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『アサッテの人』(諏訪哲史) [読書(小説・詩)]

 第50回群像新人賞、第137回芥川賞をダブル受賞した話題作。脈絡なく唐突に「ポンパ!」といった奇声を発する叔父についての小説を書こうとして苦悩する話です。

 まず「ポンパ!」「チリパッハ」「ホエミャウ」「タポンテュー」といった奇妙な語感を伴うナンセンスな言葉の頻出が目につきます。最初は戸惑うのですが、やがてその言語感覚が妙な快感に。

「耳に付きやすいくせに、それ自体に意味を持たぬ言葉というのは、考えてみれば恐ろしい。それはブラックホールのように人間を吸い寄せ、暗い穴の中へ呑み込んでゆく」(単行本p.80)

というように、ごく普通の文脈にそういう言葉がふと紛れ込むタポンテュー感がこの作品にはあふれています。

 強迫観念的にそのような言葉にこだわる叔父は、最初は「ちょっと頭が変な人」あるいは「奇妙な言語障害を負ったかわいそうな人」という印象なんですが、読み進めるにつれて、彼の内面でどれほど激しくも切ない葛藤や苦闘が繰り広げられているかが、完全に理解は出来ないものの、次第に垣間見えてきて、それが不思議な共感を呼びます。

 さらに、その叔父についての小説を書こうとする(作中人物である)作者の苦悩。視点人物を定めて、時系列順に、あるいは最も劇的効果がある順番に、エピソードを連ねて、起承転結のパターンで物語を語る。そのような普通の叙述手法では、あまりにも作為的に過ぎて「定型的な言語からの逸脱」にこだわる叔父という人物を描くことが出来ない、というかそのような書き方は読者に対して不誠実だと、(作中人物である)作者は考えます。

 そういう普通の小説にすることで、叔父の物語を例えば「難病もの」「悲恋もの」「サイコもの」「トリックスター」といった型にはめてしまうことを、作者は断固として拒否します。結果として、この小説は、通常の叙述手法で書いた「初期の草稿」からの断片、叔父が残した日記の断片、その他を、コラージュのように並べ、作者からは最小限の補足説明しか提供せず解釈の多くを読者にゆだねる、という変則的な、あるいは実験的な構成で書かれることになります。

 作家や詩人であれば、紋切り型の表現、定型的な文章、陳腐なストーリー展開、そういったものからの「逸脱」を試みているうちに、その試み自体が定型化していることに気づいてもがいていると思うのですが、この作品自体がそのような苦悩を表現しているのかも知れません。実際、作中でも、何度も出てくる「ポンパ!」は最初の頃の新鮮さを失ってゆき、叔父は「逸脱」それ自体が定型化してしまうという泥沼に陥って破壊されてゆきます。

 後半、全てが脱意味化してゆくような喪失感の中で、いったいこの作品をどうやって終わらせるつもりなのか危ぶみながら最後まで読み進めると。唐突に訪れる、突き抜けてしまったような解放感と、あまりにも切なく哀しい情感を引き起こすラスト(「追記」「巻末付録」)。あくまで解釈を拒否しながらも、見事に読者の心のツボを突いて泣かせるやり口はお見事。そこでアルジャーノン落ちかよ、とかツッコミつつ、不覚にもちょっと涙ぐんでしまいました。悔しい。

 というわけで、テーマ、登場人物、叙述手法、文章、そして破格に見えて実は入念に仕組まれた構成、その全てがかみあって一つの表現となっているような、これしかない、というか、こういう手があったか、という驚きを与えてくれる作品です。選考委員が推薦してしまった理由が分かるような気がします。

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