『パレードのシステム』(高山羽根子) [読書(小説・詩)]
――――
今後私は、おじいちゃんのルーツを知りたいと思うのかもしれない、という予感があった。おじいちゃんにまつわる痕跡を探して、自分のルーツと重ね、ときにスケッチブックに書きとめて、旅をするという欲望が生まれつつあった。私のおじいちゃんがどういうシステムの中で産まれ、みずからの死を決定するまで、どんなシステムの中で動いていたのか。これから先の旅でおじいちゃんの足跡を探すとしたら、それはたぶん、私の生涯の長さを使って行なう作業になる。何度も旅を終え、何度もまた旅立たなくてはならなくなるにちがいなかった。
――――
人生はパレード、あるいはピタゴラ装置。様々なモチーフの非線形的な配置によって人生を浮き彫りにしようとする長篇小説。単行本(講談社)出版は2023年1月です。
祖父と友人の自死。祖父が日本統治時代の台湾で生まれた、いわゆる湾生だったことを知った語り手は知人をたよって台湾を訪れ、そこで葬式に参列するのだが……。というような筋立てからは、きっと祖父には何か隠された過去があって、それは戦争とか植民地統治時代の闇に関連していて、しかもその因縁は友人の死にもつながっていて……、みたいな展開を期待してしまうわけですが、もちろん高山羽根子さんですからそういう話にはなりません。
――――
私は最初、お母さんたちはおじいちゃんの幼いころのことについて、それぞれが心の奥でだけ共有する言いにくいなにかが潜んでいたんじゃないだろうかと憶測していた。でも実際のところ、どうやら本当にみんなはおじいちゃんのことについて、あいまいな事柄しか語るべきものを持っていなかった。これは一族の秘密なんていて大げさなものではなくて、そもそもみんなが深く知らなかっただけのことだ。
――――
――――
私は、おじいちゃん本人からも忘れ去られていたそれらの資料に、ちょっとした物質的な愛着をもってしまっただけなのかもしれない。単純にこれらの手ざわりに私が強く惹かれていたことは確かだった。この、おじいちゃんには読めたであろう、それでいて私にはまったく読むことができない暗号めいた紙きれたちは、私の人生の中で大切な宝物になりそうな予感を秘めてもいた。
でも同時に、おじいちゃんの死の原因は、この暗号のなぞ解きによっては解決しないだろうという気もしていた。おじいちゃんや私が生きた世界はそんなふうに、わかりやすく暗号に回収されては行かないんじゃないだろうか、という思いはあの日帰ってきてからずっとあった。
――――
――――
私はほんとうにおじいちゃんのことを知りたいという切実を持っているんだろうか、と考えていた。これは、探し物の旅なんだろうか。私はどういうわけで死んだおじいちゃんの謎をさぐる探偵のまねごとじみた行為をやりとげたいという欲求を持っているんだろうか。おじいちゃんがどうしても家族にも話したがらなかった秘密を暴くみたいな? あるいはどこかほかの国に自分のアイデンティティがあるのを期待しているとでもいう自分探し。どう考えてみても、うまく自分の中に答えが出てこなかった。そうして、この旅にゴールがあるのかも、よくわからないままだった。
――――
本作には高山羽根子さんの小説によく登場する「旅」や「たくさんの小物」や「謎めいた書き付け」などのほかにも、ルーブ・ゴールドバーグ・マシン、日本ではピタゴラ装置としばしば呼ばれているギミックが、きわめて印象的に、ちょっと忘れられないような形で登場します。
ピタゴラ装置にはちゃんとしたプロットが用意されています。例えば最初にビー玉が重力に引かれて転がってゆき、あちこちに配置された仕掛けを作動させ、ときに別のアイテムに「主役」を交替したりしながらも、焦点となる現象は連鎖し続け、最後に終着点に到着して大団円、そういうプロットです。
しかしビー玉を転がさないままピタゴラ装置のあちこちをクローズアップして見ていると、部分部分にはプロットの片鱗が感じられるものの、全体として何のための装置なのか、というよりそれが何なのかは、分からないでしょう。
普通の小説を、ピタゴラ装置で起きる連鎖現象を最初から最後まで追ってゆく映画にたとえるなら、高山羽根子さんの小説はピタゴラ装置のあちこちのパーツを順不同に映し出す断片的な映像にたとえることが出来そうです。あちこちにプロットの断片はあるものの、すっきりした一本のストーリーが提示されるわけではありません。
しかし、ピタゴラ装置、あるいは私たちの人生といったものを正確に表現しようとしたら、こういうやり方こそが正直なのではないでしょうか。初期の傑作『オブジェクタム』を読んだときにもそう思いましたし、本作でもそうでした。おそらく次の作品も正直な小説でしょう。その正直さを、また読みたいと願うのです。
今後私は、おじいちゃんのルーツを知りたいと思うのかもしれない、という予感があった。おじいちゃんにまつわる痕跡を探して、自分のルーツと重ね、ときにスケッチブックに書きとめて、旅をするという欲望が生まれつつあった。私のおじいちゃんがどういうシステムの中で産まれ、みずからの死を決定するまで、どんなシステムの中で動いていたのか。これから先の旅でおじいちゃんの足跡を探すとしたら、それはたぶん、私の生涯の長さを使って行なう作業になる。何度も旅を終え、何度もまた旅立たなくてはならなくなるにちがいなかった。
――――
人生はパレード、あるいはピタゴラ装置。様々なモチーフの非線形的な配置によって人生を浮き彫りにしようとする長篇小説。単行本(講談社)出版は2023年1月です。
祖父と友人の自死。祖父が日本統治時代の台湾で生まれた、いわゆる湾生だったことを知った語り手は知人をたよって台湾を訪れ、そこで葬式に参列するのだが……。というような筋立てからは、きっと祖父には何か隠された過去があって、それは戦争とか植民地統治時代の闇に関連していて、しかもその因縁は友人の死にもつながっていて……、みたいな展開を期待してしまうわけですが、もちろん高山羽根子さんですからそういう話にはなりません。
――――
私は最初、お母さんたちはおじいちゃんの幼いころのことについて、それぞれが心の奥でだけ共有する言いにくいなにかが潜んでいたんじゃないだろうかと憶測していた。でも実際のところ、どうやら本当にみんなはおじいちゃんのことについて、あいまいな事柄しか語るべきものを持っていなかった。これは一族の秘密なんていて大げさなものではなくて、そもそもみんなが深く知らなかっただけのことだ。
――――
――――
私は、おじいちゃん本人からも忘れ去られていたそれらの資料に、ちょっとした物質的な愛着をもってしまっただけなのかもしれない。単純にこれらの手ざわりに私が強く惹かれていたことは確かだった。この、おじいちゃんには読めたであろう、それでいて私にはまったく読むことができない暗号めいた紙きれたちは、私の人生の中で大切な宝物になりそうな予感を秘めてもいた。
でも同時に、おじいちゃんの死の原因は、この暗号のなぞ解きによっては解決しないだろうという気もしていた。おじいちゃんや私が生きた世界はそんなふうに、わかりやすく暗号に回収されては行かないんじゃないだろうか、という思いはあの日帰ってきてからずっとあった。
――――
――――
私はほんとうにおじいちゃんのことを知りたいという切実を持っているんだろうか、と考えていた。これは、探し物の旅なんだろうか。私はどういうわけで死んだおじいちゃんの謎をさぐる探偵のまねごとじみた行為をやりとげたいという欲求を持っているんだろうか。おじいちゃんがどうしても家族にも話したがらなかった秘密を暴くみたいな? あるいはどこかほかの国に自分のアイデンティティがあるのを期待しているとでもいう自分探し。どう考えてみても、うまく自分の中に答えが出てこなかった。そうして、この旅にゴールがあるのかも、よくわからないままだった。
――――
本作には高山羽根子さんの小説によく登場する「旅」や「たくさんの小物」や「謎めいた書き付け」などのほかにも、ルーブ・ゴールドバーグ・マシン、日本ではピタゴラ装置としばしば呼ばれているギミックが、きわめて印象的に、ちょっと忘れられないような形で登場します。
ピタゴラ装置にはちゃんとしたプロットが用意されています。例えば最初にビー玉が重力に引かれて転がってゆき、あちこちに配置された仕掛けを作動させ、ときに別のアイテムに「主役」を交替したりしながらも、焦点となる現象は連鎖し続け、最後に終着点に到着して大団円、そういうプロットです。
しかしビー玉を転がさないままピタゴラ装置のあちこちをクローズアップして見ていると、部分部分にはプロットの片鱗が感じられるものの、全体として何のための装置なのか、というよりそれが何なのかは、分からないでしょう。
普通の小説を、ピタゴラ装置で起きる連鎖現象を最初から最後まで追ってゆく映画にたとえるなら、高山羽根子さんの小説はピタゴラ装置のあちこちのパーツを順不同に映し出す断片的な映像にたとえることが出来そうです。あちこちにプロットの断片はあるものの、すっきりした一本のストーリーが提示されるわけではありません。
しかし、ピタゴラ装置、あるいは私たちの人生といったものを正確に表現しようとしたら、こういうやり方こそが正直なのではないでしょうか。初期の傑作『オブジェクタム』を読んだときにもそう思いましたし、本作でもそうでした。おそらく次の作品も正直な小説でしょう。その正直さを、また読みたいと願うのです。
タグ:高山羽根子