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『何かが後をついてくる』(伊藤龍平) [読書(オカルト)]

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 闇が失われつつある現在こそ、五官に作用する、原初的で不安定な妖怪について考える必要がある。闇への畏れと詩的想像力とを取り戻すこと。それは人間の本能を守ることだと、私は思う。
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単行本p.23


 「何かが空を飛んでいる」目撃体験がUFOの原点だとすると、「何かが後をついてくる」感覚体験こそが妖怪の原点。名づけられ、視覚的イメージ(妖怪画)が与えられる以前の、妖怪生成のもととなる感覚体験に焦点を当て、日本と台湾における妖怪のあり方を分析してゆく一冊。単行本(青弓社)出版は2018年8月です。


 ネットで発生する怪異譚をテーマにした『ネットロア』、台湾における怪談の流布をテーマとした『現代台湾鬼譚』の著者による、妖怪についての研究考察をまとめた最新作です。台湾の南台科技大学で伝承文学を専攻している教員ということで、日本の妖怪だけでなく、台湾における妖怪(および妖怪ブーム)も大きく取り上げられています。ちなみに旧作の紹介はこちら。


  2016年05月16日の日記
  『ネットロア ウェブ時代の「ハナシ」の伝承』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-05-16

  2014年02月06日の日記
  『現代台湾鬼譚 海を渡った「学校の怪談」』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-02-06


 今作では、名づけられる以前に存在したはずの感覚体験に焦点を当て、五官が生み出す「妖怪感覚」と口承文芸の関係を探ってゆきます。


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 私は、「妖怪」とは、身体感覚の違和感のメタファーだと思っている。その違和感が個人を超えて人々のなかで共有されたとき、「妖怪」として認知される。少なくとも、民間伝承の妖怪たちの多くは、そうして生まれたのだろう。

 夜道を歩いているときに背後に違和感を覚えたことがある人は多いだろうが、しかし、それは怪しいという感覚だけで――仮に「妖怪感覚」と呼んでおく――「妖怪」とはいえない。その感覚が広く共有されて、そこに「ビシャガツク」といった名前がつけられたとき、「妖怪感覚」は「妖怪」になる。重要なのは「共感」と「名づけ」である。(中略)こうした例から導き出されるのは、身体感覚に根ざした言葉から「妖怪」の生成過程と伝承動態を考えること、つまり、口承文芸研究の方面からのアプローチが重要だということである。
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単行本p.14、17


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 大事にしたいのは、名づけ以前の妖怪感覚である。中原中也の詩論を引用するなら「名辞以前」に、つまり「ビシャガツク」と名づけられる以前に、どのような感覚がそこにあったのか。背後に迫る何かが、妖怪なのか幽霊なのか、人なのか動物なのか、悪漢なのかただの通りすがりなのか、あるいは、単に気のせいなのか。それが認識されて解釈されるまでの刹那に、どのような心の動きがあったかが重要なのである。中原は「芸術というのは名辞以前の世界の作業」と述べているが、「妖怪」を生み出す源も、そうした詩的想像力である。「妖怪」は人々に共有されることによって生まれるが、体験そのものは個別的なものである。そのあとに「話す」「書く」という個人的行為があり、相手に伝えられ、共有されなければならない。広義の文学的営為といえるだろう。
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単行本p.21


 全体は序章を含む10章から構成されています。個人的には、第2章および第6章から第9章で取り上げられる台湾の妖怪と妖怪事情に感銘を受けました。


[目次]

序 妖怪の詩的想像力
第1章 花子さんの声、ザシキワラシの足音
第2章 文字なき郷の妖怪たち
第3章 「化物問答」の文字妖怪
第4章 口承妖怪ダンジュウロウ
第5章 狐は人を化かしたか
第6章 台湾の妖怪「モシナ」の話
第7章 東アジアの小鬼たち
第8章 「妖怪図鑑」談義
第9章 妖怪が生まれる島


『第1章 花子さんの声、ザシキワラシの足音』
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 視覚優位の時代の、すなわち文字言語の文化に属する人にとって、妖怪が「見える」というのは、各種テクストに表れたザシキワラシを構成する個々の要素を行動面も含めて統合し、頭のなかでモザイク状に組み合わせて一つのイメージを形作ることである。それはむろん、必ずしも文字を通してというわけではない。文字言語によって作られた精神では、思考のパラダイムがそうなっているのだ。聴覚や触覚に関するザシキワラシの行動さえも、視覚のバイアスを通して読み取られる。
 一方、聴覚優位の時代の、音声文化での「妖怪」は、五官を総動員して感知されるものだった。深夜に、横臥している身体に対して現れたザシキワラシは、主に、聴覚・触覚・視覚を中心にした全体として捉えられるのである。
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単行本p.46

 まず聴覚および触覚で感知される妖怪として「トイレの花子さん」と「ザシキワラシ」を取り上げ、視覚優位の時代における妖怪のイメージについて見直してゆきます。


『第2章 文字なき郷の妖怪たち』
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 実際、私が烏来で知り合ったキンキさん(中国名は謝金枝。2004年当時60代)という女性は文字を知らなかった。かろうじて自分の名が読み書きできる程度である。しかし、それでいて話し言葉としては、タイヤル語、日本語、台湾語、北京語の四つを自在に使いこなすのである。
 こうした事実をふまえなければ、「言葉が話せなくなる」状態の深刻さ、「(話し)言葉を奪う」妖怪の、真の怖さを知ることはできない。文字がない以上、話ができなくなることは、コミュニケーションの手段をすべて失うことを意味するのである。
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単行本p.56

 台湾北部の烏来郷における聞きとり調査を通じて、タイヤル族に伝わる「ウトゥフ」の位置付けと、無文字社会における妖怪のあり方を考えます。


『第3章 「化物問答」の文字妖怪』
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 まとめると、「化物問答」という昔話には文字が内包されていて、そこに登場する妖怪たちは、無文字文化と文字文化のあわいに生まれたといえる。まったく文字がない社会にも、文字が行き渡った社会にも、生まれえない妖怪たちであり、話型であった。
 そのように考えると、識字率が低い国や地域では、いまでもこの種の妖怪たちが跳梁しているのかもしれない。また、異文化折衝の際の言葉のすれ違いで、新たな妖怪が生まれているかもしれないのだ。
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単行本p.91

 実態と乖離し、暴走した言葉(文字)から生み出される妖怪たち。「化物問答」に登場する奇怪な妖怪たちを通じて、識字文化と妖怪の関係を探ります。


『第4章 口承妖怪ダンジュウロウ』
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「妖怪が話される場」とは、メタ的にいうならば「妖怪が生まれる場」でもある。その「場」は時代、地域や年齢、性別、階層などによって異なる。この点が今後の妖怪研究、ひいては口承文芸研究のうえで必要な視点になってくると思われる。
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単行本p.99

 他者に話されることによって発生する妖怪。妖怪ダンジュウロウを通じて、口承文芸としての妖怪のあり方を考えます。


『第5章 狐は人を化かしたか』
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 同じ現象(山中彷徨)を、同じ解釈装置(狐狸狢)で解釈すれば、話が似てくるのは当然である。「迷わし神」型の妖狐譚が異常に多いのは、話そのものの伝承のほかに、右に述べたような思考様式の伝承によって新たな話が生まれ続けていることが理由といえる。
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単行本p.125

 研究者にも手がつけられないほど報告例が多い「キツネ/タヌキに化かされた話」。不可解な体験に対する解釈装置としての狐狸狢の仕組みを分析してゆきます。


『第6章 台湾の妖怪「モシナ」の話』
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 いまの台湾は、妖怪革命の最中なのだろう。今後、モシナ像がどのように転換していくのか、それが台湾の人の精神世界にどのような影響を及ぼし、台湾の妖怪研究にどのような航跡を残していくのか、興味深いところである。
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単行本p.163

 台湾では大半の人が知っているが、日本ではあまり知られていない妖怪「モシナ(魔神仔)」と、台湾で現在進行中の妖怪革命についてレポートします。


『第7章 東アジアの小鬼たち』
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 妖怪に限らず、近代植民地政策による伝承の流入と流出、ならびに植民地統治終了後の当該地域の人々による伝承の扱い(異文化の流入を認めるか、それを排して「原」文化を復権させるか)は、デリケートな問題ながら注意を払う必要がある。ナショナルアイデンティティーの高まりのなかで、トケビは民族の象徴になりつつある。
 台湾のモシナと韓国のトケビを比較していて個人的にもっとも興味を引かれるのは、この点である。現代韓国のトケビにみられる民族主義的イデオロギーが、台湾のモシナにはない。
 今後、トケビが、朝鮮民族の象徴たりうる存在に成長するかは、まだわからない。さまざまな思惑を包み込みながら、いまはサブカルチャーのなかで、トケビは飛び回っている。
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単行本p.188

 台湾のモシナ、韓国のトケビを比較し、東アジア圏における妖怪のあり方を俯瞰します。そして、植民地支配による伝承の流入と解放後の対応という問題に踏み込んでゆきます。


『第8章 「妖怪図鑑」談義』
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 水木の死に前後して、相次いで興味深い妖怪図鑑が刊行された。一つは『琉球妖怪大図鑑』上・下、もう一つは台湾で刊行された『台湾妖怪図鑑』、ともに刊行は2015年である。台湾ではその後、妖怪図鑑の決定版というべき、『妖怪台湾』(2017年)も刊行された。
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単行本p.196

 台湾で発行された『台湾妖怪図鑑』『妖怪台湾』を通して、妖怪のビジュアル化とその意味について考えてゆきます。


『第9章 妖怪が生まれる島』
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 結局のところ、通俗的な「妖怪」という概念自体が日本的なものなのである。これは『台湾妖怪図鑑』や『琉球妖怪大図鑑』にもいえることだが、日本的な「妖怪」に近いものを、沖縄や台湾の文化のなかから選び出し、「妖怪」と見なしていく傾向がある。
 ここには微妙な問題が絡んでいる。通俗的「妖怪」が伝統を装い、地域アイデンティティーと関わるものであることは先に述べたが、それでは「台湾の伝統文化とは何か」ということが問題になる。これは、中国との差別化をはかる台湾人にとって重要なテーマである。
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単行本p.239

 台湾の「渓頭妖怪村」探訪記や、『台湾妖怪図鑑』『妖怪台湾』の内容紹介を通じて、台湾における妖怪文化について語ります。



タグ:台湾
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