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『異邦人』(アルベール・カミュ、窪田啓作訳) [読書(小説・詩)]

 いよいよ今週末、小野寺修二ひきいるカンパニーデラシネラの新作公演『異邦人』を観に行きます。もちろんカミュの『異邦人』が原作ですが、実は私、恥ずかしながらこの小説を読んだことがなかったのですね。

 『点と線』がそうでしたが、小野寺さんの演出は、原作のなかから印象的なシーンやセリフを抜き出して、時間的順序にこだわらずコラージュしまくる、という傾向があるようで、原作を読んでおかないと充分に楽しめない恐れがあります。遅ればせながら、原作を読んでみることにしました。窪田啓作訳の新潮文庫版です。

 カミュの『異邦人』といえば戦前のフランス文学を代表する作品の一つで、私の学生時代には「読んでいて当然」という必読書でした。文学に疎い私でも、さすがに「“太陽のせい”という理由で人殺しをする青年の不条理な物語」くらいの知識はありました。ですから今さらストーリーを紹介するのも恥ずかしいのですが、せっかくだから書いてしまいます。

 学費不足のためやむなく大学を中退し、母親を養老院に入れて、一人暮らしをしている青年ムルソーが主人公です。物語は彼の母親が死亡し、その葬儀に参列するところから始まります。「きょう、ママンが死んだ」。

 このムルソーという青年、何事につけても無感動、無関心で、他人との関わり合いや社会的規範といったものを嫌っている。他人や社会に対しては、関係ない、興味ない、うっとおしい、うざい、うんざり、という態度をとる。もちろん母親の葬儀のときにも泣くわけでもなく、どちらかと言えば面倒くさそうに参列する。

 知人のトラブルに巻き込まれたときも、断るのが面倒だから、という感じで無責任に加担しているうちに、偶発的に(それこそ太陽がまぶしかったせいで)人を殺して逮捕されてしまう。それでも何もかも他人事めいて感じられ、当事者意識を持つことが出来ないムルソー。

 裁判になったとき、彼のその「社会的常識や協調性の欠如」が徹底的に糾弾され、母の葬儀で涙ひとつ流さない魂のない怪物、みたいな言われ方をされる。こうしてムルソーは、つまるところ「母の葬儀で泣かなかった」ことで死刑判決を受け(殺人の方は誰も問題にしてないようですが、たぶん舞台がフランスで、殺されたのがアラブ人だからでしょう)、それでも神も社会も何も本気で信じることができず、ただ「処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげ」ることだけが彼の最後の望みであった。

 というような話ですが、少なくとも現代の日本では、ムルソーのような青年は少しも珍しくない、というかむしろ「挫折した高学歴の引きこもり傾向が強いフリーター青年」というステレオタイプなイメージそのもので、彼自身が特に不条理だとは感じられません。

 むしろ不条理なのは社会的規範に合わせようとしないことで彼を恐れ排除しようとする社会の方ですが、これもまた俗流若者論(「今どきの若者」を糾弾する言説)であふれるマスコミそのもの。

 たぶん書かれた当時は人間や社会の不条理を描いた小説だったのでしょうが、今読むと普通のリアリズム小説としか思えません。まさにその事実こそが、私たちがいかに不条理な社会に住んでいるかを示しているのかも知れませんが。

 というわけで、とりあえず印象的なシーンとセリフはチェックしたので、舞台を観る準備は整いました。大いに楽しみです。


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