『東京の子』(藤井太洋) [読書(小説・詩)]
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アーチの下り坂を駆け下りた仮部は、運転室を収めた柱によじ登り、その三階建てほどの高さから宙に身を投げ出した。
目標は、十二メートル先の、七メートル下方にある幅二メートルほどの鉄の桁だ。
「危ない!」という声が歩道からあがる。
怪我をするわけがない。
トウキョウ・ニッパーと呼ばれていたおれが、東京の子が、この街に裏切られるわけがない。
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単行本p.243
オリンピックから数年後、三百万人を超える外国人労働者の流入により東京は大きな変容を遂げつつあった。そこに設立された「就業と学業の両立」をうたうマンモス学校。外国人労働者のトラブルシューティングという仕事をしているフリーランスの若者は、そこで「事実上の人身売買が行われている」という内部告発に触れるのだが……。
なし崩し的に急激な「国際化」が進行する東京を、パルクールの技で駆け抜ける主人公。『アンダーグラウンド・マーケット』や『ビッグデータ・コネクト』の先にある社会を描く長編。単行本(KADOKAWA)出版は2019年2月、Kindle版配信は2019年2月です。
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工事と、新たな施設が必要とした労働者需要を支えているのが、技能実習制度や外国人にも適用できるようになった高度プロフェッショナル制度などの様々な施策を用いて日本にやってきた人々だ。オリンピック後の三年で、千三百万人だった東京都の人口は千六百万人を超えていた。増えた分は全て外国人だ。
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単行本p.5
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オリンピック景気が一段落した東京に残されたのは、ひとときの仕事にありつくために地方から集まってきた若者と、三百万人を超えた外国人労働者と、最低賃金ぎりぎりでも文句を言わない外国人も就ける職業――介護、保育、警備に解体工事の現場だ。
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単行本p.193
五輪景気、労働規制緩和、外国人労働者の大量流入。急激な国際化が進む混沌とした東京が舞台となります。国や行政を信用せず、人脈とスキルだけを頼りに都会をたくましく生き抜いてゆく(アジア汎用的な)若者、仮部が主人公です。
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ダン・ホイのような商売人に大きな商機をもたらした好景気は、高校に行かなかった仮部にも仕事を与えてくれた。
仮部の仕事は、仕事に出てこなくなった外国人を説得して、職場に連れ戻すことだ。(中略)あまり褒められた仕事ではないし、この仮部という名前は生まれながらのものではない。戸籍を買ってそう名乗っているだけなので、“#移民狩り”などと言っている連中に知られれば面白くないことになる。
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単行本p.6、7
失踪した外国人労働者を捜索、追跡し、職場に戻すというトラブルシューティング業をやっているフリーランサーの仮部。仕事を持ってきてくれる人脈、子供の頃から磨いてきたパルクールの技、そしてコンビを組んでいるハッカー、それが彼の仕事と生活を支えるすべてです。
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失踪した外国人労働者を捜索する仕事をはじめた頃には、毎日続けていたパルクールの練習と筋トレのおかげで、柔らかかった筋肉は固く引き締まっていた。しばらくは連絡を絶っていた大熊も、仮部の新しい仕事を聞きつけて、外国人労働者の捜索依頼をお願いするようになった。
大手を振って生きているわけではない。十五歳からいきなり十八歳になったせいで高校にも行かなかった。それでも新たな生活には満足していた。大熊が連れてきた、実年齢の同じ「セブン」という名のITオタクとは、友人といえる付き合いもはじめられるようになっていた。
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単行本p.66
名前も経歴も年齢もすべて他人のもの。社会保障など期待せず、そもそも国も社会も信用しない。何も持たずに暮らし、自分の痕跡を残さない。そんな生き方にそれなりに満足している仮部。そんな彼は、あるとき学業と就業の両立をうたう「東京デュアル」という学校内にある飲食店からの依頼で、失踪したベトナム人を追うことに。
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歩いてきた距離を測るために振り返った仮部は、ゆりかもめを浮かせている橋脚の下には〈東京人材開発大学校〉という文字のサインがぶらさがっているのに気がついた。
働きながら学ぶ大学、東京デュアルの正式名称だ。
大学ではなく大学校で、社会人のような服を着た大学生が、本物の「仕事」をしている。この場所で学び、働いている学生と、教職員に、オフィスに通っているサポーター企業のスタッフを加えれば十万人になるという。
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単行本p.44
学生、サポーター企業(学校内にオフィスを設置して学生を雇っている企業)会社員、そして飲食店・売店・学生寮などのスタッフを合わせると最終的には十万人にもなるという、小さな市の人口に相当する規模の組織。その中に潜入した仮部は、東京ディアルの就業方式について調べてゆきます。
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学生たちは、学内に用意されたオフィスに通い、現実の業務をOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)方式で行う。デュアル先の上司や社風になじめなければ、退職して、別のサポーター企業に入社することもできる。企業側も、能力を持っていない学生を解雇できるが、常に新しいサポーター企業が人材を募集しているので働く場所には困らないのだそうだ。職業の斡旋も、学生が勤務している労働組合が担当しているという。
そして大学卒になり、格安のスードコートに、おそらく賃料がタダ同然になる寮がつくというわけだ、と仮部はぼんやり考えた。これなら学費さえ都合がつくなら誰でも入りたがるだろう。
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単行本p.85
うまく制度設計されているように思えるデュアルの学業勤労両立体制。だが、学内ではゼネストが計画されていました。
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デュアル勤務の供与は低くないし、強制的に働かされているわけでもない。学校のWebサイトによれば、デュアルの勤務先も変更できると書いてあった。勤務時間も長くはないし、デュアルを提供している企業は寮費や学内の食事まで負担してくれている。時給換算で二千五百円なら、どんなアルバイトに比べてもいい待遇のはずだ。
そんな中で職場を放棄するような行動――ストライキに打って出る理由はなんだろう。
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単行本p.160
そして、ついに見つけたベトナム人は、仮部にこう告げます。東京デュアルのシステムは事実上の人身売買なのだと。そして、日本政府はそれを承知の上で東京デュアル方式を特区をこえて全国に広げる「働き方改革」を推進している、と。はたしてそれは本当なのでしょうか。
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「オリンピックが終わってまだ三年も経たねえのに、派遣労働の大元締めたる〈ヒトノワ・グループ〉の三橋が、四万人の学生と二万を超える従業員を国家戦略特区にぶち込んで働かせてるんだぜ。そこらのブラック企業や、セブンが言うところの、社員3.0が裸足で逃げ出すような不正が横行しているはずだ」
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単行本p.150
『アンダーグラウンド・マーケット』ほど裏経済体制が機能しているわけでもなく、『ビッグデータ・コネクト』ほど明確な陰謀が隠されているわけでもない。まずいことを隠しもせずオープンにしている権力者、すべて承知の上でそれを支持する搾取対象者、という非常にリアルな日本社会が描かれます。
というわけで、これまでの作品に見られた単純な構図(権力者が邪悪な陰謀を進めており、持たざる者である主人公たちが主にITスキルを駆使してそれと戦う)を排して、すっきり割り切ることが出来ない社会問題と、その日暮らしにそれなりに満足しているリアルな若者の今を描くことに挑戦したと思しき長編。
現実の労働問題を扱っており、善悪も解決も与えられない暗い話ですが、それを突き抜けるようにパルクールで東京を駆けてゆく(著者には珍しく、IT系ではなく体力系の)主人公が持っている、ある種の捨て鉢な明るさや、空虚と一体の自由、といった姿勢が印象的で、不思議と読後感はさわやかです。
アーチの下り坂を駆け下りた仮部は、運転室を収めた柱によじ登り、その三階建てほどの高さから宙に身を投げ出した。
目標は、十二メートル先の、七メートル下方にある幅二メートルほどの鉄の桁だ。
「危ない!」という声が歩道からあがる。
怪我をするわけがない。
トウキョウ・ニッパーと呼ばれていたおれが、東京の子が、この街に裏切られるわけがない。
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単行本p.243
オリンピックから数年後、三百万人を超える外国人労働者の流入により東京は大きな変容を遂げつつあった。そこに設立された「就業と学業の両立」をうたうマンモス学校。外国人労働者のトラブルシューティングという仕事をしているフリーランスの若者は、そこで「事実上の人身売買が行われている」という内部告発に触れるのだが……。
なし崩し的に急激な「国際化」が進行する東京を、パルクールの技で駆け抜ける主人公。『アンダーグラウンド・マーケット』や『ビッグデータ・コネクト』の先にある社会を描く長編。単行本(KADOKAWA)出版は2019年2月、Kindle版配信は2019年2月です。
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工事と、新たな施設が必要とした労働者需要を支えているのが、技能実習制度や外国人にも適用できるようになった高度プロフェッショナル制度などの様々な施策を用いて日本にやってきた人々だ。オリンピック後の三年で、千三百万人だった東京都の人口は千六百万人を超えていた。増えた分は全て外国人だ。
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単行本p.5
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オリンピック景気が一段落した東京に残されたのは、ひとときの仕事にありつくために地方から集まってきた若者と、三百万人を超えた外国人労働者と、最低賃金ぎりぎりでも文句を言わない外国人も就ける職業――介護、保育、警備に解体工事の現場だ。
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単行本p.193
五輪景気、労働規制緩和、外国人労働者の大量流入。急激な国際化が進む混沌とした東京が舞台となります。国や行政を信用せず、人脈とスキルだけを頼りに都会をたくましく生き抜いてゆく(アジア汎用的な)若者、仮部が主人公です。
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ダン・ホイのような商売人に大きな商機をもたらした好景気は、高校に行かなかった仮部にも仕事を与えてくれた。
仮部の仕事は、仕事に出てこなくなった外国人を説得して、職場に連れ戻すことだ。(中略)あまり褒められた仕事ではないし、この仮部という名前は生まれながらのものではない。戸籍を買ってそう名乗っているだけなので、“#移民狩り”などと言っている連中に知られれば面白くないことになる。
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単行本p.6、7
失踪した外国人労働者を捜索、追跡し、職場に戻すというトラブルシューティング業をやっているフリーランサーの仮部。仕事を持ってきてくれる人脈、子供の頃から磨いてきたパルクールの技、そしてコンビを組んでいるハッカー、それが彼の仕事と生活を支えるすべてです。
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失踪した外国人労働者を捜索する仕事をはじめた頃には、毎日続けていたパルクールの練習と筋トレのおかげで、柔らかかった筋肉は固く引き締まっていた。しばらくは連絡を絶っていた大熊も、仮部の新しい仕事を聞きつけて、外国人労働者の捜索依頼をお願いするようになった。
大手を振って生きているわけではない。十五歳からいきなり十八歳になったせいで高校にも行かなかった。それでも新たな生活には満足していた。大熊が連れてきた、実年齢の同じ「セブン」という名のITオタクとは、友人といえる付き合いもはじめられるようになっていた。
――――
単行本p.66
名前も経歴も年齢もすべて他人のもの。社会保障など期待せず、そもそも国も社会も信用しない。何も持たずに暮らし、自分の痕跡を残さない。そんな生き方にそれなりに満足している仮部。そんな彼は、あるとき学業と就業の両立をうたう「東京デュアル」という学校内にある飲食店からの依頼で、失踪したベトナム人を追うことに。
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歩いてきた距離を測るために振り返った仮部は、ゆりかもめを浮かせている橋脚の下には〈東京人材開発大学校〉という文字のサインがぶらさがっているのに気がついた。
働きながら学ぶ大学、東京デュアルの正式名称だ。
大学ではなく大学校で、社会人のような服を着た大学生が、本物の「仕事」をしている。この場所で学び、働いている学生と、教職員に、オフィスに通っているサポーター企業のスタッフを加えれば十万人になるという。
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単行本p.44
学生、サポーター企業(学校内にオフィスを設置して学生を雇っている企業)会社員、そして飲食店・売店・学生寮などのスタッフを合わせると最終的には十万人にもなるという、小さな市の人口に相当する規模の組織。その中に潜入した仮部は、東京ディアルの就業方式について調べてゆきます。
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学生たちは、学内に用意されたオフィスに通い、現実の業務をOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)方式で行う。デュアル先の上司や社風になじめなければ、退職して、別のサポーター企業に入社することもできる。企業側も、能力を持っていない学生を解雇できるが、常に新しいサポーター企業が人材を募集しているので働く場所には困らないのだそうだ。職業の斡旋も、学生が勤務している労働組合が担当しているという。
そして大学卒になり、格安のスードコートに、おそらく賃料がタダ同然になる寮がつくというわけだ、と仮部はぼんやり考えた。これなら学費さえ都合がつくなら誰でも入りたがるだろう。
――――
単行本p.85
うまく制度設計されているように思えるデュアルの学業勤労両立体制。だが、学内ではゼネストが計画されていました。
――――
デュアル勤務の供与は低くないし、強制的に働かされているわけでもない。学校のWebサイトによれば、デュアルの勤務先も変更できると書いてあった。勤務時間も長くはないし、デュアルを提供している企業は寮費や学内の食事まで負担してくれている。時給換算で二千五百円なら、どんなアルバイトに比べてもいい待遇のはずだ。
そんな中で職場を放棄するような行動――ストライキに打って出る理由はなんだろう。
――――
単行本p.160
そして、ついに見つけたベトナム人は、仮部にこう告げます。東京デュアルのシステムは事実上の人身売買なのだと。そして、日本政府はそれを承知の上で東京デュアル方式を特区をこえて全国に広げる「働き方改革」を推進している、と。はたしてそれは本当なのでしょうか。
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「オリンピックが終わってまだ三年も経たねえのに、派遣労働の大元締めたる〈ヒトノワ・グループ〉の三橋が、四万人の学生と二万を超える従業員を国家戦略特区にぶち込んで働かせてるんだぜ。そこらのブラック企業や、セブンが言うところの、社員3.0が裸足で逃げ出すような不正が横行しているはずだ」
――――
単行本p.150
『アンダーグラウンド・マーケット』ほど裏経済体制が機能しているわけでもなく、『ビッグデータ・コネクト』ほど明確な陰謀が隠されているわけでもない。まずいことを隠しもせずオープンにしている権力者、すべて承知の上でそれを支持する搾取対象者、という非常にリアルな日本社会が描かれます。
というわけで、これまでの作品に見られた単純な構図(権力者が邪悪な陰謀を進めており、持たざる者である主人公たちが主にITスキルを駆使してそれと戦う)を排して、すっきり割り切ることが出来ない社会問題と、その日暮らしにそれなりに満足しているリアルな若者の今を描くことに挑戦したと思しき長編。
現実の労働問題を扱っており、善悪も解決も与えられない暗い話ですが、それを突き抜けるようにパルクールで東京を駆けてゆく(著者には珍しく、IT系ではなく体力系の)主人公が持っている、ある種の捨て鉢な明るさや、空虚と一体の自由、といった姿勢が印象的で、不思議と読後感はさわやかです。
タグ:藤井太洋
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