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『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) [読書(オカルト)]

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 超常現象の最大の特徴は、その目標志向性ととらえにくさであろう。目標志向性とは、最終的な目標を思い描きさえすれば、途中のプロセスに関する知識を持たずとも、その目標がいわば自動的に実現されるように見える現象のことであり、とらえにくさとは、超常現象がその捕捉を逃れるような形で起こりやすい傾向のことである。超常現象は、不正行為や暗示や錯覚や憶測が入り込みやすい状況では起こっても、超常的要因しか考えられない状況では姿を消してしまう。
(中略)
 心霊研究者や超心理学者が何と言おうとも、批判者からすれば、とらえにくさは、超常現象支持者の単なる言い逃れにすぎないことになるし、そうした研究をますますうさんくさいものにする要因以外の何ものでもないことになる。
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単行本p.6


 サイ(透視、テレパシー、念力などのいわゆる超能力)現象を中心に、超常現象の「とらえにくさ」に関係する代表的な論文を網羅的に収録した大作。単行本(春秋社)出版は1993年7月です。


 追いかければ逃げる、あきらめたら起きる、でも決して証拠を残さない。


 「決定的な証拠が得られない」という条件が整っているときにしか発現しない、それこそが超常現象の最も顕著で普遍的な特徴です。再現性が低いとか、発生条件が厳しいとか、そういった通常の概念ではとらえられないほど、超常現象の「とらえにくさ」は本質的かつアクティブな効果らしいのです。本書は、この「とらえにくさ」に関する論文を網羅的に集めた、超心理学の基礎文献というべき一冊。


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 われわれの研究領域公認の目標は、サイを解明、予測し制御することである。ところが、公式の研究が百年近くにもわたって続けられてきたにもかかわらず、サイは相も変わらず神秘のヴェールに包まれている。事実、サイはわれわれの追求の手をきわめて巧妙にすり抜けてきたように見える。それがあまりにみごとに行なわれるため、サイの周辺に不明瞭な部分をある程度残そうとする力が裏で働いているのではないか、と考えてしまうほどである。あたかもサイは秘密を持っており、それを保持し続けようとしているかに見えるのである。
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単行本p.199


 まず印象的なのは、この「とらえにくさ」効果そのものを具体的に報告している論文です。


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 何らかの検証や管理を行おうとすると、こうした現象はいつも減衰ないし消滅した。浮揚中の物体を撮影しようとするとカメラが“攻撃”され叩き落とされるか、不可解な故障を起こすかした。念力は“追いつめられる”と、記録装置を使いものにならなくしてその支配から逃れることを“決意”するように見える。あるいはまた、その記録装置に一時的な故障を“見つけ”その機会に乗ずることもある。
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単行本p.422


 いざとなればカメラを物理攻撃することも辞さない超常現象。ここまでやっかいで強情な対象を研究する超心理学という分野においては、研究者は誰もがこの「とらえにくさ」への対処に苦慮しています。


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 超常現象にとらえにくさという特徴のあることは、昔から研究者にはよく知られていた。また、そのためにこそ決定的証拠が得られないことも十分認識されていた。そこにJ・B・ラインが登場する。ラインがデューク大学で開始した統計的、定量的サイ実験は、ラインの創始になるものではなく、それまでの研究法を洗練させたものにすぎないが、いずれにせよこの方法は、超常現象のとらえにくさをある意味で巧みに回避した実験法となった。これは、個々の実験データのどれがサイによるものなのかを不明瞭化し、“どこか”に超常現象が潜んでいることが推定されるような形態のデータを、すなわちサイの存在の“状況証拠”を提出する実験法なのである。
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単行本p.8


 巧みに逃れる超常現象に「あえて逃げ道を与える」ことで、その痕跡をとらえようとする、実にもどかしい超心理学研究。曖昧さや不正が入る余地を残すことでしか現象をとらえられない(そしてもちろん批判者からはそこを徹底的に叩かれる)という、自虐的なまでの困難さ。そのようにして研究を続けた100年の歴史を、研究者たち自身はどのように評価しているのでしょうか。


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 もし同協会(アメリカ心霊研究協会)の目的が「超心理学的ないしは超常的と呼ばれる現象の研究」であったとすれば、その目的が達成されたことは疑う余地がない。超心理学的探求は、同協会の100年の歴史とともに、間断なく前進を続けてきた。その探求は、他の分野の科学が享受している研究資金その他有形の援助を受けては来なかったし、科学界全体からは名目的に受け入れられている状況にすぎないけれども、努力を要するこの課題を遂行するのに必要な犠牲を進んで払う、勇気ある自立的研究者が存在しないことは一度たりともなかった。
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単行本p.42


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 超心理学という新しい科学は、今や定量的段階の入口に辿り着き、次の角を曲がれば超心理学のファラデーやマクスウェルが待っているところまで来ている。これから100年から300年の間に超心理学は、データベースや理論や応用において、今日の電磁気学と同じくらい洗練された段階に達するであろう。
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単行本p.201


 たいそう勇ましい言葉が並びます。ですが、スーザン・J・ブラックモアの手にかかれば、評価はこれこの通り。


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 100年にも及ぶ長きにわたって研究が続けられてきた現在、超心理学に関してひとつだけはっきりしていることは、進展がほとんどなかったという事実ではないかと思う。サイに関して真の意味で再現可能な現象はひとつだけある。つまり、その非再現性である。この事実を真剣に受け止め、サイ仮説を基盤に置いた研究法がことごとく失敗してきたという事実をわれわれは認めなければならない。
(中略)
 伝統的超心理学は、今や危機に瀕している。おそらくは、しばらくの間、退縮と保身とを続けることであろう。そして最後には、サイ仮説以外のものを残すことなく終止符を打つことになろうが、その段階でもまだ、非再現性だけは生み出し続けることであろう。
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単行本p.184、186


 さすがブラックモア、辛辣そのもの。ですが、曖昧な状況証拠しか得られない(ようにあえて設計された)実験を繰り返しても、批判者を納得させることは難しいというのは確かでしょう。


 では、この「とらえにくさ」にどのように対処するべきか。

 ひとつの興味深い戦略として「天然モノの超常現象だからこれだけ手強いのだ。養殖モノなら何とか手懐けることが出来るのではないか」という試みがあります。有名な“フィリップ実験”がこれに相当します。


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 トロント心霊研究協会の会員グループが1972年に「“幽霊”を作りあげる試みを行う決定をする」までの経緯について述べている。このグループは、“フィリップ”という名前の、オリバー・クロムウェルの時代に暮らした架空のイギリス貴族を創作し、詳しい生活歴を作りあげた。グループは毎週集まり、瞑想的な方法を用いてフィリップの幽霊を創りあげようとした。(中略)まもなく現象を起こすのに成功した。テーブルが動いたばかりか、申し分ないほどの叩音も発生したのである。また、その叩音を用いて、フィリップという架空の人格と“交信”できることがわかった。
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単行本p.416


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 実験は1972年9月に開始されたが、1973年夏、叩音とテーブルの運動が初めて観察されるまでは、何の現象も起こらなかった。グループのメンバーは、驚嘆すべき忍耐と献身的態度とを示した。四年半もの間、実験を目的とした木曜日の夜の会合に、毎回ほとんど欠かさずに集合したからである。現在でもなおこのグループは、最初に“フィリップ”を創作した八名で構成されている。
(中略)
 フィリップはまた、この時期に、さまざまな曲を演奏し、それに合わせて拍子を取るという能力を発揮し続け、そのレパートリーはかなり増えた。また、二月には、数多くの答えが部屋の中にある金属体から返ってきた。ある時には、天井の管に付いているブリキの受け皿の中で“ピン”という音が何度も発生した。ピンという音は、テーブルの金属製の縁や、会席者のパイプ椅子の座席の下側からも聞こえた。
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単行本p.434


 人間が入念に作り上げた人工幽霊フィリップ君は、明るい場所でも、第三者が見ているときでも、割と親切に心霊現象を起こしてくれたようです。しかし、これだけ懐いていても、やはり決定的な証拠を残すようなヘマはしません。親しき仲にも礼儀あり。超常現象として守るべき一線というものがあるのでしょう。


 人智を超える強力な「とらえにくさ」効果。そもそも、いったいこれは何なのでしょうか。研究者たちも色々と憶測していますが、これといった有力な説はいまだ確立していないようです。


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 超常現象がとらえにくい原因は、人間の何らかの総意に基づく抵抗のようなものなのであろうか。つまり、何らかの理由で人類全体が、超常現象の存在を明確にするのを避けているのであろうか。(中略)それとも、人間以外の存在ないし力が、超常現象の実在を明確に知られないようにするため、その証拠を隠蔽しているのであろうか。そうだとすると、一部の人間を引き付けるような形でそうした現象をかいま見せるのはなぜなのであろうか。
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単行本p.12


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 超常現象は、なぜこれほどまでにとらえにくいのであろうか。それは、大脳の半球優位性に何らかの関係があるのであろうか。それとも、量子力学的な不確定性原理と、ある意味で質的に共通した現象なのであろうか。あるいは、サイに対する恐怖心のために、サイの実在を裏付ける証拠が必然的にとらえにくくなってしまうのであろうか。もしそうだとすると、その恐怖心はどこに由来するのであろうか。あるいはまた、普遍的創造原理のようなものによって説明できるものなのであろうか。
 また、超常現象のとらえにくさにしても、人間の心の本質にしても、その解明は、これまでの科学知識の延長線上にあると考えられてきたが、本当にそう考えてよいのであろうか。(中略)従来の線に沿って研究を続けていても、超心理学や心霊研究が完全に消滅してしまうとは思われないけれども、さりとて、そうした研究を積み重ねて行けば自然と道が拓けるようにも思われない。ではいったい、どうすればよいのであろうか。
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単行本p.749、751


 ところで、こういった問題意識は、超心理学の研究者でもない私たちには無関係なのでしょうか。

 個人的には、そうは思いません。誰だって、どうしたって、人は超常体験をしてしまうものなので、その性質について知識を得ることは「超常体験のせいで道を踏み外す」という危険を避けることにつながると思うのです。これ、けっこうマジで言ってます。

 例えば、あなたが超常現象を目撃して、他人にそのことを説得しようとしても、なぜか当然あるべき痕跡が残っていない、あるいは証拠が行方不明になってしまう、といった体験をしたとしましょう。それを「何者かによる隠蔽工作だ」と解釈すると、パラノイアに陥ってしまいかねません。そうではなく「証拠が残らないのは、まさにそれこそが超常現象の特徴だから」と納得した方がいいでしょう。

 同様に、あなたが宇宙人と遭遇したとしても、「地球外文明が私にコンタクトしてきた。これから人類文明に大きな変革が起きる」とか真面目に信じるのはちょっと危険なので、「これは超常現象の一種。だから証拠になるような決定的な影響は残らない」と思った方が、何かと安心でしょう。超常現象との健全な付き合い方のヒントがここにあるのではないでしょうか。



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『幻想交響曲』(勅使川原三郎、佐東利穂子) [ダンス]

 2019年7月19日は、夫婦でKARAS APPARATUSに行って勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんの公演を鑑賞しました。ベルリオーズの幻想交響曲(全曲)を踊る上演時間1時間ほどの作品です。

 とにかくひさしぶりに佐東利穂子さんのダンスを観ることが出来て感無量。前回観た『泉』では、どこか儚げで幻影のような雰囲気をまとったダンスから力強い迫力で観客を引き込む強烈なダンスへと移ってゆきましたが、今作では最初から鬼気せまるようなパワー炸裂です。

 第一楽章、勅使川原三郎さんによる短い導入の後、佐東利穂子さんが舞台に飛び出すような勢いで踊り始める。初手から恋人ではなく魔女。黒い衣装も魔性あふれ、たちまち観客を魅了してしまいます。ストレートに音に合わせて動くような珍しくもかっこいいシーンが多く、新鮮です。

 第二楽章、第三楽章は勅使川原三郎さんが踊ります。優雅に踊りながら、照明効果を巧みに使って、不気味な悪い予感を少しずつ少しずつ高めてゆくところがすごい。最後はホラー。

 第四楽章は再び佐東利穂子さんによる迫力のダンスで盛り上がります。これだけ全力で踊り続けてこれから、体力的に、どうするのかという観客の不安を吹き飛ばす勢いで最終楽章へ突入。

 最終楽章はサバトというより百鬼夜行というかゴジラvsキングギドラというか。ベルリオーズの音楽から感じられるどこか捨て鉢めいた鬱屈した若さが、明らかにもう人じゃない二人を通して動きとして放出されるその熱量。この盛りあがり。

 アクション映画とホラー映画と怪獣映画を合わせて一時間に凝縮したような、最初から最後まで見せ場のような作品なので、初めての人にもお勧めです。



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『偶然の聖地』(宮内悠介) [読書(小説・詩)]

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#009
【わたしの長い夏】本書は2014年の11月から2018年の8月にかけて、いまはなき「IN POCKET」誌で連載された。一度の原稿が五、六枚と、長い連載になるということがわかっていたので、自然に出てきたのがこのフレーズ。何を書いていたか忘れても大丈夫な話作りを目指し(円城塔さんも何かで同じようなことを発言しておられた)、そのつどぼくが考えていることや、体験したこと、読んだものなどがそのまま地層のように出現する。
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単行本p.12


 最後の秘境として、あるいは世界最大の不具合(バグ)として知られるイシェクト山。そこに辿り着けばありとあらゆる願いが叶うが、等価交換で何かを犠牲にしなければならないと云われている。それぞれの理由でイシェクト山を目指す四組のチームをめぐる冒険物語にして、スパゲッティ化した世界コードを修正するデバッグ小説、膨大な数の注釈により自身を解説する語り、著者が自らの過去について割と饒舌に語ってくれるエッセイでもあるという、ひたむきに奇書たらんとする贅沢な奇書。単行本(講談社)出版は2019年4月、Kindle版配信は2019年4月です。


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 イシェクト山は最後の秘境と呼ばれるだけあって、麓への道のりは友人に訊いても教師に訊いても知らぬと言う。そもそも地図にも載っておらず、試みに検索してみても、イシェクトではイスラム原理主義の勢力から逃れたバハーイー教徒が原始共産制の村を築いているだの、そこで収穫された杏は腐らぬだのと眉唾物の話ばかりで、いざ行きかたとなると、誰もはっきりしたことは書かないのであった。
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単行本p.13


 誰も正確な場所も行き方も知らないという秘境、イシェクト山。そこに辿り着くのは容易ではないが、しかし到達すればあらゆる願いが叶うという伝説の山。


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 麓への山道が出現するかどうかは運によって左右され、すぐに麓に辿り着けたという者もいれば、査証(ビザ)を幾度も延長しながら、ついに山の姿さえ見られずに帰国した者もいる。生年月日や月の位置が関係するとも言われ、近辺には巡礼者のための占い師もいるが、英語が通じる占い師はそのほとんどが偽物とのことであった。
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単行本p.12


 ある者は、親子三代にわたる家族の秘密を知るために、相棒と共にイシェクト山を目指す。


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 突然サンフランシスコの菓子屋をCIAの職員が訪れ、朗良がゲリラ組織の義勇兵を騙るという危険な方法でシリアからイシェクトへ入ったことが明らかになった。
 ところで祖母の郷里には、琵琶湖の底がワームホールによってイシェクトと繋がっているという伝説が残されており、それならなぜイシェクトが琵琶湖の水によって水浸しになったり山中で鮒寿司が発見されたりしないのかという疑問はさておき、失踪事件ののちに祖父の愛用のカメラが琵琶湖の岸に打ち上げられ、内部のフラッシュ・メモリには確かにイシェクトの山腹らしき画像が残されていたので、なるほどCIAの調査は正確であったと勇一は唸った。
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単行本p.10


 またある者は、かつてイシェクト山で失ったものを取り戻すために、相棒を連れてそこに戻ろうと試みる。


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 人の望みを等価交換で叶えるというあの山、イシェクトの七合目付近でウルディンは滑落し、戻らなかった。そして、ここまで来たからには山を登ってみようと言い出したのは、ほかならぬティト自身であったのだ。何かを得れば何かを失い、そして失ったものは戻らない。それは数々の神話が示す通りだ。求めていたものが、往々にしてそもそも間違っていたという点まで含めても。してみると、ふたたびイシェクトへ戻ろうとするティトの行為は、ことによると、神話への叛逆であると言えるかもしれない。
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単行本p.160


 刑事とその相棒は、イシェクト山に先回りすることで容疑者を確保しようとする。


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「具体的には、パキスタンへ行ったと見せかけて、まったく別の第三国へワープする。たとえば、イスラエルとかそういう国に」
「人間はワープできません」
「イシェクトだ。この付近でよく聞かれるイシェクト山の伝説は知ってるな――そのなかに、山を登って下りたら、遠い別の国にいたという証言がある」
「伝説でしょう。聞いたことならありますが……」
「この場合、別にイシェクトが実在だろうと捏造だろうとかまわない。容疑者がそれを信じていたとする。するとどうなる? 川を渡って匂いを消すように、イシェクトを経由して第三国へ行こうと考えるのは、まったく自然な思考だと思わないか?」
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単行本p.182


 世界と存在の不具合(バグ)を修正するのが仕事の世界医は、相棒と組んで最大のバグであるイシェクト山を修正する決意を固める。


――――
「この世に残された、最後の特Aランクのバグ――そう言えばわかるな」
「イシェクトですね」
 やや生気の戻った声とともに、泰志がこちらを見た。
「気は進みません……。いや、気は進まないのですが、何かが漲ってくるのがわかります。きっとぼくは、ずっとこのときを待っていたのでしょう」
「そうだろうとも」
 プラスチックの水のコップを手に取り、ロニーは口を湿らせた。
「世界医であるとはどういうことか? バグを取り除くとは、究極的には何を意味するのか? そんなもん、一つしかなかろうよ。世界医の誰もが一度は考えつつも、あえて口に出さないこと――この不条理な法典(コード)をもたらした神を、殺すことだ」
――――
単行本p.169


 それぞれに譲れぬ動機に突き動かされ、イシェクト山を目指す四組のパーティ。彼らが結集したとき、何が起きるのか。そして彼らを待つ運命とは。


 というような真面目な冒険小説として読んでも面白いのですが、何しろ作品そのものがスパゲッティのように絡まってゆくので一筋縄ではデバッグ(解読)できません。


――――
「小説ですよ。見ての通り、イシェクト山を目指す人々の話です。具体的には、ティトと相棒のレタ、そしてルディガーという刑事と相棒のバーニーの話を、このぼくが書く」
「この“わたし”ってのは誰だい」
「作中作の人物です。レタとバーニーがそれぞれ作中で書くのが、イシェクトを目指す“わたし”の話。言うなれば、作中作においてダイヤモンド継承が発生している仕組みです。
「二人ともが同じ話を書くのか? 偶然?」
「細かいことはいいんです。レタもバーニーも、ぼくが勝手に書くキャラクターなんですから。途中、“わたしB”なるものが登場して、それがいわば著者なんですが、虚構のなかの虚構なのでそれも存在しない」
 タブレットをかざしたまま、二度、三度とロニーが瞬きをした。
「また面妖なものを作るな。それじゃ“わたし”はバグの温床じゃねえか。可哀想に」
――――
単行本p.207


 そして、ソースコードの可読性を高めるために、あちこちに点在している膨大な注釈がまた独特の味わいを醸しだします。


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#006
【怜威(れい)】この時点で怜威が男性か女性かを素で考えておらず、編集さんに「どっちですか」と問われて「あっ」と思った。男女の入れ替わりトリックではない。ちなみに、ぼくは女性に生まれればレイと名づけられたらしい。理由は、海外でも通用しやすいからとのこと。
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単行本p.11


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#114
【ジェームズ・クエンティン】だいたいお察しのことと思いますが、このへんの人たちのことは憶えなくても差し支えありません。
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単行本p.113


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#135
【同僚と職場を抜け出して食べにいったものだ】内幕を明かすと、本作は「月に五、六枚くらい、エッセイと小説の中間のようなものを」という担当さんの依頼を受けてはじまったものである。エッセイであれば、待ってもらっている別の版元への言いわけも立つだろうし、月の家賃の半分くらいにはなる。あにはからんや、連載は小説そのものとなり、この第二十一回を書いていたころ当初の依頼を思い出し、そういえばそうだったと随筆を書いた。
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単行本p.129


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#297
【ロニー“シングルトン”の二択】この章の掲載を最後に、掲載誌である「IN POCKET」は力尽きてしまったのでした。実のところ、いつ終わるかわからないという話は聞いていたので、なかば願掛けのように、次の章への引きを入れるようにしていた。ところがそれが災いし、すごいタイミングで連載が終わってしまったのだった。
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単行本p.299


 ストーリーと同時並行して執筆の内幕をばらしつつ、さらに内容とは無関係なエッセイもどんどん混ざってきたり。


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#070
【演繹(えんえき)】昔mixiというSNSが流行っていたころ、後輩から「宮内さんは(言ってることは滅茶苦茶なようだが)演繹して書いています」と言われた。括弧内は被害妄想かもしれないが、ぼくの持論として、被害妄想というのは、おおむね当たるようにできている。
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単行本p.75


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#128
【夢の状況を自分の思い通りに変化させられる】デビュー前のプログラマ時代は小説を書くための時間が取りにくく、睡眠時間を利用すべく、明晰夢を用いて脳内のワープロで原稿を書き、起きてから入力するということをした。だいたい原稿用紙にして数枚は持ち出すことができる。それにしても身体に悪いことをやっていたものだと思う。
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単行本p.121


 これで破綻しないところが豪腕というか何というか。プログラマー、バックパッカー、帰国子女、ジャンル越境作家、など作品そのものによって自身を表現したような一冊で、ファン必読の奇書といえます。



タグ:宮内悠介
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『Down Beat 14号』 [読書(小説・詩)]

 詩誌『Down Beat』の14号を紹介いたします。


[Down Beat 14号 目次]
――――――――――――――――――――――――――――
『冬のこと。』『引越』(谷口鳥子)
『初音町』『関野』(廿楽順治)
『水遣り三年』(徳広康代)
『塩湖』(中島悦子)
『英雄のひる』(今鹿仙)
『蛇口』(小川三郎)
『でてきなさい』『ケヤキの樹の前で』(金井雄二)
『差出人』(柴田千晶)
――――――――――――――――――――――――――――


お問い合わせは、次のフェイスブックページまで。

  詩誌Down Beat
  https://www.facebook.com/DBPoets


――――
半分枯れ
半分腐り
大方虫に喰われ
半死半生で
私の水遣りに
耐えて
堪えて
適応した植物だけが
生き残って
見事に咲いている
らしいことに
四年目になって
漸く
気付きはじめている
――――
『水遣り三年』(徳広康代)より


――――
真夜中すぎ
台所の蛇口から
水滴が落ちそうになっている。

そのときの蛇口の表情。
時折私は
そんな顔をしているらしい。

それは
あなたに言われたことだ。
――――
『蛇口』(小川三郎)より


――――
狭山郵便局の日付印がある「受取拒絶」の紙が貼られた封書が郵便受けに入っていた。入間市中神に住む「霜村羊子」という女性に宛てた封書。誤配送だろうか。裏返すと差出人にわたしの名前を住所が記されている。書き殴ったような文字はわたしの筆蹟ではない。
(中略)
悪意や憎悪に満ちた言葉が綴られているにちがいないと身構えていたのだが、悪意よりも気味の悪い虚無感が、霧のように床を這い広がってゆく。
受取拒絶をした霜村さんは、差出人の「わたし」を知っているのだろうか。霜村さんに聞いてみたい。
わたしをご存じですか? と。
――――
『差出人』(柴田千晶)より



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『プラスマイナス 169号』 [その他]

 『プラスマイナス』は、詩、短歌、小説、旅行記、身辺雑記など様々な文章を掲載する文芸同人誌です。配偶者が編集メンバーの一人ということで、宣伝を兼ねてご紹介いたします。

[プラスマイナス169号 目次]
――――――――――――――――――――――――――――
巻頭詩 『ときわ57号に乗って』(琴似景)、イラスト(D.Zon)
川柳  『夏の跡地』(島野律子)
小説  『一坪菜園生活 52』(山崎純)
エッセイ『東京競馬場への歩道橋』(島野律子)
詩   『風の横顔』(多亜若)
詩   『足し引きの音』(島野律子)
詩   『護岸』(島野律子)
詩   『深雪のフレーズから 「可能性」』(深雪、みか:編集)
詩   『夏の河』(島野律子)
エッセイ『「愛の港」へようこそ』(島野律子)
随筆  『香港映画は面白いぞ 169』(やましたみか)
イラストエッセイ 『脇道の話 108』(D.Zon)
編集後記
 「行きたいところ」 その1 mika
――――――――――――――――――――――――――――

 盛りだくさんで定価300円の『プラスマイナス』、お問い合わせは以下のページにどうぞ。

目黒川には鯰が
http://shimanoritsuko.blog.so-net.ne.jp/



タグ:同人誌
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