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『八月の暑さのなかで』(金原瑞人:編集・翻訳、佐竹美保:イラスト) [読書(小説・詩)]


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 ずっとずっと、こんな短編集を作りたくてしょうがなかった。
 そう、『ホラー短編集』だ。(中略)
 ひと言でいってしまえば、怖い物語を集めた本だ。
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単行本p.247


 海外の名作ホラー短篇から選ばれた傑作13篇を収録した、対象年齢「中学以上」の岩波少年文庫。すべて新訳。単行本(岩波書店)出版は2010年7月です。


[収録作品]

『こまっちゃった』(エドガー・アラン・ポー)
『八月の暑さのなかで』(W・F・ハーヴィー)
『開け放たれた窓』(サキ)
『ブライトンへいく途中で』(リチャード・ミドルトン)
『谷の幽霊』(ロード・ダンセイニ)
『顔』(レノックス・ロビンスン)
『もどってきたソフィ・メイソン』(E・M・デラフィールド)
『後ろから声が』(フレドリック・ブラウン)
『ポドロ島』(L・P・ハートリー)
『十三階』(フランク・グルーバー)
『お願い』(ロアルド・ダール)
『だれかが呼んだ』(ジェイムズ・レイヴァー)
『ハリー』(ローズマリー・ティンパリ)


『こまっちゃった』(エドガー・アラン・ポー)
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ポーは短編の名手だ。(中略)けど、もちろん駄作もある。この本の一番はじめにのっけたこの短編なんか、そのいい例だ。
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単行本p.249

 いきなり駄作と断言した上で、強引に「翻案」してしまう金原瑞人さんのちからわざ。本書でしか読めないであろう一篇。


『八月の暑さのなかで』(W・F・ハーヴィー)
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 もう十一時を過ぎた。あと一時間もすればここを出ていける。
 しかしそれにしても、この暑さは耐えがたい。
 頭がおかしくなりそうだ。
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単行本p.33

 ある画家が出会った石工。彼が彫っている墓石には、まさに自分の名前が刻まれていた……。具体的に怖いことは何も起こらず、ひたすら予感だけで読者の不安をかきたてる名作。


『開け放たれた窓』(サキ)
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ときどき、こんな静かでおだやかな晩、ぞくっとすることがあるの。三人があの窓からもどってくるんじゃないかって……
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単行本p.40

 一人の少女が語る不気味な幽霊譚。そのとき、開け放たれた窓から、いるはずのない人影が近づいてくるのが見えて……。サキの代表作の一つ。いつ読んでもその巧みなプロットに感心させられます。


『ブライトンへいく途中で』(リチャード・ミドルトン)
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おじさんはまだ先までいったことはないと思うけど、すぐにわかるよ。ぼくたちはみんな死んでるんだから。この道を歩いてる人間はみんなそうなんだ。みんな疲れきっているけど、ここから逃げられない。
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単行本p.52

 雪道を歩き続ける失業者が、謎めいた少年と出会う。この少年は幽霊なのではないかと思えて怖くなりますが、読み終えたとき、そもそも私たちは生きているのか、みんな死んでるも同然の人生をおくっているのではないかという、もっと怖い考えがわいてきます。


『谷の幽霊』(ロード・ダンセイニ)
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わたしはたえがたい孤独に襲われた。話す相手もなく、目の前にそそり立つ霧の柱もまたわたしと同じくらい孤独そうだった。わたしはつい話しかけたくなった。そのとき、頭の中に奇妙な考えが生まれた。話しかければいいじゃないか。だれもきいている人はいないし、答えてもらわなくてもいいんだから。
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単行本p.57

 散歩中に幽霊と出会った老人。しかし同じく年寄りの幽霊は「昔は良かった」式の愚痴を口にするばかり。物悲しさ、孤独感、そして依怙地なユーモアがまぜこぜになった奇妙な一篇。若い頃はラスト一行が滑稽だったのですが、今や悲哀を感じる歳になりました。


『顔』(レノックス・ロビンスン)
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風の強い冬の夜で、太陽は沈んで、青白い三日月が出ていた。あの顔がこのときほどはっきりと、美しくみえたことはなかった。母親の棺に土をかぶせたとき、ジェリーは悲しくてたまらなかったけれど、いまはおだやかな満ち足りた気持ちだった。もう、この顔以外にいとしいものは何もないのだ。この顔にならぶものはない。ありったけの愛を注ぐことができる。
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単行本p.67

 誰も近寄らない湖。湖面に浮かぶ女の顔。とり憑かれたようにその顔を眺め続ける男。ある日、顔はゆっくりと目を開く……。幻想小説の傑作で、日本でいうなら雪おんな系の怪談ですが、怖いというより儚さが心にしみる一篇です。


『もどってきたソフィ・メイソン』(E・M・デラフィールド)
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わたしがぞっとしたのは、かわいそうな女の子の幽霊をみたからではないのです。しかし、あのときほど恐ろしい思いをしたことはほかに一度もありません。
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単行本p.102

 かつて少女を殺して逃げた男。今や成功して成り金となった彼が、現場近くの屋敷に戻ってきた。その晩、テーブルを囲んだ関係者たちが見たものとは……。本当に怖いのは幽霊ではなくて人の心、というテーマの作品で、個人的にはいつも山岸凉子さんの『あやかしの館』を思い出すのです。


『後ろから声が』(フレドリック・ブラウン)
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トニー・グロースの話をこれからしようと思う。彼は、呪われた森に踏み入った農夫のように、後ろから声をかけられた。しかしそれは悪魔じゃなかった。いや、もしかしたら……?
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単行本p.109

 サーカスの砲弾男トニーは、痴話喧嘩の挙げ句すべてを捨てて逃げる決意をする。だけど、ただ一言でいいから、愛する彼女が自分に声をかけてくれさえすれば、そうすればやり直せるのに。男女のすれ違いをドラマチックに描き出し、都会の孤独と絶望を浮かび上がらせる切ない作品。ブラウンはSF系の馬鹿短編が最高ですが(個人的見解)、感傷的なミステリ・サスペンス系の短篇も好きです。


『ポドロ島』(L・P・ハートリー)
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まだ猫のことが頭を離れないらしい。生き物をいじめる喜びにとりつかれたようにみえた。ぼくはポドロ島にこなければよかったと思い始めていた。ここにきて後悔したのはこれが初めてじゃなかった。
「ねえ」アンジェラがふいに話しかけてきた。「今度つかまえられなかったら、殺しちゃおうかしら。浜辺の石を投げつけてやれば、簡単に死んじゃうわよね」
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単行本p.135

 悪い噂がたえないポドロ島に、美しい娘といっしょにやってきた語り手。彼女は飢えた子猫を見つけて保護しようとするが、なかなかつかまらない。やがてこのまま放置するのは可哀相だから殺してあげなきゃ、と言い出し、執拗に猫を追いかけて島の奥に入り込んでゆく……。「信頼できない語り手」の技法を駆使した、不気味で忘れがたい読後感を残す作品。


『十三階』(フランク・グルーバー)
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 返事はない。こだまも返ってこない。ジャヴリンはまた立ち止まった。右をみて、左をみて、あたりをみまわして、それから自分のやってきたほうをふり向く。だれもいない。
 ふいに、店内が妙に寒いのに気がついた。
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単行本p.158

 百貨店に出かけた主人公は、十三階の売り場で美しい娘に出会う。デートの申し出をすっぽかされた彼は、翌朝、もう一度百貨店に出向くのだが、当店には十三階は存在しないと言われるのだった。トワイライトゾーン迷い込み系の怪談。


『お願い』(ロアルド・ダール)
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 男の子は立ち上がって、色あざやかな死の絨毯をよくみようと階段をのぼってみた。いけるかなあ。黄色のところ、あんなに少しでだいじょうぶかなあ。やるんなら真剣にやらなくちゃ。失敗すると死んじゃうんだから。
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単行本p.192

 絨毯の黄色いところだけ踏んでドアまで辿り着けたら助かるけど、赤や黒を踏んだら死んでしまうんだ。幼い子供の謎挑戦(横断歩道の黒いところにはサメがうようよとか)を臨場感たっぷりに描いたサスペンス作品。


『だれかが呼んだ』(ジェイムズ・レイヴァー)
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ええ、そのとおりです。幽霊の出没する部屋は、その家でもっともいい部屋と相場が決まっています。ですから、その部屋をご用意しておいたのです。もう少しコーヒーをいかがですか? それともリキュールでも?
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単行本p.201

 幽霊屋敷で一晩すごすことになった一行。出る、といわれる部屋に泊まった女性が体験した恐ろしい出来事とは。読者を怖がらせておいてから、タネあかし、その上で「しかし待てよ、じゃあいったい誰が……」式で背後から膝を狙ってくる洒落た作品。


『ハリー』(ローズマリー・ティンパリ)
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 あれからもう何年もたつ。でも、わたしは恐怖におびえながら生きている。
 こんな、なんでもないものが恐ろしい。日射し、芝生に落ちたくっきりした影。白いバラ。赤毛の子ども。それから名前――ハリー。どこにでもある名前なのに。
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単行本p.244

 施設から引き取った幼い娘が、「空想の友だち」と熱心に話している。友だちの名前はハリー。ときどき、白いバラのしげみからちらりと赤毛が見えたり、芝生に影が落ちたりする。母親は不安にかられるが、夫はとりあってくれない。孤立無援で脅える母親の心境、ハリーをめぐる真相の恐ろしさ、ラスト近くの衝撃的展開など、いつ読んでも強く胸に迫り来る忘れがたい名作。



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『ベスト・ストーリーズⅠ ぴょんぴょんウサギ球』(若島正:編、岸本佐知子、中村和恵、他:翻訳) [読書(小説・詩)]

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70年代はその意味で最も華やかな時代だった。そこを過ぎると、《プレイボーイ》誌の凋落ははなはだしくなり、《エスクァイア》誌も何度か身売りをするたびに小説欄が縮小されていった。しかし《ニューヨーカー》だけは、1925年の創刊から一世紀近くが経過したのに、いまだに健在なのは驚くべきことだ。言い換えれば、《ニューヨーカー》は今なお世界最高の雑誌なのである。
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単行本p.404


 ここ90年間に《ニューヨーカー》誌に掲載された作品から選ばれた傑作を収録する短篇アンソロジーシリーズ。そのうち1920年代から1950年代までをカバーする第1巻です。単行本(早川書房)出版は2015年12月。


[収録作品]

『ぴょんぴょんウサギ球』(リング・ラードナー)
『深夜考』(ドロシー・パーカー)
『ウルグアイの世界制覇』(E・B・ホワイト)
『破風荘の怪事件(手に汗握る懐かしの連載小説、一話完結)』(ジョン・コリア)
『人はなぜ笑うのか――そもそもほんとに笑うのか?(結論出しましょう、ミスタ・イーストマン)』(ロバート・ベンチリー)
『いかにもいかめしく』(ジョン・オハラ)
『雑草』(メアリー・マッカーシー)
『世界が闇に包まれたとき』(シャーリィ・ジャクスン)
『ホームズさん、あれは巨大な犬の足跡でした!』(エドマンド・ウィルソン)
『飲んだくれ』(フランク・オコナー)
『先生のお気に入り』(ジェイムズ・サーバー)
『梯子』(V・S・プリチェット)
『ヘミングウェイの横顔――「さあ、皆さんのご意見はいかがですか?」』(リリアン・ロス)
『この国の六フィート』(ナディン・ゴーディマー)
『救命具』(アーウィン・ショー)
『シェイディ・ヒルのこそこそ泥棒』(ジョン・チーヴァー)
『楢の木と斧』(エリザベス・ハードウィック)
『パルテノペ』(レベッカ・ウェスト)


『世界が闇に包まれたとき』(シャーリィ・ジャクスン)
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「ちょっと待って」ミセス・ホープが机に駆け寄り、ミセス・ガーデンに宛てられた手紙を拾いあげた。そして彼女へ渡した。「いつもそばへ置いておきなさい。そして読むの。世界は闇、と思うようなときに」
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単行本p.115

 悩める女性が、親切な婦人からもらった暖かい手紙を心の頼りに、彼女のもとに相談に訪れるが……。他人に対する信頼が軽ーく裏切られてしまう瞬間の、ささやかで深刻な絶望が見事に書かれており、ほとんどユーモア小説のようなプロットなのに心に重く残ります。


『飲んだくれ』(フランク・オコナー)
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僕にはよくわかっていた。疲れ果てた僕が空きっ腹で啜り泣いていても、父さんはまったく平気で日暮れまでここにいられる人だ。ぐでんぐでんになったところを僕が引きずってブラーニー通りへ帰り、戸口に鈴なりになった女たちが口々に「ミック・ディレイニーがまたやらかしたわよ」と言い合うのもわかっていた。母さんが心配のあまり半狂乱になることも、明日の朝父さんが仕事へ行かないことも、やがて母さんが時計をショールにくるんで質屋に駆け込むことになるのも、みんなわかっていた。時計が消えた侘しい台所は、いつだって不幸の最終段階を意味しているのだ。
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単行本p.138

 酒好きの父親に同行した幼い少年。危惧していた通り、父親は酒場に入ってしまう。このままでは生活が破綻してしまうというのに。でも待てよ、父親が見ていない隙にあの黒ビールとやらをぼくがぜんぶ飲み干してしまえば……。酔っ払いの父とえらい苦労をして介抱する幼い息子、というパターンを引っくり返して笑わせます。どこか落語を連想させるユーモア作品。


『先生のお気に入り』(ジェイムズ・サーバー)
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本人の意志に反して、思いは彼を容赦なく、第一次世界大戦前の、喧嘩を期待して熱心に見入る大勢の子供に囲まれながらジーク・レナードに叩きのめされたおぞましい日に引き戻した。五十になってもまだ、あの日のことを意識の外に追いやっても、またすぐ戻ってきてしまう。その執拗さにケルビーは唖然としていた。
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単行本p.151

 いじめられっ子だった男も今や初老。しかし、子供がいじめられている光景を見たとき、遠い昔の屈辱の体験がフラッシュバックする。男を本当に激昂させたのは、いじめる側の子ではなく、かつての自分そっくりのいじめられっ子だった……。いじめの根深さを鮮烈に描いた作品。米国の小説や映画をみると、将来作家になるような優等生のナードがスポーツマンタイプの人気者に執拗にいじめられる、というのは米国の学校におけるお約束のようです。


『梯子』(V・S・プリチェット)
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そのときある考えが頭に浮かんだ。一晩中頭から離れず、考えまいとしても夢にまででてきた。明かりをつけてみたけれど、やっぱりまた夢に見た。ミス・リチャーズが二階の端から転落する夢。あのひとは私が母さんに似てきたから私のことが嫌いなのだ。やっと朝が来ると私はほっとした。
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単行本p.178

 父親の再婚相手がどうにも気に入らない少女。家は改装中で、階段が取り壊され、二階への出入りは梯子を使わなければならない。継母が二階で休んでいる間に、父親と一緒に買い物に出かけることになった少女は、自分でもなぜか分からないうちに、こっそり梯子を外してから出かけてしまう……。不安定な情緒に振り回される思春期の突発的行動は、はたしてどのような結果を招くのか。多かれ少なかれ誰にでも覚えがある心理描写が巧みで、最後までどきどきさせるサスペンス作品。


『この国の六フィート』(ナディン・ゴーディマー)
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この近辺のあらゆる農場や小規模農家からかき集められたのだろうと思う。僕はそれをほんとうのところ驚嘆というよりはむしろいら立ちを覚えながら受け取った――無駄なことをして、といういら立ちだ、こんなにも貧しい人たちがこうして払う犠牲はなんの役にも立たないのだ。貧しい人々はどこでもそうだ、と僕は思った、まっとうな人生のための出費を切りつめて、まっとうな死のための保険を手に入れようとする。ルリースや僕のような人間にはとうてい理解できない。
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単行本p.255

 アパルトヘイト時代のヨハネスブルグに農場を所有し、使用人たち(事実上の黒人奴隷)を雇って働かせている語り手。あるとき使用人たちが秘かに匿っていた不法移民が死亡し、語り手は農場主として事態に対処しなければならなくなる。家族の遺体を自分たちで葬りたいという切実な願いが官僚的に踏みにじられてゆく過程と、「理解ある」「寛容な」あるいは「進歩的な」人間だと自認している語り手の人種差別意識をリアルに容赦なくえがき、差別というものが人やコミュニティから何を奪うのかを示した重たい作品。本書収録作品中、個人的に最も感銘を受けた作品です。


『救命具』(アーウィン・ショー)
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 その時、彼女とブルーノはこれが彼らの人生で最も重要な夜だと思っていた。人生で最も重要な出来事が劇場で起こる可能性がまだあった時代、彼ら自身の劇団の公演の初日だった。ブルーノと彼女はこの劇団を作るために、一か八か、すべてを投入したのだった――女優としての彼女と舞台監督としての彼の評判と、ありったけの貯金と、若さとエネルギーのすべてを。
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単行本p.273

 公演初日の夜にパトロンから言い寄られ、にべもなく拒絶した女優。だがその結果、資金援助を断られ、彼女と夫はすべてを失ってしまう。それから長い歳月が過ぎ、今や老人となった二人は、あるパーティで再会する。あの夜の出来事をめぐって二人はそれぞれにけりをつけようとするが……。男女の駆け引きや心境変化を巧みに描き出す洒落たメロドラマ。


『パルテノペ』(レベッカ・ウェスト)
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私は古典に出てくる悲劇の女性ではない。イフィゲネイアでも、エレクトラでもアルケスティスでもなく、馬鹿げたパルテノペだから。私の人生に尊厳はない。私の身にあまりに多くのことが起きてきたせいでもある。一つの不幸は同情を呼ぶ。二つの不幸が同じものを求めると、同情を得られはするけれど少なくなる。不幸が三つとなると、多すぎると思われてしまう。四つ、さらには五つと言われると、今度は滑稽になる。神は同じ人間を繰り返し打つだけで、その人を道化にしてしまう。私にまつわることで滑稽でないものはない。
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単行本p.392

 伯父が子供の頃、閉ざされた庭園にいるところをはじめて見た七人の不思議な娘たち。なかでもパルテノペという名の女性に惹かれた伯父は、長い歳月をおいてその後も何度か彼女と出会うことになった。パルテノペたち姉妹の悲劇に関わることが許されず、ただ傍らを通りすぎていく他はなかった伯父の人生。現代とギリシア古典、現実と神話、それらが溶け合ってゆくような幻想的な作品で、『この国の六フィート』(ナディン・ゴーディマー)と並んで、といってもまったく別なタイプの、強い感銘を受けました。



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『ひょうすべの約束(「文藝」2016年夏号掲載)』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

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国を捨てるのだ。自分の日記の中の、人喰い国、ヘイト国家、戦争暴力の、反社会内閣を。
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文藝2016年夏号p.298


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第103回。

 子殺し人喰い妖怪ひょうすべにひょうすべられる国にっほん。埴輪詩歌は女人国ウラミズモの移民審査を受けようとしていたが……。だいにっほん前史(つまり今のこの国の現実そのものだぜまったくそ嫌!)をえがくシリーズ第三弾ついに登場。

 前作から三年以上も待たされましたが、ついに第三弾(おそらく完結篇)が発表されました。ちなみに、これまでに発表された「ひょうすべシリーズ」の紹介はこちら。


  2012年10月08日の日記
  『ひょうすべの嫁(「文藝」2012年冬号掲載)』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2012-10-08

  2013年01月07日の日記
  『ひょうすべの菓子(「文藝」2013年春号掲載)』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-01-07


 何というか、あっという間に現実化してしまった、ひょうすべ。わが国はにっほんとなり、やがてだいにっほんへと劣化してゆきます。はやすぎる……(笙野ギドウ談)


――――
 このひょうすべ、本人たちは表現の自由をすべて守ると言っていますが、守るのはただひとごろし(ヘイトスピーチ)の自由とちかんごうかん(少女虐待や女性差別)の自由だけでした。そしてそれ以外については一切、何もしませんでした。
――――
文藝2016年夏号p.292


――――
……我が国は国連を脱退しました。脱退の理由は国連の人々が国籍差別と女子高生いじめをやめろ、と言ってきたからです。
――――
文藝2016年夏号p.298


――――
いまや難病患者も、すっかり「減りました」。でもそれはひょうすべが殺したのでした。新聞には病人が「減り」国民が健康になったという統計が出ています。既に国産品はロリエロだけです。今やパン民は自給の野菜もろくにないままにエロコンテンツばかり作らされています。むろんその一次生産は嫌がる女性を素材にしてひょうすべがやります。にっほんはヘンタイエロプランテーションと呼ばれ、世界中の笑いものに……。
――――
文藝2016年夏号p.300


 差別やヘイトスピーチが黙認どころか推奨され、「アート」と称する弱いものいじめがまかり通り、マスコミは何やら忖度しらんぷり。なーんだ言ってもいいんだやってもいいんだ。子供の貧困、六人に一人。いつの間にか「植民地人」として蹂躙されている私たち。思い起こせば、あのときに。


――――
そんな事になったのは私が九歳の時、二〇一六年、六月です。ひょうすべさんが日本にやって来た時。そして、そこから今までに戦争が二回もあった、という事です。
 だけど「戦死者はゼロ」と先生は言っていた。また新聞も教科書も何も書きません。にっほんは前の戦争法案の時に「生まれ変わった」のです。戦争がその時から出来るようになった。国名も日本からにっほんという間抜けな名に変わった。内閣は人喰い妖怪のひょうすべとすり変わった。
「それは世界企業という名の妖怪である」とおばあちゃんは英訳の共産党宣言をぶん投げてけーっ、と言いました。
――――
文藝2016年夏号p.293


――――
TPPの中に隠されていた毒ISD条項というものがその原因なのでした。しかし、昔日本という国があった時は、つまり「オレの勝手だろ」と言って「家の中の事は好きに出来た」。なのにひょうすべは要するに「ハンコついただろうが勝手に出来ねえよ約束約束!」って怒ってきたのでした。じゃ、自国を自国の勝手にする事が出来ない国? それ植民地かも? ていうかハンコついたの誰? それは選挙の約束を破った当時の政府でした。
――――
文藝2016年夏号p.


 国民との約束は平気で反故にするのに、ひょうすべさんとの約束は守って、頭から喰われてしまう政府。けーっ、とか徹底抗戦していた祖母も息絶え(膠原病で)、埴輪詩歌はウラミズモへの移民を決意するのですが……。

 というわけで、色々な意味で「スターウォーズ・エピソード3」みたいな感じで、だいにっほん三部作へとストレートにつながります。布団かぶってがたがた震えるような、そんな、ぞーんな、嫌怖さ。でもでも、新聞を開けば今日もほら、そこに、かしこに、ひょうすべさんのご活躍。


――――
 ひょうすべというのはその便所にいる人喰い妖怪の「あだ名」というわけです。だけど「絶対あの政党やひょうすべと関係があるね、やる事がそっくりだ」、と人々は言いました。またこの自称ひょうすべは実はマンガに出てくるあのカッパっぽい妖怪とは、まったく無関係の存在です。ひょうすべ。
――――
文藝2016年夏号p.292


 ひょうすべ。



タグ:笙野頼子
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『希望の農場』(森絵都:作、吉田尚令:絵) [読書(小説・詩)]


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けど、弱った牛が死ぬたびに、
ここには絶望しかないような気もする。
希望なんてあるのかな。意味はあるのかな。
まだ考えてる。オレはなんどでも考える。
一生、考えぬいてやる。
な、オレたちに意味はあるのかな?
――――


 原発事故による「立ち入り禁止区域」となった牧場にとどまり、取り残された牛たちを守り続ける牛飼いの姿を描く絵本。単行本(岩崎書店)出版は2014年9月です。


――――
この絵本は、福島第一原子力発電所の警戒区域内に取り残された「希望の牧場・ふくしま」のことをもとにつくられた絵本です。「希望の牧場・ふくしま」では、餌不足の問題が深刻化していくなか、今も牛たちを生かすための取り組みが続いています。絵本の売り上げの一部をその活動資金として寄付いたします。
――――


 放射能汚染による立入禁止区域内にある牧場。立ち退きも殺処分も拒否して、ここで牛を守り続ける牛飼いが語る物語。

 著者は、福島原発20キロ圏内のペットレスキュー活動を追ったドキュメンタリー『おいで、一緒に行こう』を書いた森絵都さん。ちなみに単行本読了時の紹介はこちら。

  2012年04月24日の日記
  『おいで、一緒に行こう  福島原発20キロ圏内のペットレスキュー』(森絵都)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2012-04-24

 理不尽に対する怒りを直接的には表現せず、ひたすら現場にいる人の体験と思いをつづるのは本書も同じです。


――――
売れない牛を生かしつづける。
意味がないかな。バカみたいかな。
いっぱい考えたよ。
(中略)
意味をなくしたのは、牛だけじゃないぜ。
町のみんなが住んでいた家。子どもたちがかよってた学校。
おいしい米がとれるたんぼ。
魚のおよぐ海や川。きれいな空気。じまんの星空。
すべてが意味をなくした。
――――


 何の「意味」もなく突然、故郷とそれまでの人生を根こそぎ奪われたとき、人は何に意味を見出せばいいのか。読み進むにつれて、胸がつまり、涙が込み上げてきます。しかし、それにもまして、なにものにも負けない人間の強さというものが奔出してきて、その力に打ちのめされます。


――――
あしたもエサをやるからな。もりもり食って、クソたれろ。
えんりょはいらねえ。おまえら、牛なんだから。
オレは牛飼いだから、エサをやる。
きめたんだ。おまえらとここにいる。
意味があっても、なくてもな。
――――


 希望とはなにか、意味とはなにか、そして生きるとはなにか。正直、子どもには難しすぎる絵本かも知れません。国が「なかったこと」にしてまたもや意味を奪おうとしている今、むしろ大人に読んでほしい、そして考えてほしい一冊です。



タグ:森絵都 絵本
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『貞久秀紀詩集』(貞久秀紀) [読書(小説・詩)]


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 ある文によって暗示されることがらがすでにその文に明示されている――そのような文があるだろうか。ゆれている枝によってよびおこされるものが、ほかでもないそのゆれている枝であるように。
――――
『明示法について』より


 知覚対象ではなく知覚体験をそのまま表現するにはどうすればいいだろうか。意表をつく技法により知的眩暈を引き起こす詩集。単行本(思潮社)出版は2015年4月です。


――――
 壁のしみがいろいろにみえてくるのと同じく、ひとつ同じものとしてそこにうごかずにある図形が、見え方としては六角形から立方体へ、立方体から六角形へと動くのは、目は一カ所をみていながらたえず目移りがしているかのようで、うごかないもののなかにうごきを生み出す知覚の複雑なはたらきが感じられる。
――――
『うごきうごかぬもの』より


 『リアル日和』『空気集め』『石はどこから人であるか』『明示と暗示』の四冊を全篇収録、さらに『ここからここへ』と『昼のふくらみ』からの抜粋、詩論、などを収録した一冊です。

 「目の前に明示されているものが、そこから暗示される何かをへてようやくその明示されているものそのものであることがわかるという遠まわりな体験により、生き生きとした停滞の体験を記述する」(『明示法について』より)という試み。それはいったいどういうことなのか。

 まずは読んでみましょう。


――――
 いつかみた夢に、

「この括弧内の文には何が書かれてあるか、それを説明してみよ」

 という文があらわれて、それをわたしが夢でみずから述べ、書きとり、説明しようとして、
「いまここに書きとられたこの文には何が書かれてあるか、それをわかりやすく述べてみよとこの文には書かれてある」
 といい表した。
 それは説明のつもりでいて、原文に明らかに示されてあることのおよそのくり返しにほかならず、
 きょう、この夢を思いおこし、夢とおなじふるまいで窓辺の机にすわってこの文を述べ、書きとり、説明しなおしていると、おなじくり返しでしなおされており、この窓からは、やはりむこうの丘にあたり一面をもつ木がながめられて、その場で風にゆれた。
――――
『演習』より全文引用


 個人的な話で恐縮ですが、幼い頃は「この文は偽である」という記述のありかたに面白みを感じていたのに、歳をとってくると「この文は真である」という記述の方に、むしろ、何ていうんだろうか、寂しさというか、抒情のようなものを感じてしまう謎の錯覚。

 この世のあらゆることは象徴でも暗示でもなく結局のところそれ自体でしかないという不思議に気づく瞬間が並んでいます。


――――
 この石はひとよりもまえからこの世にあり、ながめていてあきることがない。思いがわいてくるでもなく、
 みていてこの石でなしにみえることもない。
 ここに石としてひろがり、
 みえるもの、ふれうるものとしておおい隠されずにありながら、この石でないところではひろがらない。
 にもかかわらずあきない。そして、思いがわいてこない。
――――
『石のこの世』より全文引用


――――
 横木としてさしわたすにはこの棒はやや長く、それだけで測ればやや五十二・三センチであるとわかるのに、わたしはこの日、なぜ古い梯子からひとつの家具を造るためにこの世にいて、与えられたこの木を正確に測ろうとしていたのだろう。
――――
『椅子』より全文引用


――――
 栗林から人があらわれ、その人から道が出ている。
 それは、私から出ている道とはべつでありながら、前方へ、目をうごかしてゆくにつれてふたつはひとつの道としてつながり、私はそのようなところで人とすれ違いながら、こんにちはと云っている。
 人にこんにちはと云うのは、自分のどこかにこんにちはというものがあり、それが、こんにちはと云ってくれとたのんでいるから、私はこんにちはと云っていた。
――――
『栗』より


 知覚体験そのものを正確に描写しようとするうちに、何やら、おかしさが際立ってきます。限りなく真面目で正直で明示的な描写から生まれる独特の滑稽さ。けっこう習慣性が強いので要注意です。


――――
帽子には中と外があり
中はせまく
外は
無限大に広かった
――――
『帽子』より


――――
この世はやはり、その、在りもしないもののまわりにふくらんでおり、そこにひとつ、風鈴がつるされてある。十一月なのに蜂が飛んでいる。飛んでいる蜂は転ばない。というふうに決めつけたり、蜂がいるくらいなのだから、風鈴があるのも仕方がない。と決めつけることはできない。
――――
『この世は黒子のまわりにある』より


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ときおり、私の中から、勉強があらわれてくることがあった。自転車に乗ることと畳に寝そべることの区別ができないために曖昧な乗り方をする友だちが、自転車に乗って遊びにきたとき、乗ることと寝そべることがそこでは同時に起きていることがありありとわかり、友だちがどこか遠くからやってきた不思議なもののように思われて、私にはそのとき、勉強がこみあげていた。
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『石の発育』より


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遠くから
竹林がさわさわしてきて
電燈はパッにかぎる。ほかはダメである
充足とはどんな足であるのか

つながりのないことを
並べてかんがえている
ふとんの中にはなぜ
手摺りがついていないのか
足元はどこから足元でなくなるのか
というようなことが
きりもなく
並び
竹林がさわさわしている
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『竹』より


 本質的に他人と共有できない知覚体験というものを、何とか他人にもつたわるように表現しようとすること、その試み自体が、どこか滑稽さおかしさを含んでいるのではないかしらん。こういう混乱によるおかしさは独特の味わいがあり、読み進むにつれて知的眩暈のようなものが引き起こされます。不思議な詩集です。



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