥が立ち上がり、瓦解寸前のこの国をなんとか統治しようとしている。
 だが、若造の正義が事態を悪化させるさまを、これまで幾度も、ウズマは目にしてきた。アイシャたちは、圧倒的に経験が不足している。学はあっても、人間を知らないのだ。
 最初は、何もできないだろうと思った。
 流れを変えたのは――おそらく、ナツキの存在だ。
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単行本p.186


 取り残された後宮の少女たちが臨時政府を樹立。というか、ほぼ生贄の羊という立場を押しつけられる。だが、アイシャをリーダーとする後宮の少女たちは、この機会を逃さず、本気で国家運営に挑む覚悟を固めてゆく。

 流れで国防大臣に任命されてしまった少女ナツキは、まずは首都に進軍してくるイスラム原理主義運動のゲリラ兵を撃退しなければならない。

 「言っておくが俺たちの軍は本当に弱いぜ」と言い放ってしまう国軍の大佐。

 「このイーゴリ、武器商人である前に吟遊詩人です。そのことを、お忘れになってもらっては困りますな」などとうそぶく謎のロシア人。

 若者たちの奮闘を冷やかに見ている後宮の年配者。

 どうせ事態が最悪の展開になるまで待ってから「人道上の危機」を口実に介入して国を奪おうとするに違いない周辺国家。

 誰も何もあてに出来ない状況で、あらゆる手を尽くし首都攻防戦に備えるナツキ。


――――
 本当はわからない。戦況がどうなるかも、その結果、自分がどう感じるのかも。自分の介入のせいで、大佐やあの若い兵士が落命したらどう思うか。背負いこむなというほうが、土台無理だ。考えはじめると、暗澹としてくる。
 が、口が勝手に応えた。
「やることはやった。あとは野となれよ」
「その意気」
 アイシャが地図上に右手を置いた。数名が、すかさずその上に右手を重ねる。向かいのジャミラもそれに倣った。次々に、手が重ねられていく。
 体育会系だ。
 おずおずと、ナツキは最後にぽんと手を載せる。
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単行本p.105


 というわけで、『ヨハネスブルグの天使たち』から4年。国家とは何かというテーマを痛快エンターティメント長篇として一気に読ませてしまう力量に感服しました。後半、次から次へと畳みかけてくる展開もすごい。

 女の子たちが戦争や政治をやる話、というので避けている方には、むしろ『コンタクト・ゾーン』(篠田節子)だと思って読んで頂ければ。個人的に、最近の著者の活躍ぶりを見ていると篠田節子さんを連想するのです。



タグ:宮内悠介
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