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『土の脈』(北村明子) [ダンス]

 2018年10月14日は、夫婦でKAAT神奈川芸術劇場に行って北村明子さんの新作公演を鑑賞しました。カンボジア、インドネシア、インドなどアジア各地の文化リサーチに基づいて創られた75分の舞台です。


[キャスト他]

振付・演出・構成: 北村明子

ドラマトゥルク・音楽提供: マヤンランバム・マンガンサナ(インド・マニプール)

出演: 
柴一平、清家悠圭、川合ロン、西山友貴、加賀田フェレナ、
チー・ラタナ(Amrita Performing Arts カンボジア)、
ルルク・アリ(Solo Dance Studio インドネシア)、
阿部好江(鼓童)、
マヤンランバム・マンガンサナ、
北村明子


 『Cross Transit』のときの出演者(柴一平、清家悠圭、西山友貴、川合ロン、チー・ラタナ)に、『To Belong / Suwung』に出演していたルルク・アリが再参加。「鼓童」の阿部好江さんのパーカッションが脈動を刻み、マヤンランバム・マンガンサナの詠唱というかドラマトゥルクが包み込む。総力戦のような布陣に身が引き締まる思いです。

 急に動いて、唐突に止まる。格闘技の演舞のようなシャープな動きに目を奪われます。始まったと思ったときにはもう終わっている大きく鋭い手足の動き。手のひらに打ちつけられる拳。嵐のような旋回。直線の蹴り。すげくカッコいい。

 最後まで緊張感が途切れない、研ぎ澄まされた舞台なので、観ている最中は次に何が起きるのか、どんな動きが飛び出すのか、というシンプルなわくわく感が続きます。舞台上で交わされる言葉の意味は(日本語を含めて)理解できないのですが、何となく分かるというか、言語を越えた対話と交流が見えてくるというか。

 北米公演も予定されているようですが、世界中にアジア地域共通の根っこのようなものが伝わるといいな、と思います。



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『猫のエルは』(町田康) [読書(小説・詩)]

――――
猫のエルは生きてるだけで儲け
そしてそれを仕事を怠けてぼんやり見ている人間である俺は
見ているだけで儲け
見ているだけで儲け
――――
単行本p.91


 シリーズ“町田康を読む!”第66回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、『猫にかまけて』『猫のあしあと』など猫エッセイの姉妹編ともいうべき猫短篇集。単行本(講談社)出版は2018年9月、Kindle版配信は2018年9月です。


[収録作品]

『諧和会議』
『猫とねずみのともぐらし』
『ココア』
『猫のエルは』
『とりあえずこのままいこう』


『諧和会議』
――――
「いま私はここにいる全員、と申しあげた。それは間違いがない。ただ、そう、議長がおっしゃった猫君、彼らだけは全然、会議にも出てこないし、諧和ということをまったくしようとしない。調和もしない。幸いにして進歩や発展はしておらないようですが、私たちとの会話を拒絶して無言を貫き、好き放題をやらかしている。みんなで分与しようと思っておいてあった魚肉を食べ散らかす。それでも腹が減っているのであれば許します。ところが食った直後に、ぶわあああっ、と嘔吐したりしている」
――――
単行本p.9


 人類滅亡後、言葉を獲得した動物たち。「理性と悟性によってなる諧和社会」を実現した彼らが集まって諧和会議していたところ、猫君の暴虐ぶりが議題にのぼる。遊び半分で小動物を虐殺する。「無表情で、なんともいえない虚無的な目をして」壺を割る。「割れるものは割るし、噛み砕けるものは噛み砕くし、或いは咥えていって高いところから落としたり、パソコンとかスマホなんてものは小便をかけて壊しちゃう」。このような暴挙を説得して止めさせるべきではないかという動議に対して、そもそも猫は言葉がわかるのか、という根本的な疑問が提起され議会大混乱。すぐさま調査委員会が発足するが……。

 言葉を獲得したせいで人間の駄目なところまで引き継いでしまった動物たちと、そんなもの意にも介さず自由奔放に振る舞う猫。形骸化した言葉を風刺する抱腹絶倒の動物寓話ですが、実は「猫あるある小説」ではないかと。


『猫とねずみのともぐらし』
――――
 猫とねずみは一緒に暮らしていました。ふたりは、冬になって食べ物がなくなったときに備えて、おいしい油の入った壺を買い、教会の祭壇の下においておきました。
 しかし、冬にならないうちに猫は、そのおいしい油をひとりでうまうまなめてしまったのです。
 冬になってそのことがわかり、ねずみは怒りました。
「ふたりで買った、おいしいあぶらを君はなぜひとりでなめてしまうのか。冬になって私たちの食べるものがなくなってしまったではないか。どうするつもりだ」
 そう言ったねずみの目は真っ赤でした。
 そう言われた猫の背中の皮が、びくびくっ、と震えました。
――――
単行本p.51

 グリム童話『猫とねずみのともぐらし』って、猫に対してあまりにもひどい話だと思いませんか。昔、猫とネズミは仲良く一緒に暮らしていました。ところが蓄えておいた食料を猫が勝手に食べてしまい、さらには怒って抗議したネズミまでぺろりと食べてしまいました。それからというもの、猫はネズミを見つけると追いかけて食べてしまうようになったのでした、おしまい。……、それはあんまりだろう。

 というわけで、大技を使って、猫は何も悪くないネズミが一方的に悪い、という大逆転をキメてみせた猫びいきパンク童話。


『ココア』
――――
 猫は静かな悲しみに満ちた、でも、静かに怒っているようでもあり、同時に、静かにふざけているような、しかし最終的な印象はおまえはそんなことでいいのかと批判しているような感じのまん丸な眼で私をじっと見ていた。
 よく知っている眼だった。
 こんな眼で私を見るものはこの世にひとりしかいなかった。私方に二十二年間住まった錆猫、ココアである。
――――
単行本p.79


 猫と人間の立場が入れ替わった世界。そこに迷い込んでしまった語り手が、野良人としてひどい目にあい死にかけていたところを、かつての飼い猫ココアに拾われる話。野良猫の生活がどれほど厳しいものか、人が猫に対してどれほど酷薄にふるまうか、それを身をもって体験することになります。「野良猫はのんびり日向ぼっこしているだけの気楽な生活でうらやましいなあ」などと素朴に思っている人に、ぜひ読んでほしい一篇。『猫にかまけて』の読者はきっと泣く。


『猫のエルは』
――――
医師は、医学的には死んでいる、と言った
妻が医師に、まだ生きて動いているものを死んでいるというのが医学的
立場だとしたら医学になんの意味があるのか、と言った。
医師は、やってみる、と言った
そしてエルは助かった
奇蹟を体験した
私は運転をしながら泣いた
妻も泣いた
エルはキャリーケースのなかでぼんやりしていた
――――
単行本p.90


 保護した直後に死にかけ、奇跡的に生き延びた子猫、エルを讃える詩。『猫のあしあと』の読者はきっと泣く。


『とりあえずこのままいこう』
――――
 俺は廊下を横切り、和室に行き、床柱にマーキングをし、掛け軸に登って、座布団で爪研ぎをした。そんなことをしてなにになろう。なににもならない。ただ愉快なだけだ。でもいいじゃないか。ドンドンパンパンドンパンパンで行こうじゃないか。霊魂だって猫だって。俺はかつて家の人が好きだった。大分忘れたけど好きだった。そしてこの後、それも忘れてしまうかも知れない。でもいいじゃないか。いまはまだ覚えているし、思い出すことができる。いまは一緒に居ることができている。それでいいではないか。だから俺は、とりあえずこのままいこう。それ以上のことを望むことはできないし、望んだって叶わない。というか自分がなにを望んでいるのかもわからない。だから、とりあえずこのままいこう。
――――
単行本p.129


 死んでしまった犬が、生まれ変わって飼い主に再会する。しかし何ということか、猫に転成してしまったため、行動は猫そのもの。落ち着いた理知的な犬だった頃の記憶も次第に薄れ、ドンドンパンパンドンパンパン、猫大暴れ。でも再会できたからいいじゃないか、生きてるんだからいいじゃないか。『スピンクの笑顔』の読者はきっと泣く。



タグ:町田康
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『ルーネベリと雪』(タケイ・リエ) [読書(小説・詩)]

――――
まじめに働いて いつかきっとオーロラを見にいこうよ
世界中が雪にすっぽり覆われていても
わたしたちの部屋は どうか
ちょうどよい暖かさでありますように
――――
『ルーネベリと雪』より


 世の理不尽、ささやかな生活、怒り、祈り、そして憧れ。物語の断章のように読み手の想像力を刺激する詩集。単行本(七月堂)出版は2018年9月です。


 まず、怒りや憤りといった感情を、柔らかい言葉で包み込み撃ち込んでくる作品が印象に残ります。気づいたときにはもう遅い。


――――
うまれてくるひとよりもしんでゆくひとのほうが多くなってきて、ようやくさしせまったと感じるなんて身がすくむような思いがする。わたしたちはいったいだれから、教わればいいのだろう? いまこのことについてだれかとはなしあいたいのに、だれとはなしあったらいいのだろう。あなたの考えている本当のことがわからない。悩んでいたらみえない動物が近づいてきて、はなしが通じる言葉を習えって言うの。それが愛情だろうって言うの。おかしいよね。いまからでもまだ遅くないんだって。本当に、覚えられるのかな。
――――
『ミーアキャットの子は年上の兄弟からサソリの狩りを学ぶ』より


――――
からだからいっせいに猟犬を放ってそれが
弾丸に変わってゆくときのきもちよさが
あなたにもわかるだろうと言われてもわからないのです
わたしはどちらかといえば山鳥なのでわからないのです

撃ち落とした山鳥から内臓をずるずるずるずる引きだして
猟犬に食わせることなどなんでもないとあなたは言います
でもわたしはどちらかといえば山鳥なので賛成できない
百舌鳥がはやにえのショウリョウバッタを食べ損ねては死ねないように
――――
『山鳥』より


 まるで物語の断章のような言葉が、読み手の想像力を刺激してきます。


――――
にほんごを使って夢を見る場所はいろいろとありますから選べます
考えないほうが楽しいのは生活から離陸している証拠でしょう
煙といっしょに高いところに昇っていくような心持ちでした
かるいというのはきっと中身を捨てていく、ということです
すっからかんになっているあなたを並べて焼いてくりかえします
ときどき目が黒くなると安心して食べられると思ったことも記しておきます
――――
『飛田』より


――――
かどのないまるい家のとなりには沼がひろがり夕暮れが溶けている。葦のくきは首が折れて水面をミズスマシが波紋をくりかえしくりかえす。どこにでもある家の玄関前にはガレージその塀越しにみえるぽっかりとした黒い闇。闇が腰をおろして深い息をはじめるように夜がはじまる。国道が渋滞をはじめる夕暮れになると沼地と夜は共犯する。駐車場を埋める車からゆるり降りてきたひとかげはゆらゆらとかどのないまるい家のなかにすいこまれてゆく。あかるいひかり。うたがいのないあかるいひかりがもれてくる。なにか焼けるにおいがそこかしこからしてくる。窓ガラスがにじむ。沼地はしんとしたまま耳をすましている。
――――
『沼周辺』より


 邪魔されない、余計なことを考えない、シンプルな生活。静かな憧れの気持ちも、あちこちに散りばめられています。


――――
ゆれるすいめんにしわよせて
筆を走らせるつかのまのあいだ
びっしりと育つみずくさ
あおあおとよろこぶみずくさ
あたらしい家に運んだあと
また筆を走らせる

みずくさの世話をしているあいだ
わたしは忘れているだろう
毛布をもういちまい欲しがったことも
からだをもうひとつ欲しがったことも
ゆるやかにすれちがっただれかと
手をむすびあったことも
――――
『みずくさ』より


――――
シナモンロールを毎朝コーヒーといっしょに食べるのは体を温めるためだ
わたしはこの組み合わせはまるで麻薬みたいだとおもっている
こんな朝が毎日やってくることをずっと祈っていたらあっさり叶ってしまった
生きるために死んだふりをしていた日々を嚙んでのみこむと腑に落ちてきた

わたしたちがずっとおしゃべりできるなんて誰も予言してなかったけれど
ずっとまえから決まっていたことのように一脚の椅子に座っている
お金がないときこそよいものを買って死ぬまで使おうって決めたから
椅子はわたしに寄り添って生きてきたしわたしも生きることができた
――――
『遠い国』より


――――
いちごのようにふくらんでそだつむすめになって
かずかずの風をちいさくまるめて投げてぶつけたい
きりたった崖のせなかにいくつも投げてぶつけたい
かどのとれた佇まいですごす おだやかなゆうぐれ

やみのせまるなか雨が降りどこかでけものがひとつ鳴く
いつか豆腐みたいに白いマンションで暮らしてみたい
ひとりでもひとりでなくても ただしく折り畳まれたい
かどのとれた佇まいですごす おだやかなゆうぐれ
――――
『ゆうぐれ』より



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『竹取』(小野寺修二、平田俊子) [ダンス]

 2018年10月8日は夫婦で三軒茶屋シアタートラムに行って、小野寺修二さんの新作を鑑賞しました。詩人の平田俊子さんが脚本を担当した、75分の現代能楽です。


[キャスト他]

振付・演出: 小野寺修二
脚本: 平田俊子
出演: 小林聡美、貫地谷しほり、小田直哉(大駱駝艦)、崎山莉奈、藤田桃子、古川玄一郎(打楽器奏者)、佐野登(能楽師 宝生流シテ方)


 俳優、ダンサー、打楽器奏者、能楽師、詩人。これだけ多様な分野で活躍している人材を集めて、見事にまとめ上げてみせた力量は凄いと思います。

 天井から床まで張られている多数の白いロープ。これを竹林に見立て、ドラムロールから舞台はスタートします。

 複数の出演者が精密機械のように完璧に同期して動く、思わず見とれてしまうシーン。弾力性のある白いロープで「あやとり」をしたり、フレームを宙に浮かせて往復させたり、わずか二畳のたたみで無限回廊をやったりと、小野寺さんらしい演出が次々と。

 そこに、平田俊子さんの詩の一節が朗読され、佐野登さんの鍛え抜かれた声が響き、古川玄一郎さんがリズムを刻む。これがばらばらにならず、調和しているところに驚かされます。ラスト近くに登場する、光の演出、そして影の演出は、平田俊子さんの詩の言葉と共鳴して、すごく泣けてきます。

 あと、個人的には、ひさしぶりに藤田桃子さんを見ることが出来たのが嬉しかった。



タグ:小野寺修二
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『何かが後をついてくる』(伊藤龍平) [読書(オカルト)]

――――
 闇が失われつつある現在こそ、五官に作用する、原初的で不安定な妖怪について考える必要がある。闇への畏れと詩的想像力とを取り戻すこと。それは人間の本能を守ることだと、私は思う。
――――
単行本p.23


 「何かが空を飛んでいる」目撃体験がUFOの原点だとすると、「何かが後をついてくる」感覚体験こそが妖怪の原点。名づけられ、視覚的イメージ(妖怪画)が与えられる以前の、妖怪生成のもととなる感覚体験に焦点を当て、日本と台湾における妖怪のあり方を分析してゆく一冊。単行本(青弓社)出版は2018年8月です。


 ネットで発生する怪異譚をテーマにした『ネットロア』、台湾における怪談の流布をテーマとした『現代台湾鬼譚』の著者による、妖怪についての研究考察をまとめた最新作です。台湾の南台科技大学で伝承文学を専攻している教員ということで、日本の妖怪だけでなく、台湾における妖怪(および妖怪ブーム)も大きく取り上げられています。ちなみに旧作の紹介はこちら。


  2016年05月16日の日記
  『ネットロア ウェブ時代の「ハナシ」の伝承』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-05-16

  2014年02月06日の日記
  『現代台湾鬼譚 海を渡った「学校の怪談」』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-02-06


 今作では、名づけられる以前に存在したはずの感覚体験に焦点を当て、五官が生み出す「妖怪感覚」と口承文芸の関係を探ってゆきます。


――――
 私は、「妖怪」とは、身体感覚の違和感のメタファーだと思っている。その違和感が個人を超えて人々のなかで共有されたとき、「妖怪」として認知される。少なくとも、民間伝承の妖怪たちの多くは、そうして生まれたのだろう。

 夜道を歩いているときに背後に違和感を覚えたことがある人は多いだろうが、しかし、それは怪しいという感覚だけで――仮に「妖怪感覚」と呼んでおく――「妖怪」とはいえない。その感覚が広く共有されて、そこに「ビシャガツク」といった名前がつけられたとき、「妖怪感覚」は「妖怪」になる。重要なのは「共感」と「名づけ」である。(中略)こうした例から導き出されるのは、身体感覚に根ざした言葉から「妖怪」の生成過程と伝承動態を考えること、つまり、口承文芸研究の方面からのアプローチが重要だということである。
――――
単行本p.14、17


――――
 大事にしたいのは、名づけ以前の妖怪感覚である。中原中也の詩論を引用するなら「名辞以前」に、つまり「ビシャガツク」と名づけられる以前に、どのような感覚がそこにあったのか。背後に迫る何かが、妖怪なのか幽霊なのか、人なのか動物なのか、悪漢なのかただの通りすがりなのか、あるいは、単に気のせいなのか。それが認識されて解釈されるまでの刹那に、どのような心の動きがあったかが重要なのである。中原は「芸術というのは名辞以前の世界の作業」と述べているが、「妖怪」を生み出す源も、そうした詩的想像力である。「妖怪」は人々に共有されることによって生まれるが、体験そのものは個別的なものである。そのあとに「話す」「書く」という個人的行為があり、相手に伝えられ、共有されなければならない。広義の文学的営為といえるだろう。
――――
単行本p.21


 全体は序章を含む10章から構成されています。個人的には、第2章および第6章から第9章で取り上げられる台湾の妖怪と妖怪事情に感銘を受けました。


[目次]

序 妖怪の詩的想像力
第1章 花子さんの声、ザシキワラシの足音
第2章 文字なき郷の妖怪たち
第3章 「化物問答」の文字妖怪
第4章 口承妖怪ダンジュウロウ
第5章 狐は人を化かしたか
第6章 台湾の妖怪「モシナ」の話
第7章 東アジアの小鬼たち
第8章 「妖怪図鑑」談義
第9章 妖怪が生まれる島


『第1章 花子さんの声、ザシキワラシの足音』
――――
 視覚優位の時代の、すなわち文字言語の文化に属する人にとって、妖怪が「見える」というのは、各種テクストに表れたザシキワラシを構成する個々の要素を行動面も含めて統合し、頭のなかでモザイク状に組み合わせて一つのイメージを形作ることである。それはむろん、必ずしも文字を通してというわけではない。文字言語によって作られた精神では、思考のパラダイムがそうなっているのだ。聴覚や触覚に関するザシキワラシの行動さえも、視覚のバイアスを通して読み取られる。
 一方、聴覚優位の時代の、音声文化での「妖怪」は、五官を総動員して感知されるものだった。深夜に、横臥している身体に対して現れたザシキワラシは、主に、聴覚・触覚・視覚を中心にした全体として捉えられるのである。
――――
単行本p.46

 まず聴覚および触覚で感知される妖怪として「トイレの花子さん」と「ザシキワラシ」を取り上げ、視覚優位の時代における妖怪のイメージについて見直してゆきます。


『第2章 文字なき郷の妖怪たち』
――――
 実際、私が烏来で知り合ったキンキさん(中国名は謝金枝。2004年当時60代)という女性は文字を知らなかった。かろうじて自分の名が読み書きできる程度である。しかし、それでいて話し言葉としては、タイヤル語、日本語、台湾語、北京語の四つを自在に使いこなすのである。
 こうした事実をふまえなければ、「言葉が話せなくなる」状態の深刻さ、「(話し)言葉を奪う」妖怪の、真の怖さを知ることはできない。文字がない以上、話ができなくなることは、コミュニケーションの手段をすべて失うことを意味するのである。
――――
単行本p.56

 台湾北部の烏来郷における聞きとり調査を通じて、タイヤル族に伝わる「ウトゥフ」の位置付けと、無文字社会における妖怪のあり方を考えます。


『第3章 「化物問答」の文字妖怪』
――――
 まとめると、「化物問答」という昔話には文字が内包されていて、そこに登場する妖怪たちは、無文字文化と文字文化のあわいに生まれたといえる。まったく文字がない社会にも、文字が行き渡った社会にも、生まれえない妖怪たちであり、話型であった。
 そのように考えると、識字率が低い国や地域では、いまでもこの種の妖怪たちが跳梁しているのかもしれない。また、異文化折衝の際の言葉のすれ違いで、新たな妖怪が生まれているかもしれないのだ。
――――
単行本p.91

 実態と乖離し、暴走した言葉(文字)から生み出される妖怪たち。「化物問答」に登場する奇怪な妖怪たちを通じて、識字文化と妖怪の関係を探ります。


『第4章 口承妖怪ダンジュウロウ』
――――
「妖怪が話される場」とは、メタ的にいうならば「妖怪が生まれる場」でもある。その「場」は時代、地域や年齢、性別、階層などによって異なる。この点が今後の妖怪研究、ひいては口承文芸研究のうえで必要な視点になってくると思われる。
――――
単行本p.99

 他者に話されることによって発生する妖怪。妖怪ダンジュウロウを通じて、口承文芸としての妖怪のあり方を考えます。


『第5章 狐は人を化かしたか』
――――
 同じ現象(山中彷徨)を、同じ解釈装置(狐狸狢)で解釈すれば、話が似てくるのは当然である。「迷わし神」型の妖狐譚が異常に多いのは、話そのものの伝承のほかに、右に述べたような思考様式の伝承によって新たな話が生まれ続けていることが理由といえる。
――――
単行本p.125

 研究者にも手がつけられないほど報告例が多い「キツネ/タヌキに化かされた話」。不可解な体験に対する解釈装置としての狐狸狢の仕組みを分析してゆきます。


『第6章 台湾の妖怪「モシナ」の話』
――――
 いまの台湾は、妖怪革命の最中なのだろう。今後、モシナ像がどのように転換していくのか、それが台湾の人の精神世界にどのような影響を及ぼし、台湾の妖怪研究にどのような航跡を残していくのか、興味深いところである。
――――
単行本p.163

 台湾では大半の人が知っているが、日本ではあまり知られていない妖怪「モシナ(魔神仔)」と、台湾で現在進行中の妖怪革命についてレポートします。


『第7章 東アジアの小鬼たち』
――――
 妖怪に限らず、近代植民地政策による伝承の流入と流出、ならびに植民地統治終了後の当該地域の人々による伝承の扱い(異文化の流入を認めるか、それを排して「原」文化を復権させるか)は、デリケートな問題ながら注意を払う必要がある。ナショナルアイデンティティーの高まりのなかで、トケビは民族の象徴になりつつある。
 台湾のモシナと韓国のトケビを比較していて個人的にもっとも興味を引かれるのは、この点である。現代韓国のトケビにみられる民族主義的イデオロギーが、台湾のモシナにはない。
 今後、トケビが、朝鮮民族の象徴たりうる存在に成長するかは、まだわからない。さまざまな思惑を包み込みながら、いまはサブカルチャーのなかで、トケビは飛び回っている。
――――
単行本p.188

 台湾のモシナ、韓国のトケビを比較し、東アジア圏における妖怪のあり方を俯瞰します。そして、植民地支配による伝承の流入と解放後の対応という問題に踏み込んでゆきます。


『第8章 「妖怪図鑑」談義』
――――
 水木の死に前後して、相次いで興味深い妖怪図鑑が刊行された。一つは『琉球妖怪大図鑑』上・下、もう一つは台湾で刊行された『台湾妖怪図鑑』、ともに刊行は2015年である。台湾ではその後、妖怪図鑑の決定版というべき、『妖怪台湾』(2017年)も刊行された。
――――
単行本p.196

 台湾で発行された『台湾妖怪図鑑』『妖怪台湾』を通して、妖怪のビジュアル化とその意味について考えてゆきます。


『第9章 妖怪が生まれる島』
――――
 結局のところ、通俗的な「妖怪」という概念自体が日本的なものなのである。これは『台湾妖怪図鑑』や『琉球妖怪大図鑑』にもいえることだが、日本的な「妖怪」に近いものを、沖縄や台湾の文化のなかから選び出し、「妖怪」と見なしていく傾向がある。
 ここには微妙な問題が絡んでいる。通俗的「妖怪」が伝統を装い、地域アイデンティティーと関わるものであることは先に述べたが、それでは「台湾の伝統文化とは何か」ということが問題になる。これは、中国との差別化をはかる台湾人にとって重要なテーマである。
――――
単行本p.239

 台湾の「渓頭妖怪村」探訪記や、『台湾妖怪図鑑』『妖怪台湾』の内容紹介を通じて、台湾における妖怪文化について語ります。



タグ:台湾
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