『なにもしてない』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]
シリーズ“笙野頼子を読む!”第20回。
1999年を起点に最新作まで読んだので、いよいよデビュー作から順番に1999年を目指して読んでゆきます。
今回読んだ『なにもしてない』は、1991年に発表された2編を収録した短編集。単行本出版も1991年。私が読んだ文庫版は1995年出版です。
作者にとって栄光と戦いの90年代。その開幕を告げるターニングポイントとなった一冊で、同年の野間文芸新人賞を受賞しました。収録されているのは『なにもしてない』と『イセ市、ハルチ』です。
発表時期が早いのは『イセ市、ハルチ』の方で、これは帰郷を扱った、後に書かれる傑作『二百回忌』の原型のような作品。
幻想や夢の描写を通じて現実を表現する、という作風に一段と磨きがかかっており、夢とも現ともつかないような心境で里帰りした語り手が、現実と幻想をいったりきたりしながら次第次第に故郷にまつわる様々な事柄を思い出してゆくという構成。故郷や家族に対するねじれた愛憎が、強烈に表現されています。
「ハルチでは、チガウコトをするだけで犯罪になった」(文庫版P174)
「私は外へ出て漸く、生きていて良かったという感覚を持てるようになった」(同P177)
「束縛と怯えだけで私はこの土地と繋がっていた」(同P202)
など、これまでの作品と違うストレートな表現に驚かされます。
あと、この作品で初めて猫(キリコ)が登場するという点は要注目かも知れません。ただし、語り手はキリコに会えないまま終わるのですが。
次の『なにもしてない』は、これまでの作品の集大成のような話。デビュー作『極楽』から直前の『イセ市、ハルチ』までの流れを圧縮して、次の作品につなげた、という感じです。
『極楽』や『皇帝』に書かれていた、引きこもり生活および外界との葛藤が、本作では接触性湿疹という形で登場します。
「十年間ずっと私自身はナニカヲシテキタつもりでいたのだった。だがしてきたはずの何かは自分の部屋の外に出た途端にナニモシテナイに摩り替わってしまった」(文庫版P41)
「私はナニモシテナイ事が根源的病なのではないかと疑い始めていた。密室の中の一心にナニカシテイル私が外界のナニモシテナイ私にかぶれる」(同P63)
小説を書くことで切実に生きているはずの自分が、“いい年して結婚もせず仕事もせず部屋にひきこもってナニモシテナイ女”として世間から糾弾される苦しみを凝縮したような接触性湿疹の描写。ここは読んでいて胸が苦しくなります。
疲弊して苔のように動かなくなった語り手が見る幻想シーンは旧作『虚空人魚』を彷彿とさせますし、湿疹に関する「群生する傷口」(同P22)という描写は、デビュー作『極楽』の地獄絵を思い起こさせます。語り手を傷つけてやまない“世間”は、旧作『皇帝』における“声”そのものに思えますし。
やがて語り手は病院に行って治療を受けて治癒する、という形で社会復帰を果たすことになります。ここが旧作群とは違う展開で、いよいよ外界へ出てきたわけです。ここから90年代の笙野文学が始まります。
外界へ出た語り手の前に姿を表すのは、いずれ克服しなければならない“敵”の数々で、例えばそれは郷里(伊勢)、国家神道、あるいは国体です。
ラストは旧作『夢の死体』と同じく住処を追われるところで終わり、そして、ストーリーも次の作品へと引き継がれてゆきます。
なお、『なにもしてない』は後に大幅加筆の上『笙野頼子三冠小説集』に収録されており、これから読むのであればそちらの方がよいと思います。
1999年を起点に最新作まで読んだので、いよいよデビュー作から順番に1999年を目指して読んでゆきます。
今回読んだ『なにもしてない』は、1991年に発表された2編を収録した短編集。単行本出版も1991年。私が読んだ文庫版は1995年出版です。
作者にとって栄光と戦いの90年代。その開幕を告げるターニングポイントとなった一冊で、同年の野間文芸新人賞を受賞しました。収録されているのは『なにもしてない』と『イセ市、ハルチ』です。
発表時期が早いのは『イセ市、ハルチ』の方で、これは帰郷を扱った、後に書かれる傑作『二百回忌』の原型のような作品。
幻想や夢の描写を通じて現実を表現する、という作風に一段と磨きがかかっており、夢とも現ともつかないような心境で里帰りした語り手が、現実と幻想をいったりきたりしながら次第次第に故郷にまつわる様々な事柄を思い出してゆくという構成。故郷や家族に対するねじれた愛憎が、強烈に表現されています。
「ハルチでは、チガウコトをするだけで犯罪になった」(文庫版P174)
「私は外へ出て漸く、生きていて良かったという感覚を持てるようになった」(同P177)
「束縛と怯えだけで私はこの土地と繋がっていた」(同P202)
など、これまでの作品と違うストレートな表現に驚かされます。
あと、この作品で初めて猫(キリコ)が登場するという点は要注目かも知れません。ただし、語り手はキリコに会えないまま終わるのですが。
次の『なにもしてない』は、これまでの作品の集大成のような話。デビュー作『極楽』から直前の『イセ市、ハルチ』までの流れを圧縮して、次の作品につなげた、という感じです。
『極楽』や『皇帝』に書かれていた、引きこもり生活および外界との葛藤が、本作では接触性湿疹という形で登場します。
「十年間ずっと私自身はナニカヲシテキタつもりでいたのだった。だがしてきたはずの何かは自分の部屋の外に出た途端にナニモシテナイに摩り替わってしまった」(文庫版P41)
「私はナニモシテナイ事が根源的病なのではないかと疑い始めていた。密室の中の一心にナニカシテイル私が外界のナニモシテナイ私にかぶれる」(同P63)
小説を書くことで切実に生きているはずの自分が、“いい年して結婚もせず仕事もせず部屋にひきこもってナニモシテナイ女”として世間から糾弾される苦しみを凝縮したような接触性湿疹の描写。ここは読んでいて胸が苦しくなります。
疲弊して苔のように動かなくなった語り手が見る幻想シーンは旧作『虚空人魚』を彷彿とさせますし、湿疹に関する「群生する傷口」(同P22)という描写は、デビュー作『極楽』の地獄絵を思い起こさせます。語り手を傷つけてやまない“世間”は、旧作『皇帝』における“声”そのものに思えますし。
やがて語り手は病院に行って治療を受けて治癒する、という形で社会復帰を果たすことになります。ここが旧作群とは違う展開で、いよいよ外界へ出てきたわけです。ここから90年代の笙野文学が始まります。
外界へ出た語り手の前に姿を表すのは、いずれ克服しなければならない“敵”の数々で、例えばそれは郷里(伊勢)、国家神道、あるいは国体です。
ラストは旧作『夢の死体』と同じく住処を追われるところで終わり、そして、ストーリーも次の作品へと引き継がれてゆきます。
なお、『なにもしてない』は後に大幅加筆の上『笙野頼子三冠小説集』に収録されており、これから読むのであればそちらの方がよいと思います。
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