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『雪子さんの足音』(木村紅美) [読書(小説・詩)]

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 テーブルのおかずがほとんどなくなると、一瞬、盗聴を怖れるみたいに辺りを見回す。唾を飲み込み、声をひそめ訊いてきた。
「あのね……、毎日、雪子さんとだけ会ってばかりいて、不満とか、ほんとにない?」
 いつのまにかストッキングをぬぎ、素足になっている。千紘や理江なら、この季節は夏服の色あいに合わせて欠かさないペディキュアなど塗られていない生の爪が眼に入り、帰り時だと判断し立ちあがった。
「べつに」
「ないとすると、それはそれで心配」
 しつこくて、壁時計を見やり答えた。
「しょっちゅう、お小遣いをくれるし、外食よりずっと身体にいいものを作ってくれるし。いまは、これも一種のバイトでおばあちゃんと理想の孫ごっこをしてるようなものだと割りきって、利用させてもらってるだけだよ」
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単行本p.40


 かつて住んでいたアパート「月光荘」の大家が孤独死したという新聞記事を読んだ男は、自分がそこで下宿していた二十年前のことを思い出してゆく。安アパートの一室で繰り広げられた、どこか歪んだ三人の交流、それぞれの孤独のありかたを描いた長篇。単行本(講談社)出版は2018年1月、Kindle版配信は2018年1月です。


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「ぼくは今日はこれで」
「そう? 小野田さんともお会いになりたければ、こんどは三人で食事会をしましょうね。あの方とわたしは、この部屋をサロンと名づけているの。仕事や人間関係の悩み、芸術、時事問題について、なんでも自由に話しあえるように」
「ええ、……いや、会いたい、というわけじゃないですけど。よかったら」
「これからも、手紙を出していい?」
「でも、ぼくもいろいろ用事が」
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単行本p.16


 月光荘の大家である雪子さんは、家族を失って独りぼっちになった寂しさを紛らわせるためか、自分の居室を「サロン」と名づけて下宿人と交流しています。サロンに集ったのは、大家である雪子さん、大学生の薫、そして薫と同い年の社会人である小野田さん。祖母と二人の孫という年齢構成。この三人の交流が物語の軸となります。

 雪子さんは薫を孫のようにかわいがり、何かと世話をやいてきます。サロンで食べさせるだけでなく、食事を作って部屋まで持ってくる、お小遣いを渡す。面倒くさい交流を避けようとする薫ですが、雪子さんの強引さに押し切られてゆくのでした。


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「お気に召さないのなら、言い方を変えましょうか。わたしは若い芸術家志望者のパトロンになりたいの。本を買ったり映画を観たりする足しにしてください。どうせ、頂いてる家賃のなかから返しているのだし」
「でも、……いや、もちろん、助かりますけど」
「わたしのささやかな望みをかなえてもらえませんか」
「そうまで言うのなら……、じゃあ」
(中略)
 冷静に考えると、仕送りを節約できるのは魅力だった。向こうは若い人に接するのが生き甲斐と化していて、互いに純粋に得するだけだと言い聞かせた。
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単行本p.28、29


 他人からの干渉を嫌う薫は、いやいやながら「おばあちゃんと理想の孫ごっこ」のバイトだと割りきって付き合っていたのですが、やがて雪子さんが勝手に部屋の鍵をあけて掃除するに及んで激しく拒絶することに。

 世話焼きの大家さん。若い男がそれをわずらわしいと思う気持ちも分かるのですが、しかし、老人相手に被害者意識をつのらせる薫もちょっと冷たいのでは。などと思うわけですが、やがて薫という視点人物の異様な冷淡さがちらりちらりと見えてきて、読者はどんどん不安な気持ちに。

 雪子さんが抱えているのは家族の喪失という分かりやすい孤独ですが、薫という視点人物が抱えているのは、他人に対する共感の欠落から生ずる、自分では気づくことが出来ない類の深刻な孤独に思えてきます。

 どうやら穏当なのは、出番が少ない三人目の登場人物、小野田さんだけか。と思ったら。


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「でも、養子縁組すればこの土地を受け継いで、ずっと、高円寺に住めるのに。東京でいちばん好きな町でしょう?」
「まあね」
「わたしは、いいかもしれない、って思ってるよ。田舎には帰りたくないし」
「そりゃ、ぼくも」
「じゃあ、ふたり揃って、あの人の子供にならない?」
 告白を通り越しプロポーズめいて聞こえた。身を引き口ごもると、さらに瞳をかがやかせ顔を近づける。
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単行本p.85


 ああ、この人の距離のつめ方もおかしい。自己評価低すぎるというか、自尊感情がどこか決定的に傷つけられ壊されたような、そんな陰惨な匂いがする。原因はたぶん父親。

 世話焼きのおばあさんと若い男の面倒くさい交流を描いた話だと思って読み進め、いつしか小野田さんという人物のことがやたらと気になってきます。彼女は何を考えているのか。いつも雪子さんと何を相談しているのか。彼女は何に賭けたのか。

 最後にその後のことがさらりと書かれています。雪子さんの孤独死は冒頭で感じたほど孤独な印象ではないし、小野田さんは孤独を受け入れ生きてゆく覚悟を手にしたことがほのめかされ、読後感は悪くありません。薫は、まあ、他人と深く関わることが出来ない人は、自分の孤独に気づくことなく、変わらずに生きてゆくしかないと思います。



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