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『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) [読書(オカルト)]

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 超常現象の最大の特徴は、その目標志向性ととらえにくさであろう。目標志向性とは、最終的な目標を思い描きさえすれば、途中のプロセスに関する知識を持たずとも、その目標がいわば自動的に実現されるように見える現象のことであり、とらえにくさとは、超常現象がその捕捉を逃れるような形で起こりやすい傾向のことである。超常現象は、不正行為や暗示や錯覚や憶測が入り込みやすい状況では起こっても、超常的要因しか考えられない状況では姿を消してしまう。
(中略)
 心霊研究者や超心理学者が何と言おうとも、批判者からすれば、とらえにくさは、超常現象支持者の単なる言い逃れにすぎないことになるし、そうした研究をますますうさんくさいものにする要因以外の何ものでもないことになる。
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単行本p.6


 サイ(透視、テレパシー、念力などのいわゆる超能力)現象を中心に、超常現象の「とらえにくさ」に関係する代表的な論文を網羅的に収録した大作。単行本(春秋社)出版は1993年7月です。


 追いかければ逃げる、あきらめたら起きる、でも決して証拠を残さない。


 「決定的な証拠が得られない」という条件が整っているときにしか発現しない、それこそが超常現象の最も顕著で普遍的な特徴です。再現性が低いとか、発生条件が厳しいとか、そういった通常の概念ではとらえられないほど、超常現象の「とらえにくさ」は本質的かつアクティブな効果らしいのです。本書は、この「とらえにくさ」に関する論文を網羅的に集めた、超心理学の基礎文献というべき一冊。


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 われわれの研究領域公認の目標は、サイを解明、予測し制御することである。ところが、公式の研究が百年近くにもわたって続けられてきたにもかかわらず、サイは相も変わらず神秘のヴェールに包まれている。事実、サイはわれわれの追求の手をきわめて巧妙にすり抜けてきたように見える。それがあまりにみごとに行なわれるため、サイの周辺に不明瞭な部分をある程度残そうとする力が裏で働いているのではないか、と考えてしまうほどである。あたかもサイは秘密を持っており、それを保持し続けようとしているかに見えるのである。
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単行本p.199


 まず印象的なのは、この「とらえにくさ」効果そのものを具体的に報告している論文です。


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 何らかの検証や管理を行おうとすると、こうした現象はいつも減衰ないし消滅した。浮揚中の物体を撮影しようとするとカメラが“攻撃”され叩き落とされるか、不可解な故障を起こすかした。念力は“追いつめられる”と、記録装置を使いものにならなくしてその支配から逃れることを“決意”するように見える。あるいはまた、その記録装置に一時的な故障を“見つけ”その機会に乗ずることもある。
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単行本p.422


 いざとなればカメラを物理攻撃することも辞さない超常現象。ここまでやっかいで強情な対象を研究する超心理学という分野においては、研究者は誰もがこの「とらえにくさ」への対処に苦慮しています。


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 超常現象にとらえにくさという特徴のあることは、昔から研究者にはよく知られていた。また、そのためにこそ決定的証拠が得られないことも十分認識されていた。そこにJ・B・ラインが登場する。ラインがデューク大学で開始した統計的、定量的サイ実験は、ラインの創始になるものではなく、それまでの研究法を洗練させたものにすぎないが、いずれにせよこの方法は、超常現象のとらえにくさをある意味で巧みに回避した実験法となった。これは、個々の実験データのどれがサイによるものなのかを不明瞭化し、“どこか”に超常現象が潜んでいることが推定されるような形態のデータを、すなわちサイの存在の“状況証拠”を提出する実験法なのである。
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単行本p.8


 巧みに逃れる超常現象に「あえて逃げ道を与える」ことで、その痕跡をとらえようとする、実にもどかしい超心理学研究。曖昧さや不正が入る余地を残すことでしか現象をとらえられない(そしてもちろん批判者からはそこを徹底的に叩かれる)という、自虐的なまでの困難さ。そのようにして研究を続けた100年の歴史を、研究者たち自身はどのように評価しているのでしょうか。


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 もし同協会(アメリカ心霊研究協会)の目的が「超心理学的ないしは超常的と呼ばれる現象の研究」であったとすれば、その目的が達成されたことは疑う余地がない。超心理学的探求は、同協会の100年の歴史とともに、間断なく前進を続けてきた。その探求は、他の分野の科学が享受している研究資金その他有形の援助を受けては来なかったし、科学界全体からは名目的に受け入れられている状況にすぎないけれども、努力を要するこの課題を遂行するのに必要な犠牲を進んで払う、勇気ある自立的研究者が存在しないことは一度たりともなかった。
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単行本p.42


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 超心理学という新しい科学は、今や定量的段階の入口に辿り着き、次の角を曲がれば超心理学のファラデーやマクスウェルが待っているところまで来ている。これから100年から300年の間に超心理学は、データベースや理論や応用において、今日の電磁気学と同じくらい洗練された段階に達するであろう。
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単行本p.201


 たいそう勇ましい言葉が並びます。ですが、スーザン・J・ブラックモアの手にかかれば、評価はこれこの通り。


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 100年にも及ぶ長きにわたって研究が続けられてきた現在、超心理学に関してひとつだけはっきりしていることは、進展がほとんどなかったという事実ではないかと思う。サイに関して真の意味で再現可能な現象はひとつだけある。つまり、その非再現性である。この事実を真剣に受け止め、サイ仮説を基盤に置いた研究法がことごとく失敗してきたという事実をわれわれは認めなければならない。
(中略)
 伝統的超心理学は、今や危機に瀕している。おそらくは、しばらくの間、退縮と保身とを続けることであろう。そして最後には、サイ仮説以外のものを残すことなく終止符を打つことになろうが、その段階でもまだ、非再現性だけは生み出し続けることであろう。
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単行本p.184、186


 さすがブラックモア、辛辣そのもの。ですが、曖昧な状況証拠しか得られない(ようにあえて設計された)実験を繰り返しても、批判者を納得させることは難しいというのは確かでしょう。


 では、この「とらえにくさ」にどのように対処するべきか。

 ひとつの興味深い戦略として「天然モノの超常現象だからこれだけ手強いのだ。養殖モノなら何とか手懐けることが出来るのではないか」という試みがあります。有名な“フィリップ実験”がこれに相当します。


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 トロント心霊研究協会の会員グループが1972年に「“幽霊”を作りあげる試みを行う決定をする」までの経緯について述べている。このグループは、“フィリップ”という名前の、オリバー・クロムウェルの時代に暮らした架空のイギリス貴族を創作し、詳しい生活歴を作りあげた。グループは毎週集まり、瞑想的な方法を用いてフィリップの幽霊を創りあげようとした。(中略)まもなく現象を起こすのに成功した。テーブルが動いたばかりか、申し分ないほどの叩音も発生したのである。また、その叩音を用いて、フィリップという架空の人格と“交信”できることがわかった。
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単行本p.416


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 実験は1972年9月に開始されたが、1973年夏、叩音とテーブルの運動が初めて観察されるまでは、何の現象も起こらなかった。グループのメンバーは、驚嘆すべき忍耐と献身的態度とを示した。四年半もの間、実験を目的とした木曜日の夜の会合に、毎回ほとんど欠かさずに集合したからである。現在でもなおこのグループは、最初に“フィリップ”を創作した八名で構成されている。
(中略)
 フィリップはまた、この時期に、さまざまな曲を演奏し、それに合わせて拍子を取るという能力を発揮し続け、そのレパートリーはかなり増えた。また、二月には、数多くの答えが部屋の中にある金属体から返ってきた。ある時には、天井の管に付いているブリキの受け皿の中で“ピン”という音が何度も発生した。ピンという音は、テーブルの金属製の縁や、会席者のパイプ椅子の座席の下側からも聞こえた。
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単行本p.434


 人間が入念に作り上げた人工幽霊フィリップ君は、明るい場所でも、第三者が見ているときでも、割と親切に心霊現象を起こしてくれたようです。しかし、これだけ懐いていても、やはり決定的な証拠を残すようなヘマはしません。親しき仲にも礼儀あり。超常現象として守るべき一線というものがあるのでしょう。


 人智を超える強力な「とらえにくさ」効果。そもそも、いったいこれは何なのでしょうか。研究者たちも色々と憶測していますが、これといった有力な説はいまだ確立していないようです。


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 超常現象がとらえにくい原因は、人間の何らかの総意に基づく抵抗のようなものなのであろうか。つまり、何らかの理由で人類全体が、超常現象の存在を明確にするのを避けているのであろうか。(中略)それとも、人間以外の存在ないし力が、超常現象の実在を明確に知られないようにするため、その証拠を隠蔽しているのであろうか。そうだとすると、一部の人間を引き付けるような形でそうした現象をかいま見せるのはなぜなのであろうか。
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単行本p.12


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 超常現象は、なぜこれほどまでにとらえにくいのであろうか。それは、大脳の半球優位性に何らかの関係があるのであろうか。それとも、量子力学的な不確定性原理と、ある意味で質的に共通した現象なのであろうか。あるいは、サイに対する恐怖心のために、サイの実在を裏付ける証拠が必然的にとらえにくくなってしまうのであろうか。もしそうだとすると、その恐怖心はどこに由来するのであろうか。あるいはまた、普遍的創造原理のようなものによって説明できるものなのであろうか。
 また、超常現象のとらえにくさにしても、人間の心の本質にしても、その解明は、これまでの科学知識の延長線上にあると考えられてきたが、本当にそう考えてよいのであろうか。(中略)従来の線に沿って研究を続けていても、超心理学や心霊研究が完全に消滅してしまうとは思われないけれども、さりとて、そうした研究を積み重ねて行けば自然と道が拓けるようにも思われない。ではいったい、どうすればよいのであろうか。
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単行本p.749、751


 ところで、こういった問題意識は、超心理学の研究者でもない私たちには無関係なのでしょうか。

 個人的には、そうは思いません。誰だって、どうしたって、人は超常体験をしてしまうものなので、その性質について知識を得ることは「超常体験のせいで道を踏み外す」という危険を避けることにつながると思うのです。これ、けっこうマジで言ってます。

 例えば、あなたが超常現象を目撃して、他人にそのことを説得しようとしても、なぜか当然あるべき痕跡が残っていない、あるいは証拠が行方不明になってしまう、といった体験をしたとしましょう。それを「何者かによる隠蔽工作だ」と解釈すると、パラノイアに陥ってしまいかねません。そうではなく「証拠が残らないのは、まさにそれこそが超常現象の特徴だから」と納得した方がいいでしょう。

 同様に、あなたが宇宙人と遭遇したとしても、「地球外文明が私にコンタクトしてきた。これから人類文明に大きな変革が起きる」とか真面目に信じるのはちょっと危険なので、「これは超常現象の一種。だから証拠になるような決定的な影響は残らない」と思った方が、何かと安心でしょう。超常現象との健全な付き合い方のヒントがここにあるのではないでしょうか。



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