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『ぶたぶたのティータイム』(矢崎存美) [読書(小説・詩)]

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 もっとつらい人もたくさんいるだろう。平凡と言えばそうかもしれない。でも、受け止められる重さは人それぞれ違う。公美恵は、その重さでもつらかった。その重さを、ぶたぶたのコーディアルと、電話の声が軽くし続けてくれた。
 それは多分、ぶたぶたの心が、それらに確かにこもっていたからに他ならない。彼の心は、どこにいても、離れていても届いていた。
 ぬいぐるみとか、本当に関係なかった。ずっとわかっていたのに、今まで気づかなかったのだ。
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文庫版p.226


 見た目は可愛いぶたのぬいぐるみ、中身は頼りになる中年男。そんな山崎ぶたぶた氏に出会った人々に、ほんの少しの勇気と幸福が訪れる。大好評「ぶたぶたシリーズ」は、そんなハートウォーミングな奇跡の物語。

 記念すべきぶたぶた第30作目の本作は、英国風のケーキと紅茶を出してくれる素敵なカフェ「コーディアル」で皆様をお待ちしている山崎ぶたぶた氏を描いた5つの物語を収録した短篇集です。文庫版(光文社)出版は2019年7月。


[収録作品]

『アフタヌーンティーは庭園で』
『知らないケーキ』
『幸せでいてほしい』
『カラスとキャロットケーキ』
『心からの』




『アフタヌーンティーは庭園で』
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 母を見ると、何か悩んでいるようだった。
「どうしたの?」
「いや、好きなように食べていいって言われたけど、サンドイッチをあとにするのはさすがにはしたないかなって……」
 そうだった。母はしょっぱいもので締めたい人なのだ。
「いいんですよ」
 ワゴンに載ったぶたぶたがひょこっと顔を出す。「わーっ!」と叫びそうになるわ、サンドイッチが詰まりそうになるわで内心修羅場だったが、なんとか我慢した。
「どう召し上がっても、いいんですよ」
「……ぶたぶたさんなら、どう召し上がるんですか?」
 母ったら、下の名前で呼ぶなんて大胆!
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文庫版p.44


 庭園で開催されるアフタヌーンティーに参加した母娘。まあ、なんてファンタスティックなの。わざわざ出張してきて下さったパティシエさんもかわいいぬいぐるみだし。え、なにそれ?
 お砂糖とスパイスと素敵な何かに読者をご招待する導入作。


『知らないケーキ』
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 家にいるのとも違う。家ではこんなふうにお茶を飲まないし、飲めない。いろいろやることもあるし。
 言ってみれば、見知らぬ土地の道端でひと休みをしているような気分? 外ではないが、窓からの風も入ってくるし、開放感がある。
 お茶をゆっくり飲むって、こういうことかも、と和晴は思った。歩き疲れたら、休まないとそれ以上は進めない。そんな感じなのかもしれない。
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文庫版p.69


 50代後半のおじさんがふと立ち寄った「いんすたばえ」しそうなカフェ、「コーディアル」。店長は、ぬいぐるみだけど、年齢的にも近いおじさんなので一安心。色々と気苦労が絶えずばたばたしているうちに歳をとってしまったけど、こうしてお茶をゆっくり飲むなんて初めてかも知れないなあ。同世代のおじさんの心に刺さる作品。


『幸せでいてほしい』
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 それはね、お姉ちゃん――尊い思いが渋滞して、言語化できないってことなんだよ。沼にハマったオタクには、よくあることなんだよ。
 とは言わなかった。まだ。
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文庫版p.142


 何でも完璧にこなしてしまう美人の姉。その姉の様子が最近おかしい。せっかくいっしょにカフェ「コーディアル」に行っても、なぜか放心状態。もしやこれって、……。

 文庫の帯には「心が渋滞したら、ぶたぶたさんに会いに行こう」とあるのですが、これが「心がつらいときには、ぶたぶたさんで癒されよう」という意味ではなく、「推しが尊すぎてつらいときには、もう貢ぐしかない」という沼のことだと判明する作品。


『カラスとキャロットケーキ』
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「僕はただのぬいぐるみですから。それ以上の能力はないですよ」
 なんかすごいこと言われた。反論できない。「そんなことないですよ」とかも言えない。だいたい「ぬいぐるみの能力」の基本がわからない。
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文庫版p.171


 中学校でいじめられて不登校になった少年の周囲をうろつく怪しいカラス。そしてカフェにいるのは動いてしゃべるぬいぐるみ。しかも「上の娘があなたと同い年で」とか言われてしまう。山崎ぶたぶた氏に悩み相談して勇気をもらう作品。そういえば、ぶたぶたにとってカラスは天敵(油断すると持ってゆかれる)なのだった。


『心からの』
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 夫の両親はもう鬼籍に入っているが、父は病気だし、母も最近気弱になっている。夫ももう歳だし、公美恵自身も体調が今ひとつだし、子供たちにもいつ何があるかわからない。
 不安ばかりが倍増してしまう今日この頃だったが、ぶたぶたのお店には絶対に行きたかった。そこへ行けば、初めてエルダーフラワーコーディアルを飲んだ時みたいな気分に、またなれるように思えたから。
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文庫版p.217


 家庭内の気苦労、更年期うつ、花粉症。積み重なってゆく人生の辛さに押しつぶされそうになっていた女性が出会ったぬいぐるみ。それが十年におよぶ山崎ぶたぶたとの交流の始まりだった。ぼろぼろ泣ける最終話。



タグ:矢崎存美
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『SFマガジン2019年8月号 特集・『三体』と中国SF』 [読書(SF)]

 隔月刊SFマガジン2019年8月号の特集は「『三体』と中国SF」でした。『三体』日本語版の出版にあわせて四篇の中国SF短篇が掲載されています。さらに、『サイバータンク vs メガジラス』の続編、『博物館惑星2・ルーキー』シリーズ最新作なども掲載されました。


『天図』(王晋康:著、上原かおり:翻訳)
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囲碁界に馬スターが現れたなら、物理学界でも、じきに驢スターが現れるさ、そいつも0と1のわけのわからない文字列で、trial and errorを力ずくで実行するマッチョなやつさ、でもすぐに全ての天才科学者を遥かに凌駕することだろうよ、そしていつの日か宇宙の究極の法則を発見するのさ、でも科学者たちには理解できないんだ、
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SFマガジン2019年8月号p.24


 究極の万物理論を頂点とするすべての物理学体系を階層的にまとめた見取り図、これすなわち天図なり。そこには未来の物理学の構造までが明示されていた。この天図を描いたという少年はいったい何者なのか。その正体に迫る科学者は、物理学に終焉がせまっていることに気づく。


『たゆたう生』(何夕:著、及川茜:翻訳)
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 純粋エネルギー生命の誕生からたった一万年で、正の世界と負の世界が極点に達するまでにはまだ百億年かかる。その後も、わたしたちは存在し続ける。教えて、それは希望か、それとも……絶望なの?
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SFマガジン2019年8月号p.41


 エントロピーが増大し続ける宇宙、エントロピーが減少し続ける宇宙、この二つが対となり、永遠に循環を続ける陰陽太極宇宙。両極にまたがって存在する不滅の純粋エネルギー生命となった鶯鶯と灰灰の二人は、一万年のときをこえ、太陽系で再会する。だがそのとき、地球は変わり果てた姿になっていた。


『南島の星空』(趙海虹:著、立原透耶:翻訳)
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 天と人を二つに隔てた状況というのはまさに彼の家庭のことだった。妻の天琴は環境保護の資材を普及させる仕事についており、時代が認める精鋭を保護する「時代精鋭保護計画」に選ばれ、十歳の娘・合鴿を連れて珍玉城に入り生活をしていた。しかし彼は社会から差し迫った必要のない人材であると見なされ、この貴重な割り当てにあずかる権利を得られず、珍玉城の外でスモッグを仲間に――無論マスクとともに――留まっていた。平安市の中ではすでに数えきれないほどの同様の家庭が生まれており、またこのことで多くの婚姻関係が破綻し、ひどい時には社会の関心を集めるホットな話題となった。
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SFマガジン2019年8月号p.49


 ますます悪化する大気汚染への対策として建てられた珍玉城。それは汚染物質を濾過し清浄な大気だけを取り込む特殊フィルターで覆われたドーム都市。選ばれた人材だけが珍玉城への居住を許され、無用な人間は汚染された外部にとり残される。天文学者である主人公は後者と見なされ、珍玉城への居住権を得た妻子と別れるはめに。星空を見上げることは「無用」な仕事ではないことを、彼は娘に伝えたいと願う。


『だれもがチャールズを愛していた』(宝樹:著、稲村文吾:翻訳)
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 重力感覚を同期――ぼくはどこかに立っている。
 触覚を同期――そよ風が吹きすぎ、春の暖かさと海の湿り気を運んでくる。
 聴覚を同期――風の音、流麗な鳥の声。
 視覚を同期――眼に飛びこんできた薄紅色と白色が、数えきれぬほどの桜の花へと姿をなして萌ゆる春に咲きほこり、木の下には和服を着た妙齢の女が端座している。眉目秀麗、笑窪の咲くその姿は蒼井みやび。
 そしてぼくはチャールズ、唯一無二のチャールズ。
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SFマガジン2019年8月号p.60


 自分が体験している全感覚を「配信」できるようになった時代。一番人気のスターはチャールズ、唯一無二のチャールズだった。彼の感覚配信の「視聴者」たちは、チャールズ自身に乗り移って華麗なるハーレム人生を送ることが出来るのだ。今も、愛子天皇との謁見予定をブッチして元人気AV女優の蒼井みやびとデートしているチャールズ、その体験を数多くの視聴者が共有している。

 自室でひきこもり生活をしている宅見直人は、できる限りの時間をチャールズと同期して過ごすことで「本当の人生」を送っていた。ぼく三次元には興味ありません。隣に住んでいる幼なじみの朝倉南は、そんな宅見に「自分の人生」を取り戻させようと色々がんばるのだが……。


『子連れ戦車』(ティモシー・J・ゴーン:著、酒井昭伸:翻訳)
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 とうとう新生サイバータンクの装甲に付属する外部スピーカーが作動した。そこから出てきた第一声は――。
「みぎゃー」
 ふたたび、沈黙。われわれはもっとしゃべらせようと働きかけ、どうにか第二声を引きだすことができた。その声も――。
「みぎゃー」
 ここにいたって、われわれは悟った。どこかでなにかをまちがえたのだ。
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SFマガジン2019年8月号p.249


 巨大トカゲ型放射能怪獣メガジラスとの戦いを生き延びたサイバータンクに、子供をつくる許可がおりる。だが、産まれた子供は「みぎゃー」と泣くばかりのできんボーイだった。失意のまま小惑星を彷徨う子連れサイバータンク。我ら親子、既に冥府魔道を歩んでおる。だがそこに(みんなの期待通り)敵襲が。

 SFマガジン2018年2月号に掲載された『サイバータンク vs メガジラス』の続編。翻訳者コメント「田村信先生、ごめんなさい」。


『博物館惑星2・ルーキー 第八話 にせもの』(菅浩江)
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「本物が持つ力は人間の勘が感知する。形や色を模しただけの複製品に、その気迫は感じられないのよ」
「でもさ、ベテラン学芸員であるネネさんの勘ですら、あの壺は」
 最後まで言いきることができなかった。
 尚美が、怒りを通り越して涙目になっていたからだ。誇りを持って赴任した〈アフロディーテ〉が貶められ、敬愛する大先輩があの贋作を見分けられなくても仕方がないと負けを認めた。勝ち気な新人学芸員にとっては、泣くほど悔しいことなのだ。
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SFマガジン2019年6月号p.328


 既知宇宙のあらゆる芸術と美を募集し研究するために作られた小惑星、地球-月の重力均衡点に置かれた博物館惑星〈アフロディーテ〉。そこに保管されていた壺に、贋作の疑いがかかる。もしそうならアフロディーテの学芸員たちの面子まるつぶれ。ことの真偽を確認するために地球から運ばれてきた壺との比較が行われるが、その背後では美術品専門詐欺組織のプロが暗躍していた……。

 若き警備担当者が活躍する『永遠の森』新シリーズ最新作。


『エアーマン』(草上仁)
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 故人は、稀代のエア・アーティストだった。彼には何でもできた。自らの身体だけを使って、森羅万象を表現することができたのだ。(中略)どんな演奏でも、スポーツでも、その他の技芸でも、故人は本物のマスターやチャンピオンになれたろう。人々はそう評した。しかし彼は、エアーマンであることにこだわった。彼は何でもできた。しかし、実際には何もしなかった。何もしないで、何かをしているふりをすることが、彼の宿命だったのだ。
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SFマガジン2019年8月号p.356


 稀代のエア・アーティストが死んだ。エアギター演奏、一人でシャドウと闘うエアスポーツ、何も作らないエアクッキング。すべてを身体だけで表現する達人。はたして彼は殺されたのだろうか。もしそうなら犯人の動機は。



タグ:SFマガジン
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『モーアシビ 第37号』(白鳥信也:編集、小川三郎・他) [読書(小説・詩)]

 詩、エッセイ、翻訳小説などを掲載する文芸同人誌、『モーアシビ』第37号をご紹介いたします。今は亡き川上亜紀さんと灰色猫のその後のこと。


[モーアシビ 第37号 目次]
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 『緑のカナル』(北爪満喜)
 『LITAGINATA』(サトミ セキ)
 『路地』(小川三郎)
 『光のにおい』(島野律子)
 『渡る夜』(森岡美喜)
 『二月からのこと』(浅井拓也)
 『King Gnuと妄想の川を渡る』(森ミキエ)
 『ごしぱらやける』(白鳥信也)

散文

 『「灰色猫」のその後』(川上美那子)
 『室原知幸と松下竜一を訪ねる』(平井金司)
 『記憶力』(清水耕次)
 『風船乗りの汗汗歌日記 その36』(大橋弘)

翻訳

『幻想への挑戦 11』(ヴラジーミル・テンドリャコーフ/内山昭一:翻訳)
――――――――――――――――――――――――――――

 お問い合わせは、編集発行人である白鳥信也さんまで。

白鳥信也
black.bird@nifty.com




――――
深い青の海原のきわ
ふいに傾いた船が
水平線に刺さったまま
船側を海の波に打たせて
くっきりと座礁し続けている

陽に焼かれ潮風に晒されて
船はもはや崇高なみえない時を航行している
闇の奥の操舵室から次々と無音の指令がとぶ
――――
『緑のカナル』(北爪満喜)より




――――
インタールード 雨が降り出した。たちまち激しくなり公民館の前の道路は川のようになっていく。窓を閉める。King Gnuの曲は流れ続ける。先生はずいぶん前に亡くなった。転んで両足を骨折し寝たきりになって認知症も患っていたという。シルバー合唱団のメンバーが一緒に歌おうと誘う。私はKing GnuにとらわれてKing Gnuを口ずさむ。半音下がって一音上がるが歌えない。でも問題はない。自由に音符の波に乗ってリズムを刻む。先生はハイヒールを履いてシルバー合唱団の指揮をする。渾然として、美しいハーモニーを奏でるだろう。私は向かい側からその様子を垣間見る。アフリカに生息するヌーは群れを成しエサの多い草原を求めて大移動し始める。King Gnuが歌うたび群れはふくらむ。
――――
『King Gnuと妄想の川を渡る』(森ミキエ)より




――――
伯母さんが来て父親に言う
職場の行事が失敗したのはあんたのせいだと上役に
さんざぱらかつけられた
ごしぱらやける
父親はそうくどきすな
ちゃんと見ている人はいるはずと自分の姉に言う
小学生の僕は伯母さんの持参したバナナにかぶりつく
ゴシパラヤケル
胸やけみたく
腰と腹がやけるものなのか
――――
『ごしぱらやける』(白鳥信也)より




――――
 こうして、チビ灰色猫は雲の上に行き、亜紀や可愛がってくれた夫とともに暮らしていることでしょう。
 私の今住んでいる部屋は、南に大きく窓が開き、低い山々と面していて、その間の広大な空には、晴れた日には白い雲が浮び、あるいは流れていきます。あの雲のどれに亜紀や灰色猫はのっているのだろうと日々眺めています。夕方、遠くの山間は茜色に染まり、大きな夕陽が徐々に山の彼方に沈んでいく光景は、それは見事です。そして世界は夕闇に包まれていきます。
――――
『「灰色猫」のその後』(川上美那子)より



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『ネザーランド・ダンス・シアター 来日公演』 [ダンス]

 2019年7月6日は、夫婦で神奈川県民ホールに行ってNDT ネザーランド・ダンス・シアターの13年ぶりの来日公演を鑑賞しました。厳選された4つの演目、2回の休憩を含む2時間30分の公演です。

 今シーズン限りで芸術監督を退くポール・ライトフットをはじめとして三名のダンサー(Alice Godfrey、Olivier Coeffard、Gregory Lau)の退団公演、その最終日ということで、花束贈呈などのイベントで大いに盛り上がりました。


[キャスト他](2019年7月6日)

Singulière Odyssée シンギュリア・オデッセイ
上演時間34分

 振付: Sol León ソル・レオン、Paul Lightfoot ポール・ライトフット
 音楽: Max Richter マックス・リヒター
 出演: 
Marne van Opstal、Roger Van der Poel、Meng-Ke Wu、Yukino Takaura、Gregory Lau、César Faria Fernandes、Chloé Albaret、Chuck Jones、Aram Hasler、Madoka Kariya


Woke up Blind ウォーク・アップ・ブラインド
上演時間15分

 振付: Marco Goecke マルコ・ゲッケ
 ドラマトゥルグ: Nadja Kadel ナジャ・カデル
 音楽: Jeff Buckley ジェフ・バックリィ
 出演:
Alice Godfrey、Meng-Ke Wu、Jon Bond、Olivier Coeffard、Gregory Lau、Sebastian Haynes、Luca Tessarini


The Statement ザ・ステイトメント
上演時間19分

 振付: Crystal Pite クリスタル・パイト
 音楽: Owen Belton オーエン・ベルトン
 脚本: Jonathon Young ジョナサン・ヤング
 出演:
Lydia Bustinduy、Meng-Ke Wu、César Faria Fernandes、Roger Van der Poel


Shoot the Moon シュート・ザ・ムーン
上演時間23分

 振付: Sol León ソル・レオン、Paul Lightfoot ポール・ライトフット
 音楽: Philip Glass フィリップ・グラス
 出演:
Madoka Kariya、Yukino Takaura、Marne van Opstal、Roger Van der Poel、Sebastian Haynes



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『東京の子』(藤井太洋) [読書(小説・詩)]

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 アーチの下り坂を駆け下りた仮部は、運転室を収めた柱によじ登り、その三階建てほどの高さから宙に身を投げ出した。
 目標は、十二メートル先の、七メートル下方にある幅二メートルほどの鉄の桁だ。
「危ない!」という声が歩道からあがる。
 怪我をするわけがない。
 トウキョウ・ニッパーと呼ばれていたおれが、東京の子が、この街に裏切られるわけがない。
――――
単行本p.243


 オリンピックから数年後、三百万人を超える外国人労働者の流入により東京は大きな変容を遂げつつあった。そこに設立された「就業と学業の両立」をうたうマンモス学校。外国人労働者のトラブルシューティングという仕事をしているフリーランスの若者は、そこで「事実上の人身売買が行われている」という内部告発に触れるのだが……。

 なし崩し的に急激な「国際化」が進行する東京を、パルクールの技で駆け抜ける主人公。『アンダーグラウンド・マーケット』や『ビッグデータ・コネクト』の先にある社会を描く長編。単行本(KADOKAWA)出版は2019年2月、Kindle版配信は2019年2月です。


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 工事と、新たな施設が必要とした労働者需要を支えているのが、技能実習制度や外国人にも適用できるようになった高度プロフェッショナル制度などの様々な施策を用いて日本にやってきた人々だ。オリンピック後の三年で、千三百万人だった東京都の人口は千六百万人を超えていた。増えた分は全て外国人だ。
――――
単行本p.5


――――
 オリンピック景気が一段落した東京に残されたのは、ひとときの仕事にありつくために地方から集まってきた若者と、三百万人を超えた外国人労働者と、最低賃金ぎりぎりでも文句を言わない外国人も就ける職業――介護、保育、警備に解体工事の現場だ。
――――
単行本p.193


 五輪景気、労働規制緩和、外国人労働者の大量流入。急激な国際化が進む混沌とした東京が舞台となります。国や行政を信用せず、人脈とスキルだけを頼りに都会をたくましく生き抜いてゆく(アジア汎用的な)若者、仮部が主人公です。


――――
 ダン・ホイのような商売人に大きな商機をもたらした好景気は、高校に行かなかった仮部にも仕事を与えてくれた。
 仮部の仕事は、仕事に出てこなくなった外国人を説得して、職場に連れ戻すことだ。(中略)あまり褒められた仕事ではないし、この仮部という名前は生まれながらのものではない。戸籍を買ってそう名乗っているだけなので、“#移民狩り”などと言っている連中に知られれば面白くないことになる。
――――
単行本p.6、7


 失踪した外国人労働者を捜索、追跡し、職場に戻すというトラブルシューティング業をやっているフリーランサーの仮部。仕事を持ってきてくれる人脈、子供の頃から磨いてきたパルクールの技、そしてコンビを組んでいるハッカー、それが彼の仕事と生活を支えるすべてです。


――――
 失踪した外国人労働者を捜索する仕事をはじめた頃には、毎日続けていたパルクールの練習と筋トレのおかげで、柔らかかった筋肉は固く引き締まっていた。しばらくは連絡を絶っていた大熊も、仮部の新しい仕事を聞きつけて、外国人労働者の捜索依頼をお願いするようになった。
 大手を振って生きているわけではない。十五歳からいきなり十八歳になったせいで高校にも行かなかった。それでも新たな生活には満足していた。大熊が連れてきた、実年齢の同じ「セブン」という名のITオタクとは、友人といえる付き合いもはじめられるようになっていた。
――――
単行本p.66


 名前も経歴も年齢もすべて他人のもの。社会保障など期待せず、そもそも国も社会も信用しない。何も持たずに暮らし、自分の痕跡を残さない。そんな生き方にそれなりに満足している仮部。そんな彼は、あるとき学業と就業の両立をうたう「東京デュアル」という学校内にある飲食店からの依頼で、失踪したベトナム人を追うことに。


――――
 歩いてきた距離を測るために振り返った仮部は、ゆりかもめを浮かせている橋脚の下には〈東京人材開発大学校〉という文字のサインがぶらさがっているのに気がついた。
 働きながら学ぶ大学、東京デュアルの正式名称だ。
 大学ではなく大学校で、社会人のような服を着た大学生が、本物の「仕事」をしている。この場所で学び、働いている学生と、教職員に、オフィスに通っているサポーター企業のスタッフを加えれば十万人になるという。
――――
単行本p.44


 学生、サポーター企業(学校内にオフィスを設置して学生を雇っている企業)会社員、そして飲食店・売店・学生寮などのスタッフを合わせると最終的には十万人にもなるという、小さな市の人口に相当する規模の組織。その中に潜入した仮部は、東京ディアルの就業方式について調べてゆきます。


――――
 学生たちは、学内に用意されたオフィスに通い、現実の業務をOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)方式で行う。デュアル先の上司や社風になじめなければ、退職して、別のサポーター企業に入社することもできる。企業側も、能力を持っていない学生を解雇できるが、常に新しいサポーター企業が人材を募集しているので働く場所には困らないのだそうだ。職業の斡旋も、学生が勤務している労働組合が担当しているという。
 そして大学卒になり、格安のスードコートに、おそらく賃料がタダ同然になる寮がつくというわけだ、と仮部はぼんやり考えた。これなら学費さえ都合がつくなら誰でも入りたがるだろう。
――――
単行本p.85


 うまく制度設計されているように思えるデュアルの学業勤労両立体制。だが、学内ではゼネストが計画されていました。


――――
 デュアル勤務の供与は低くないし、強制的に働かされているわけでもない。学校のWebサイトによれば、デュアルの勤務先も変更できると書いてあった。勤務時間も長くはないし、デュアルを提供している企業は寮費や学内の食事まで負担してくれている。時給換算で二千五百円なら、どんなアルバイトに比べてもいい待遇のはずだ。
 そんな中で職場を放棄するような行動――ストライキに打って出る理由はなんだろう。
――――
単行本p.160


 そして、ついに見つけたベトナム人は、仮部にこう告げます。東京デュアルのシステムは事実上の人身売買なのだと。そして、日本政府はそれを承知の上で東京デュアル方式を特区をこえて全国に広げる「働き方改革」を推進している、と。はたしてそれは本当なのでしょうか。


――――
「オリンピックが終わってまだ三年も経たねえのに、派遣労働の大元締めたる〈ヒトノワ・グループ〉の三橋が、四万人の学生と二万を超える従業員を国家戦略特区にぶち込んで働かせてるんだぜ。そこらのブラック企業や、セブンが言うところの、社員3.0が裸足で逃げ出すような不正が横行しているはずだ」
――――
単行本p.150


 『アンダーグラウンド・マーケット』ほど裏経済体制が機能しているわけでもなく、『ビッグデータ・コネクト』ほど明確な陰謀が隠されているわけでもない。まずいことを隠しもせずオープンにしている権力者、すべて承知の上でそれを支持する搾取対象者、という非常にリアルな日本社会が描かれます。


 というわけで、これまでの作品に見られた単純な構図(権力者が邪悪な陰謀を進めており、持たざる者である主人公たちが主にITスキルを駆使してそれと戦う)を排して、すっきり割り切ることが出来ない社会問題と、その日暮らしにそれなりに満足しているリアルな若者の今を描くことに挑戦したと思しき長編。


 現実の労働問題を扱っており、善悪も解決も与えられない暗い話ですが、それを突き抜けるようにパルクールで東京を駆けてゆく(著者には珍しく、IT系ではなく体力系の)主人公が持っている、ある種の捨て鉢な明るさや、空虚と一体の自由、といった姿勢が印象的で、不思議と読後感はさわやかです。



タグ:藤井太洋
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