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『完全なる証明』(マーシャ・ガッセン) [読書(サイエンス)]

 世紀の難問「ポアンカレ予想」を証明したロシアの数学者グレゴリー・ペレルマンの評伝。単行本出版は2009年11月です。

 ポアンカレ予想を証明した論文を査読付きの専門誌に発表するのではなくインターネットで公開。数学のノーベル賞と言われる最高の栄誉、フィールズ賞をまさかの辞退。クレイ研究所が用意した100万ドルの賞金も拒否して、そのまま消息を絶ってしまった天才数学者。ペレルマンとはどのような人物であり、なぜそのような行動をとったのか、それを追求したのが本書です。

 本人への取材はもはや不可能なので、関係者へのインタビューを通じてペレルマンの人物像に迫ってゆくわけですが、そこでポイントとなってくるのは70年代のソビエトにおける数学界であり、そこでユダヤ人の少年が置かれていた特異な環境です。

 この題材を扱うのに、著者マーシャ・ガッセンは最適でした。何しろ彼女は同じ時代に同じくソビエトで数学のエリート教育を受けていたユダヤ人なのです。取材の成果と自分自身の体験とを突き合わせて、あの時代にあの国の内側で何が起きていたのか、それがペレルマンにどのような影響を与えたのか。おそらく彼女にしか書けないであろう息をのむような迫真のドキュメンタリーが展開されます。

「ほぼ四十年に及んだスターリン支配の時期に明らかになったのは、どれほど抽象的なものであろうと破壊できない学問分野などないということだった」(単行本p.27)

「偉大なる指導者がさまざまな科学分野に干渉した結果として、遺伝学から言語学に至るまで、あらゆる分野が壊滅し、学者たちには恐るべき悲劇が降りかかった。学者たちは誤った理論を提唱したという理由で、運が良くても学会から追放され、悪ければ殺されたのである」(単行本p.28)

「ソビエトの公式な教育方針によれば、あらゆる社会経済的階級と民族集団の子どもたちに、平等に教育機会が与えられなければならなかった。しかし現実には、労働者階級の子どもを優遇し、ユダヤ人の子どもは完全に閉め出す、それが無理なら、せめてできるだけ目立たせないよう指示されていたのである」(単行本p.77)

 イデオロギーによって学問の自由が奪われた社会。あからさまで徹底したユダヤ人差別。その様子がまさに当事者の立場から静かな筆致に怒りを込めて刻み込むように書かれており、慄然とさせられます。そんな中で、数学教育を守るために命をかけなければならなかった数学者たちの姿。

 数学への道を閉ざされたことへの復讐であるかのように人生の全てを息子に託す母親。少年のあまりの才能に惚れ込み、彼を徹底して守り抜く決意をする教師。ゆがんだ社会環境の中で、現実から隔離され純粋培養された天才少年。あまりにもドラマチックな物語が、鳥肌がたつような痛切さを持って語られてゆきます。

「1970年代のソビエト連邦に生きたユダヤ人の若者が、世の中は公正にできていると信じるためには、現実を体系的、かつ意図的にゆがめる必要があった」(単行本p.80)

「不正や陰口がなく、女性をはじめ気を散らすようなものは存在せず、数学と美しい音楽と、公正な見返りのある世界だった。その世界をペレルマンは信じた。(中略)その結果、学校教育を終え、数学オリンピックの優勝者という経歴にふさわしく生きようとした彼は、一信徒として現実の世界に出ていくことになった。そして彼は信徒であり続けた。手遅れになるそのときまで」(単行本p.52)

 ペレルマンの奇矯な振る舞いの真相が、はたして著者の見立て通りであるか否かは分かりません。ですが、徹底的な取材により得られた証言と自らの体験から再構成されたペレルマンの人生には生々しい存在感があり、大いなる説得力にあふれています。

 ポアンカレ予想とその解決について書かれた本は何冊か出ていますが、本書のポイントはそこにはなく、あくまでソビエト連邦下における数学エリート教育という特殊な社会環境で育った一人の天才の人生、その栄誉と悲劇を書くことにあります。そして、それは恐ろしいほどの成功をおさめています。数学に興味がない方も、ぜひお読みください。心を揺さぶられる傑作です。


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