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『the sun』(小野寺修二、カンパニーデラシネラ) [ダンス]

 2024年3月23日は夫婦でシアタートラムに行って小野寺修二さんの新作を鑑賞しました。小野寺さんを含む6名の出演者が踊る70分の公演です。


キャスト他

演出:小野寺修二
出演:數見陽子、丹野武蔵、大西彩瑛、鈴鹿通儀、藤田桃子、小野寺修二
三味線演奏:桂小すみ


 カミュの自伝的な未完小説をベースとした無言劇で、セリフはありません。手話の翻訳が録音で流れるくらいです。三味線や縦笛、フルート、太鼓、歌唱など、次々に楽器を変えての桂小すみさんの演奏が印象的です。音の視覚化(例えばドアがきしむ音を“見える”ようにする、楽器や曲調が変わったことを視覚的に見せるなど)が工夫されており、これは出演者である、ろう者俳優である數見陽子さんのアドバイスが活かされているのでしょう。

 これまで観たデラシネラ作品と違って観客を驚かせ笑わせるようなマイムは控えめで、見立てが多く使われていました。冒頭で小野寺さんが白装束で踊っていたの、あれは配役表によると“馬”だったんかい。

 藤田桃子さんが少しも変わらないように見えることが個人的に驚いた点で、その存在感も相変わらず凄い。小野寺さんと藤田さんの掛け合いは本当に面白かった。

 原作をいったん断片化して再構成したようなプロットで、正直どういう話の展開なのかはよく分からなかったのですが、演出の面白さで最後まで楽しめました。タイトルにもなっている“太陽”の登場シーンの演出は特にインパクトがありました。





タグ:小野寺修二
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『EXHIBIT B』『calling glenn』(ダニエル・アガミ、Ate9ダンスカンパニー) [ダンス]

 2024年3月2日は、夫婦で世田谷パブリックシアターに行ってダニエル・アガミ率いるAte9ダンスカンパニーの初来日公演を鑑賞しました。『EXHIBIT B』が30分、『calling glenn』が50分の上演時間です。


[キャスト他]

振付・演出: ダニエル・アガミ
出演: Ate9ダンスカンパニー
マノン・アンドラル、アドリアン・デレフィン、ビョルン・バッカー、ジュリアン・ギブール、カルメラ・ディ・コスタンツォ、ユンティン・ツァイ、オスカー・ベレス
音楽: オミッド・ワリザデ(『EXHIBIT B 』)
音楽・演奏: グレン・コッチェ(『calling glenn』)


 音楽が強烈です。特に『calling glenn』ではグレン・コッチェ自身が打楽器をばんばん叩いて観客の身体を揺さぶります。彼の演奏目当てに来た観客も多いようです。

 聴いているうちに頭がぐらぐらして胃が動転して心が高揚するようなパーカッション鳴り響くなか、ダンサーたちはあちこちで小さな遭遇を繰り返します。その様はとても現代的というか、社会の縮図っぽいというか、近藤良平さんのダンスグループ「コンドルズ」の演出を連想させるというか。皮肉なユーモアがたっぷり。鳴り響く耳障りな不協和音でSNSを表現するシーンなどお見事でした。

 バットシェバ舞踊団の来日公演がキャンセルされた直後にこの公演をみることが出来て幸運でした。





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『入門 山頭火』(町田康) [読書(随筆)]

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 山頭火は、句の完成は人間の完成によって初めて成る、という意味のことを書いている。金持ちの家に生まれた山頭火は人を見下すことによって、人をぶち壊し、また、自分もぶち壊れる人間の在り方が嫌でそれから脱却しようとしたように思う。そしてマア必ずしもそうなろうと思ってなった訳ではないだろうが、行乞流転の身の上となり、その低い位置からすべてを等し並みに見る眼差しを獲得することによる回天を図った。だけど右に言ったことや、言わなかったそれ以外のこともあって、人間にはなかなかできないことで矛盾に溢れ、山頭火は壁にぶち当たった。山頭火の句はだから、完成した三味境から生まれてくる神韻縹渺とした句ではなく、捨てられない重い荷物を背負った山頭火の生身とどうしようもない人間の壁が衝突したときに響く音、生じるエネルギーであったと思われる。だけどそれは不可能な完成を目指さないと響かぬ音であり、生じない熱と力である。俺なんかが山頭火の句に切なく共感しつつも、ここまで徹底できないな、と思う、その理由は多分そこらへんにあんのとちゃうけと思う。
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単行本p.304


 シリーズ“町田康を読む!”第73回。


 分け入つても分け入つても青い山、とはどういうことなのか。自由律俳句の俳人、山頭火の生涯を自らの人生と重ねるようにして読み解く一冊。単行本(春陽堂書店)出版は2023年12月。




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 その頃、東京の西郊に住んでいた俺は取りあえず街道を東に向かって歩いた。歩く以外にすることはなかった。そして懐には一文の銭もなかった。けれども歩いたとてなにがどうなる訳でもない。だったら止まれば良いのだけれども、止まったらもっとどうにもならない。(中略)そんなことで俺は意味なく歩き続けた。そのとき頭のなかに、

  このように流浪するわけは、
  このように歩き続けるわけは、

 という句がずっと浮かんで流れていた。だけど、その先はちっとも思い浮かばなかった。(中略)そのときの俺にはこれを山頭火のように、水のような純粋な言葉よりなる詩にする能力が無かった。だから俺は高円寺まで歩いて力尽き、それ以上歩けなくなって、その頃のバンドメンバーの部屋を訪ね、一泊させて貰って電車賃を借りて家に帰った。
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単行本p.207、217




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  分け入つても分け入つても青い山

 と言うとき、その句には人の、でもまだ分け入っていこう、という意志がそれでもうかがえる。いま現在、分け入っている、という感じがある。それから丸三年経って、その人は、

  どうしようもないわたしが歩いてゐる

 と言う。(中略)此の句はそのような人がただ生きているだけでもう途方にくれている、という悲哀が現れている。
 なんの苦労もしないで甘やかされて育ち、「生きづらい」などとほざいている若僧を見るとパンクの日陰道を歩んできた翁としては、「バカッ、元気を出せっ」と叱咤したくなる。だけど、ここにある人間のそもそものどうしようもなさを見るとき、

  このように流浪するわけは
  このように歩き続けるわけは

 と問うて絶句し、引き返した、その先の姿がこれなのだ、ということに思いいたり、こころが、ぐわあっ、となるのである。うくく。
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単行本p.227





タグ:町田康
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『ギケイキ3 不滅の滅び』(町田康) [読書(小説・詩)]

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 私の話は殺伐としすぎただろうか。しかしまあ昔も今も上下貴賤の別なく人間はこんなものだ。美しく歌ったところで、根底にあるものは同じ。私は美しい言葉を弄ぶ奴の心の奥で常に銭と欺瞞のフェスティバルが開催されていることを知っている。えへへ。
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単行本p.351


 シリーズ“町田康を読む!”第72回。


 室町時代初期に成立したという軍記物『義経記』。いわゆる義経伝説を確立させたことで名高い古典を、主人公である義経さんご本人が今の言葉で語り直すぶっちぎり現代文学パンク長篇『ギケイキ』。タイトルからして原典に忠実。もちろん話の筋も原典に忠実。ネタバレ多数流通につきご注意。

 というわけで、現代を生きる私たちのために、分かりやすい言葉、生きた口語、というか、声が聞こえてくるような文体で、義経さんが語りまくってくれるシリーズの第三弾です。単行本(河出書房新社)出版は2023年3月。




 義経の活躍っぷりと人気に危機感を抱いた頼朝、このままでは自分の地位が危ういというか、後の世に「判官贔屓」みたいな言葉が流布されたら嫌というか、下手すりゃ「後のチンギス・カンである」なんて言いふらす奴が出てこないとも限らない、ということで、義経討伐の手をゆるめることなく。さあ、吉野山に潜伏した義経一行、はたしてその運命やいかに……。




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 ある時代の、ある時点を見るとき、その先の結果を知っていて見るのと、結果を知らないで見るのとはぜんぜん違う。
 そしてその当事者は、当然の如くにその瞬間を生きているから先のことはわからない。
 結果を知っていて、結果から逆算して考えるからこそ、「義経はこの時点で既に落ち目」とか或いは「平家はダメダメ」とか言うのであって、(中略)結果を知らない当時の人は私が一時的に退いたとは思っていても、もう終わったとは誰も思っていなかった。
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単行本p.264




 そこで語られるは、リアルな政治。




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「やっぱあれっすよね、こういうやり方やってたら、これだから東国は駄目だ、って言われるんじゃないですか」
「ですよね、やはり世論というものが黙ってませんよ」
「静御前、っていう象徴的存在を殺したら、鎌倉殿個人だけじゃなくて東国武士全体の人権感覚を疑われますよね」
「ほんとですよね、やはりここは道理と礼節と慣習を弁えた、冷静かつ慎重な議論が望まれるところですね」
 などと、無責任な建前論を言い合って、自分が良識派だということを確認し合っていた。
 その、まるで全員が自分を非難しているような空気に頼朝は大いに不満であった。頼朝は思った。
 これじゃなんか僕がとてつもなく非道いことをしているみたいじゃないか。じゃあ、助ければいいのか。助けて、その腹の子が成長して、僕と同じことをやったらどうなるんだ。おまえらみんな滅びるんだよ。それを防止するために僕は子供を殺せって言ったんだよ。なのになんだ。まるで僕を血も涙もない殺人鬼を見るような目で見て。そんなねぇ、可哀想とか、謀反人の人権が、とか、ワイドショーのコメンテーターみたいなこと言ってたら現実の政治はやれないんだよ。じゃ、俺、この場で出家するからおまえら代わりに将軍やってみろよ。三日で滅びるよ。っていうかさあ、女はいいとしておまえら戦場でいつも自分らがなにやってるのか忘れたのかよ。ダブスタ、えぐいんだよ。
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単行本p.384




 さらには、リアルな宗教。




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 はっきり言って頼朝さんと義経さんの私戦ですよね。っていうか、兄弟喧嘩ですよねぇ。もちろんね、僕らだって仏法を護るためだったら武器とって戦いますよ。甲冑着て。でも単なる兄弟喧嘩の、一方の味方して殺生戒を破るってどうなんだろう? って僕、思うんですよ。っていうとね、いやいやいやいや、わかってますよ、いまからそれ言おうとしてるんだから最後まで聞いてくださいよ。いや、だから僕がそれ言うとすぐ観念的な議論だとか理想論だとか批判受けますけどね、いや僕が言ってるのは具体的な戦略としてね、そんなことして鎌倉一辺倒でいいのか、とね、そう言うと、じゃあどうするんだ、っていう議論になりますけど、それはもう、なにもしない。つまり曖昧戦術ちゅうことでね、誰かからなんか言われても、あ、仏の教えは尊いものですわ、みたいな屁理屈で乗り切ってどっちの味方もしない、っていうのがね、結局のところ、殺生をしないという意味では仏道にも適う、的な、そんな感じでいった方が僕はいいと思うんですよ。
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単行本p.5




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「あほか、でけへん理由はなんぼでもあんねん。でけへん理由を探してばっかしおったらいつまで経ってもなんにもでけへんねん。一生、しょうむない奴のままで終わんねん。いけよ、いって黄金の刀奪ったれよ。根性、見したれよ。根性みしてビッグになったれよ。それともここでびびって逃げて、蛆虫みたいな一生、送るか。さあ、どうすんね。ビッグか。それとも蛆虫か。どっちにすんねん」
 迫られて弁の君が言った。
「ビッグがいい」
「俺も」
「俺も」
「奪ってこまそ。奪ってビッグになろ」
「ほんまほんま。なにが義経じゃ、奈良、なめんな。仏、なめんなっ」
「ヘゲタレがッ」
「あああ、あああああっ」
「うおおおおおおおおおっ」
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単行本p.275




 そして、リアルな戦闘。




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「待てとはどういうことだ」
「はああああ? どういうことって、なに言ってんすか? っていうか意味わかって言ってますぅ? あのねぇ、これはねぇ、お互いトップ同士の一対一の勝負なんすわ。男の戦いなんすわ。英雄伝説なんすわ。それにセコンドが乱入してくるってあり得ないっしょ。なんか俺が卑怯みたいになるじゃないすか。普通、やんないでしょ、そんな格好悪いこと。あのー、考えて動いてくださいね。頼むんで。っていうか、もし乱入してきたら死ぬまで怨むし、死んでも怨みますわ。はっきり言って」
 卑怯と言われるのを承知の上で加勢しようとして、こんな言われようをしたので当然、一同は白けた。
「だったらいいよね」
「討たれても仕方ないよね」
 そんなことを言いながら一同はダラダラ引き返し、元の位置から戦況を見守った。けれどもその心の内は先程までとは違っていた。というのは。
 先程までは川連法眼の恥を雪いで、自分たちのグループ・一党が義経(実は佐藤忠信)を討つという名誉を共有しようという思いがあり、心の底から覚範を応援していた。しかし、右のように言われてより後は、「死ね」「早く討たれろ」という感じになっていた。
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単行本p.99




 そしてついにやってくるクライマックス。静御前、狂熱のライブ!!




――――
 静はまるで雑人が芋ケンピを買いに行くような何気ない足取りで人の領域から神の領域へ入っていった。
 最高のバンドと最高の歌手は人間の感受性を根底から揺すぶった。群集は不安と恍惚を同時に感じながら一体化して揺れた。前後もなかった。左右もなかった。上下もなかった。貴賤もなかった。全鎌倉が一斉に発狂していた。群集は咆哮し、涎を垂らし、白目を剥いてぶっ倒れた。げらげら笑いながら脇差で自分の腹を突く者。隣の者とひしと抱き合って腰をスクスクする者。硬直してブルブル震える者。多くの者がもはや人間として成立しなくなりかけていた。
(中略)
「静あああっ」
「静ああああああっ」
 という群集の叫び声は、初めのうちこそバラバラであったが次第次第に一体化して、

しっ、ずっ、かっ。
しっ、ずっ、かっ。
しっ、ずっ、かっ。
しっ、ずっ、かっ。

 という、六万人の叫喚と相成った。アンコールを求めるその声は上空に木霊して響き、また、群集は叫ぶと同時に、足も踏み鳴らし、若宮八幡宮がぐらぐら揺れた。
――――
単行本p.480




 千年近く前も、今も、人間にはそんなに根本的な違いはないし、ご大層なこといってるわりにしょうむなく生きてしょぼく死んでゆくのは同じこと。その様がリアルに書かれていて胸に響きます。時代を越えて読まれる古典のその真髄にわたしたちの言葉で迫ってゆく現代の名作、なかでも、見せ場たっぷりのこの第三巻が、正直、いっちゃん面白いと思う。思うのですよ。





タグ:町田康
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『ペレアスとメリザンド』(勅使川原三郎、佐東利穂子) [ダンス]

 2024年2月17日は、夫婦でKARAS APPARATUSに行って佐東利穂子さんのダンス公演を鑑賞しました。演出照明は勅使川原三郎さん。その勅使川原さんはスイスで仕事中で、留守の間は佐東利穂子さんが一人で公演を続けることに。というわけで、先日の『読書 本を読む女』に続くソロダンス作品です。

 ごく普通の人間に見えたかと思うと精霊のような人外になり、時に悪霊めいた恐ろしい存在になり、ドビュッシーの神秘的な音楽に乗せて、ダンス表現を通じて様々なものに変化してゆく舞台です。同じシーンが何度か繰り返されることもあって、時間が溶けてゆくような感覚に襲われます。ほぼ神秘体験。動き、特に腕の動きは、何度見てもすごい。

 このあと佐東さんも欧州で勅使川原さんに合流して、スイス、イタリア、フランスなどで公演を行う予定となっています。夏ごろには帰国してくれるのでしょうか。





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