『ポエトリー・ドッグス』(斉藤倫) [読書(小説・詩)]
――――
つまり……。この詩って、なにがいいたいんだ?
「わかりません」
さらに追いうちをかけるように、マスターは、いった。「詩に、いいたいことがあるものかどうかも」
「こんなに詩に詳しいのに?」
「詳しいといいますか」
マスターは、恬然と、いう。「ただしりたいだけなのです。にんげんが、物事をどのようにとらえるのかを」
「ふうん」
ぼくは、いった。詩ってそういうものなのかな。
物事のとらえかた、のかたち。
ひとにはわからなくて、ことばにできないなにかが、ぼんやりあって、ただそれをさし示しているような。
いぬによって代弁される、飼い主が気づいてもいないおもいみたいな。
――――
バーテンダーは犬で、アルコールだけでなく「詩」を出してくれる。ちょっと変わったバーの常連となった語り手は、出された様々な詩を読みながら、詩の読み方を体得してゆく。『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』の姉妹編というか大人版。単行本(講談社)出版は2022年10月です。
詩はよく分からないから苦手、という方は多いです。でもきっと詩人さんや詩の評論家といった人々は、難解な詩もすらすら読んで理解しちゃうんだろうな。そう思いますか。いえ、詩を読む、味わうというのは、そういうのとはまた別なのです。犬のバーテンダーがそういったことを教えてくれます。ゆびぱち詩集が入門編だとしたら、こちらは実践編というべき一冊。内容的にも少し関係していますので、ぜひ二冊合わせてお読みください。
――――
「気力も集中力もなくって。しごとの資料は目がすべるし、小説なんてもちろん読めない。テレビをつけっぱなしにしてるけど、切ってしまうと、いまなにを見ていたのかもおもい出せない」
ぼくは、顔をあげて、いった。「そんな状態でも、ふしぎと、詩ははいってくるね」
「読みかたが、わかってこられたのでは」
拭いていたグラスが、きゅっと鳴る。
そうかもなあ。登場人物とか、テーマとか、ストーリーを通してでなく、ただ、そこにあることばをさしこむような直接さがある。でも、こっちの回路を開けっぱなしておく練習も、たしかに、ひつようだろう。
音楽は、耳だし、絵は、目だ。詩は、どちらでもあるようで、どの回路ともちょっとちがう。あとは、
「匂い?」
ぼくは、おもった。
とても、似ている。手ざわりや、味にも。
――――
――――
そこで、はたと気づく。「詩のむこうに、深いいみがあるなんて、うそだっていってるようでもあるね。詩は、あるがままの、この、ことばのならびとひびき、それだけだって」
「なんだか、ぐるぐるしますね」
マスターは、みょうにうれしそうに、いった。「じぶんのしっぽを追うみたいな」
「ぐるぐるするねえ」
――――
――――
「うん。よくわからない」
わくわくしてきた。「いいぞ」
わからない、というこのかんじが、詩がぼくらをどっかにつれ出そうとするフラグだって、いまは、しっているから。
――――
――――
西洋でも日本でも、詩は、韻や、音数、行数などの定型があって、それがゆるまって、自由詩になっていく、おおきな流れがある。そう、マスターは、いった。
「そのことと並行するように、ロマン主義や、写実主義などの波が起こりました」
「なにかが自由になるときって、たいていべつの理屈がほしくなるんだよね。でないと、でたらめじゃんっていわれちゃうから」
なんて、ぼくは、いってみた。
詩じたいの構造が、信じにくくなってきたのに応じて、詩のそとがわに、たよれる原理がほしくなるのは、合点がいく。
――――
――――
「ひとつは、ロマン主義。十九世紀初めといわれますけど、客観性や社会を優先する、西洋の合理主義的かんがえかたに対して、個人の感受性を優先したものです」
ふむ。
「それに対しての、ゆりもどしが自然主義です。進化論や生物学の発展とかんけいしているといわれますね。ロマン主義の讃えた偉大な個人も、科学的に分析できるだろうというかんがえかたです」
ふむふむ。
「そして、象徴主義は、いいとこどりです」
マスターは、いぬがよくするように、首をちょっとかしげた。「ひとやすみしましょうか」
「いや、聞いてるよ」
ぼくは、酔っぱらいがよくするように、いいきった。「ぜんぜんだいじょぶ」
「ロマン主義のように、個人の内面に重きを置きながらも、自然主義的な観察をやめない、というような」
なんか、主観と客観の対比によく似てるのかも。ぼくは、おもった。
マスターは、つやつやした鼻先をぼくにむけた。「そして、気づいたのです。じぶんが酔っぱらいだということに」
――――
――――
「詩っていうのは、なんてーか、おもい出させようと、してくれてるのかもね」
ぼくは、あやしくなりかけたろれつで、いった。このじぶんだけが、じぶんじゃなかったかもしれないことを。このせかいだけが、せかいじゃなかったかもしれないことを。
そしてまだだれも、もしかしたらじぶんでさえも気づいていない、〈物事のとらえかたのかたち〉の変わる瞬間を。
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つまり……。この詩って、なにがいいたいんだ?
「わかりません」
さらに追いうちをかけるように、マスターは、いった。「詩に、いいたいことがあるものかどうかも」
「こんなに詩に詳しいのに?」
「詳しいといいますか」
マスターは、恬然と、いう。「ただしりたいだけなのです。にんげんが、物事をどのようにとらえるのかを」
「ふうん」
ぼくは、いった。詩ってそういうものなのかな。
物事のとらえかた、のかたち。
ひとにはわからなくて、ことばにできないなにかが、ぼんやりあって、ただそれをさし示しているような。
いぬによって代弁される、飼い主が気づいてもいないおもいみたいな。
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バーテンダーは犬で、アルコールだけでなく「詩」を出してくれる。ちょっと変わったバーの常連となった語り手は、出された様々な詩を読みながら、詩の読み方を体得してゆく。『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』の姉妹編というか大人版。単行本(講談社)出版は2022年10月です。
詩はよく分からないから苦手、という方は多いです。でもきっと詩人さんや詩の評論家といった人々は、難解な詩もすらすら読んで理解しちゃうんだろうな。そう思いますか。いえ、詩を読む、味わうというのは、そういうのとはまた別なのです。犬のバーテンダーがそういったことを教えてくれます。ゆびぱち詩集が入門編だとしたら、こちらは実践編というべき一冊。内容的にも少し関係していますので、ぜひ二冊合わせてお読みください。
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「気力も集中力もなくって。しごとの資料は目がすべるし、小説なんてもちろん読めない。テレビをつけっぱなしにしてるけど、切ってしまうと、いまなにを見ていたのかもおもい出せない」
ぼくは、顔をあげて、いった。「そんな状態でも、ふしぎと、詩ははいってくるね」
「読みかたが、わかってこられたのでは」
拭いていたグラスが、きゅっと鳴る。
そうかもなあ。登場人物とか、テーマとか、ストーリーを通してでなく、ただ、そこにあることばをさしこむような直接さがある。でも、こっちの回路を開けっぱなしておく練習も、たしかに、ひつようだろう。
音楽は、耳だし、絵は、目だ。詩は、どちらでもあるようで、どの回路ともちょっとちがう。あとは、
「匂い?」
ぼくは、おもった。
とても、似ている。手ざわりや、味にも。
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そこで、はたと気づく。「詩のむこうに、深いいみがあるなんて、うそだっていってるようでもあるね。詩は、あるがままの、この、ことばのならびとひびき、それだけだって」
「なんだか、ぐるぐるしますね」
マスターは、みょうにうれしそうに、いった。「じぶんのしっぽを追うみたいな」
「ぐるぐるするねえ」
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「うん。よくわからない」
わくわくしてきた。「いいぞ」
わからない、というこのかんじが、詩がぼくらをどっかにつれ出そうとするフラグだって、いまは、しっているから。
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西洋でも日本でも、詩は、韻や、音数、行数などの定型があって、それがゆるまって、自由詩になっていく、おおきな流れがある。そう、マスターは、いった。
「そのことと並行するように、ロマン主義や、写実主義などの波が起こりました」
「なにかが自由になるときって、たいていべつの理屈がほしくなるんだよね。でないと、でたらめじゃんっていわれちゃうから」
なんて、ぼくは、いってみた。
詩じたいの構造が、信じにくくなってきたのに応じて、詩のそとがわに、たよれる原理がほしくなるのは、合点がいく。
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「ひとつは、ロマン主義。十九世紀初めといわれますけど、客観性や社会を優先する、西洋の合理主義的かんがえかたに対して、個人の感受性を優先したものです」
ふむ。
「それに対しての、ゆりもどしが自然主義です。進化論や生物学の発展とかんけいしているといわれますね。ロマン主義の讃えた偉大な個人も、科学的に分析できるだろうというかんがえかたです」
ふむふむ。
「そして、象徴主義は、いいとこどりです」
マスターは、いぬがよくするように、首をちょっとかしげた。「ひとやすみしましょうか」
「いや、聞いてるよ」
ぼくは、酔っぱらいがよくするように、いいきった。「ぜんぜんだいじょぶ」
「ロマン主義のように、個人の内面に重きを置きながらも、自然主義的な観察をやめない、というような」
なんか、主観と客観の対比によく似てるのかも。ぼくは、おもった。
マスターは、つやつやした鼻先をぼくにむけた。「そして、気づいたのです。じぶんが酔っぱらいだということに」
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「詩っていうのは、なんてーか、おもい出させようと、してくれてるのかもね」
ぼくは、あやしくなりかけたろれつで、いった。このじぶんだけが、じぶんじゃなかったかもしれないことを。このせかいだけが、せかいじゃなかったかもしれないことを。
そしてまだだれも、もしかしたらじぶんでさえも気づいていない、〈物事のとらえかたのかたち〉の変わる瞬間を。
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