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『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) [読書(オカルト)]

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 超常現象の最大の特徴は、その目標志向性ととらえにくさであろう。目標志向性とは、最終的な目標を思い描きさえすれば、途中のプロセスに関する知識を持たずとも、その目標がいわば自動的に実現されるように見える現象のことであり、とらえにくさとは、超常現象がその捕捉を逃れるような形で起こりやすい傾向のことである。超常現象は、不正行為や暗示や錯覚や憶測が入り込みやすい状況では起こっても、超常的要因しか考えられない状況では姿を消してしまう。
(中略)
 心霊研究者や超心理学者が何と言おうとも、批判者からすれば、とらえにくさは、超常現象支持者の単なる言い逃れにすぎないことになるし、そうした研究をますますうさんくさいものにする要因以外の何ものでもないことになる。
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単行本p.6


 サイ(透視、テレパシー、念力などのいわゆる超能力)現象を中心に、超常現象の「とらえにくさ」に関係する代表的な論文を網羅的に収録した大作。単行本(春秋社)出版は1993年7月です。


 追いかければ逃げる、あきらめたら起きる、でも決して証拠を残さない。


 「決定的な証拠が得られない」という条件が整っているときにしか発現しない、それこそが超常現象の最も顕著で普遍的な特徴です。再現性が低いとか、発生条件が厳しいとか、そういった通常の概念ではとらえられないほど、超常現象の「とらえにくさ」は本質的かつアクティブな効果らしいのです。本書は、この「とらえにくさ」に関する論文を網羅的に集めた、超心理学の基礎文献というべき一冊。


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 われわれの研究領域公認の目標は、サイを解明、予測し制御することである。ところが、公式の研究が百年近くにもわたって続けられてきたにもかかわらず、サイは相も変わらず神秘のヴェールに包まれている。事実、サイはわれわれの追求の手をきわめて巧妙にすり抜けてきたように見える。それがあまりにみごとに行なわれるため、サイの周辺に不明瞭な部分をある程度残そうとする力が裏で働いているのではないか、と考えてしまうほどである。あたかもサイは秘密を持っており、それを保持し続けようとしているかに見えるのである。
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単行本p.199


 まず印象的なのは、この「とらえにくさ」効果そのものを具体的に報告している論文です。


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 何らかの検証や管理を行おうとすると、こうした現象はいつも減衰ないし消滅した。浮揚中の物体を撮影しようとするとカメラが“攻撃”され叩き落とされるか、不可解な故障を起こすかした。念力は“追いつめられる”と、記録装置を使いものにならなくしてその支配から逃れることを“決意”するように見える。あるいはまた、その記録装置に一時的な故障を“見つけ”その機会に乗ずることもある。
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単行本p.422


 いざとなればカメラを物理攻撃することも辞さない超常現象。ここまでやっかいで強情な対象を研究する超心理学という分野においては、研究者は誰もがこの「とらえにくさ」への対処に苦慮しています。


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 超常現象にとらえにくさという特徴のあることは、昔から研究者にはよく知られていた。また、そのためにこそ決定的証拠が得られないことも十分認識されていた。そこにJ・B・ラインが登場する。ラインがデューク大学で開始した統計的、定量的サイ実験は、ラインの創始になるものではなく、それまでの研究法を洗練させたものにすぎないが、いずれにせよこの方法は、超常現象のとらえにくさをある意味で巧みに回避した実験法となった。これは、個々の実験データのどれがサイによるものなのかを不明瞭化し、“どこか”に超常現象が潜んでいることが推定されるような形態のデータを、すなわちサイの存在の“状況証拠”を提出する実験法なのである。
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単行本p.8


 巧みに逃れる超常現象に「あえて逃げ道を与える」ことで、その痕跡をとらえようとする、実にもどかしい超心理学研究。曖昧さや不正が入る余地を残すことでしか現象をとらえられない(そしてもちろん批判者からはそこを徹底的に叩かれる)という、自虐的なまでの困難さ。そのようにして研究を続けた100年の歴史を、研究者たち自身はどのように評価しているのでしょうか。


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 もし同協会(アメリカ心霊研究協会)の目的が「超心理学的ないしは超常的と呼ばれる現象の研究」であったとすれば、その目的が達成されたことは疑う余地がない。超心理学的探求は、同協会の100年の歴史とともに、間断なく前進を続けてきた。その探求は、他の分野の科学が享受している研究資金その他有形の援助を受けては来なかったし、科学界全体からは名目的に受け入れられている状況にすぎないけれども、努力を要するこの課題を遂行するのに必要な犠牲を進んで払う、勇気ある自立的研究者が存在しないことは一度たりともなかった。
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単行本p.42


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 超心理学という新しい科学は、今や定量的段階の入口に辿り着き、次の角を曲がれば超心理学のファラデーやマクスウェルが待っているところまで来ている。これから100年から300年の間に超心理学は、データベースや理論や応用において、今日の電磁気学と同じくらい洗練された段階に達するであろう。
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単行本p.201


 たいそう勇ましい言葉が並びます。ですが、スーザン・J・ブラックモアの手にかかれば、評価はこれこの通り。


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 100年にも及ぶ長きにわたって研究が続けられてきた現在、超心理学に関してひとつだけはっきりしていることは、進展がほとんどなかったという事実ではないかと思う。サイに関して真の意味で再現可能な現象はひとつだけある。つまり、その非再現性である。この事実を真剣に受け止め、サイ仮説を基盤に置いた研究法がことごとく失敗してきたという事実をわれわれは認めなければならない。
(中略)
 伝統的超心理学は、今や危機に瀕している。おそらくは、しばらくの間、退縮と保身とを続けることであろう。そして最後には、サイ仮説以外のものを残すことなく終止符を打つことになろうが、その段階でもまだ、非再現性だけは生み出し続けることであろう。
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単行本p.184、186


 さすがブラックモア、辛辣そのもの。ですが、曖昧な状況証拠しか得られない(ようにあえて設計された)実験を繰り返しても、批判者を納得させることは難しいというのは確かでしょう。


 では、この「とらえにくさ」にどのように対処するべきか。

 ひとつの興味深い戦略として「天然モノの超常現象だからこれだけ手強いのだ。養殖モノなら何とか手懐けることが出来るのではないか」という試みがあります。有名な“フィリップ実験”がこれに相当します。


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 トロント心霊研究協会の会員グループが1972年に「“幽霊”を作りあげる試みを行う決定をする」までの経緯について述べている。このグループは、“フィリップ”という名前の、オリバー・クロムウェルの時代に暮らした架空のイギリス貴族を創作し、詳しい生活歴を作りあげた。グループは毎週集まり、瞑想的な方法を用いてフィリップの幽霊を創りあげようとした。(中略)まもなく現象を起こすのに成功した。テーブルが動いたばかりか、申し分ないほどの叩音も発生したのである。また、その叩音を用いて、フィリップという架空の人格と“交信”できることがわかった。
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単行本p.416


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 実験は1972年9月に開始されたが、1973年夏、叩音とテーブルの運動が初めて観察されるまでは、何の現象も起こらなかった。グループのメンバーは、驚嘆すべき忍耐と献身的態度とを示した。四年半もの間、実験を目的とした木曜日の夜の会合に、毎回ほとんど欠かさずに集合したからである。現在でもなおこのグループは、最初に“フィリップ”を創作した八名で構成されている。
(中略)
 フィリップはまた、この時期に、さまざまな曲を演奏し、それに合わせて拍子を取るという能力を発揮し続け、そのレパートリーはかなり増えた。また、二月には、数多くの答えが部屋の中にある金属体から返ってきた。ある時には、天井の管に付いているブリキの受け皿の中で“ピン”という音が何度も発生した。ピンという音は、テーブルの金属製の縁や、会席者のパイプ椅子の座席の下側からも聞こえた。
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単行本p.434


 人間が入念に作り上げた人工幽霊フィリップ君は、明るい場所でも、第三者が見ているときでも、割と親切に心霊現象を起こしてくれたようです。しかし、これだけ懐いていても、やはり決定的な証拠を残すようなヘマはしません。親しき仲にも礼儀あり。超常現象として守るべき一線というものがあるのでしょう。


 人智を超える強力な「とらえにくさ」効果。そもそも、いったいこれは何なのでしょうか。研究者たちも色々と憶測していますが、これといった有力な説はいまだ確立していないようです。


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 超常現象がとらえにくい原因は、人間の何らかの総意に基づく抵抗のようなものなのであろうか。つまり、何らかの理由で人類全体が、超常現象の存在を明確にするのを避けているのであろうか。(中略)それとも、人間以外の存在ないし力が、超常現象の実在を明確に知られないようにするため、その証拠を隠蔽しているのであろうか。そうだとすると、一部の人間を引き付けるような形でそうした現象をかいま見せるのはなぜなのであろうか。
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単行本p.12


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 超常現象は、なぜこれほどまでにとらえにくいのであろうか。それは、大脳の半球優位性に何らかの関係があるのであろうか。それとも、量子力学的な不確定性原理と、ある意味で質的に共通した現象なのであろうか。あるいは、サイに対する恐怖心のために、サイの実在を裏付ける証拠が必然的にとらえにくくなってしまうのであろうか。もしそうだとすると、その恐怖心はどこに由来するのであろうか。あるいはまた、普遍的創造原理のようなものによって説明できるものなのであろうか。
 また、超常現象のとらえにくさにしても、人間の心の本質にしても、その解明は、これまでの科学知識の延長線上にあると考えられてきたが、本当にそう考えてよいのであろうか。(中略)従来の線に沿って研究を続けていても、超心理学や心霊研究が完全に消滅してしまうとは思われないけれども、さりとて、そうした研究を積み重ねて行けば自然と道が拓けるようにも思われない。ではいったい、どうすればよいのであろうか。
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単行本p.749、751


 ところで、こういった問題意識は、超心理学の研究者でもない私たちには無関係なのでしょうか。

 個人的には、そうは思いません。誰だって、どうしたって、人は超常体験をしてしまうものなので、その性質について知識を得ることは「超常体験のせいで道を踏み外す」という危険を避けることにつながると思うのです。これ、けっこうマジで言ってます。

 例えば、あなたが超常現象を目撃して、他人にそのことを説得しようとしても、なぜか当然あるべき痕跡が残っていない、あるいは証拠が行方不明になってしまう、といった体験をしたとしましょう。それを「何者かによる隠蔽工作だ」と解釈すると、パラノイアに陥ってしまいかねません。そうではなく「証拠が残らないのは、まさにそれこそが超常現象の特徴だから」と納得した方がいいでしょう。

 同様に、あなたが宇宙人と遭遇したとしても、「地球外文明が私にコンタクトしてきた。これから人類文明に大きな変革が起きる」とか真面目に信じるのはちょっと危険なので、「これは超常現象の一種。だから証拠になるような決定的な影響は残らない」と思った方が、何かと安心でしょう。超常現象との健全な付き合い方のヒントがここにあるのではないでしょうか。



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『昭和・平成オカルト研究読本』(ASIOS) [読書(オカルト)]

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 オカルトは、昭和の時代をよく知る人たちから、そうした時代をあまり知らず、最近興味を持ち始めた人たちまで、幅広く親しまれるコンテンツともなっているのかもしれません。
 本書では、そうしたオカルトのなかでも、日本に関わるものを中心に集めるようにしました。平成になってもたびたび登場するオカルトの源流を探り、いくつものブームをピックアップし、決して忘れてはならない事件を振り返ります。さらに昭和と平成のオカルトを彩り、支えたテレビ番組、漫画、雑誌、出版社、オカルト研究会、そして人物。それらを次の時代へ記録しておく意味も込めて、取り上げるように努めました。
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単行本p.3


 おなじみASIOS(Association for Skeptical Investigation of Supernatural : 超常現象の懐疑的調査のための会)のオカルト謎解き本。その最新刊は、昭和と平成に起きた様々なオカルト事件やオカルト関連情報を総括する労作です。単行本(サイゾー)出版は2019年6月。


 日本のオカルト事情に絞っているとはいえ、100年という長期間に渡るオカルト史総まとめ本ですから、なかなかのボリュームです。これまでのASIOS単行本で最大の464ページ。執筆者も豪華、いやまじ。内容と目次については、ASIOSブログの記事でご確認ください。


  新刊『昭和・平成オカルト研究読本』が出ます(ASIOSブログ)
  http://www.asios.org/sh_occult


 全体的に恐ろしく手間のかかっている本なのですが、特にオカルト関連のテレビ番組、漫画、雑誌、出版社、関連団体、人物、などのデータをまとめた第5章の情報量と資料的価値には圧倒されます。日本オカルト100年史を後世に残すべし、という使命感をひしひしと感じさせるものがあり、読者からは見えない苦労も含めてどれだけの労力と手間をかけたのか、想像するだけで自然と頭が下がります。

 資料としての有用さだけでなく、読み物としての面白さも忘れてはいません。第1章から第3章までは世の中に幅広い影響を与えたものを中心とした日本オカルト事件史として楽しめ、第4章は様々な視点や立場からオカルトを論じており読みごたえがあります。決して「あの頃の昭和オカルトネタ懐かし」というノスタルジィに流されず、現在も続くオカルトの功罪について真剣に書かれています。

 研究者にとって資料を探すための便利なハンドブックとして、また興味はあるけど実は詳しいことはよく知らないという方のための本格入門書として、手元に置いておきたい一冊です。


 以降では、個人的にお気に入りの第4章の内容について、ざっと駆け足で紹介します。


『超能力捜査番組はなぜ続いたのか』
(本城達也)
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 こうした残念な結果に終わるにもかかわらず、超能力捜査番組は40年以上にもわたって続けられてきた。
 一体なぜだろうか? それは超能力捜査の実態が隠されているからだと考えられる。自称超能力者自身の宣伝や、テレビ番組の演出によって、実態とは違うイメージがつくられているのである。
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単行本p.214


 世間を騒がせている事件をFBI超能力捜査官が解決するという、ある程度以上の世代ならお馴染みのテレビ番組、そのトホホな実態を明らかにします。これまでのASIOS謎解き本に最も近いテイストの検証記事。


『白装束のキャラバン隊を組み、騒動を巻き起こしたパナウェーブ研究所』
(蒲田典弘)
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 スカラー電磁波の発生方法は、電磁波と電磁波を重ね合わせ、波の振幅をゼロにすることだという。(中略)エネルギー保存則が正しいとすれば別のエネルギーに変換されているのではないか…と考えてしまうのは、波の運動について学び始めた初学者が陥りやすい典型的な誤解である。
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単行本p.232


 スカラー電磁波による攻撃から教祖の身を守るため白装束で移動を続けたパナウェーブ研究所、その実態を探ります。新興宗教系オカルト事件となると、宗教団体が加害者、世間やマスコミは被害者、というイメージがありますが、本件は逆だということが分かります。オカルトにはまった人や団体との向き合い方について考えさせられる記事です。


『オカルトとニセ科学―霊感商法や陰謀論と関係するものも』
(蒲田典弘)
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 ニセ科学・オカルトの間ではこういった横のつながりも多く、ニセ科学の理論も相互に補強しあっている。ひとつのニセ科学を信じることで、ほかのニセ科学、さらにオカルト、霊感商法、陰謀論を信じるような道が出来上がっているのである。
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単行本p.244


 軽い気持ちでニセ科学やオカルトや陰謀論に近づくことの危険性について、具体的に教えてくれる記事。反社会的な団体相互のつながりが分かります。


『オカルトと民俗学―その困難な関係性』
(廣田龍平)
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 民俗学自体にとって問題なのは、川森博司氏が2009年の日本民俗学会談話会の発表要旨で指摘したように、「高度経済成長を経て、民俗事象のオカルト的受容という現象が顕著になっており、それにどう対処していくかが現在の民俗学の重要な課題である」はずなのに、ほとんど取り組まれていないことである。
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単行本p.254


 「民俗学」というと、いきなり幻想超古代史から妖怪までオカルト事象が連想されるのはなぜか。民俗学の名のもとに安易なオカルト解釈や根拠のない文化批評がまかり通っている現状についての問題意識にもとづく記事。


『幸福の科学の「霊言」はどこまで突っ走るのか』
(藤倉善郎)
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 著者自身、13年に大川総裁から守護霊を呼び出され霊言として発表されたが、霊言が収録されていた日も一日中、著者の体調等にはとくだん変化がなかった。健康には害がないようだ。
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単行本p.258


 イエス・キリストからブルース・リーまで、幸福の科学の総裁がおろす著名人の「霊言」を追った記事。霊言を言い訳にして存命中の他人を誹謗中傷するなどやり方が卑劣だと思いつつ、「ウンモ星人の霊言」という新機軸で宗教指導者として初めて日本トンデモ大賞を受賞、といった情報に思わず脱力したり。


『テレビ、喫茶店、世界の終わり。日本のコンタクティー・ムーブメントと想像力』
(秋月朗芳)
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 いま人間にコンタクトしてくる宇宙人は、喫茶店でレモンスカッシュを飲みながら地球滅亡を伝えたりしないだろう。このようにコンタクティーの想像力が、時代やメディアと絡み合いながらその表現を変化させているのを見るのも、なかなか趣深いものがあるのではないだろうか。また、この変化を知ることは、現在やこれからのコンタクティーのあり方をうらなうひとつの指針となるかもしれない。
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単行本p.271


 なぜUFOはちょっとさみしいのか、どうして宇宙人は犬に固執するのかなど、他人と共有しづらい問題意識を高く掲げて歩み続けるASIOSの裸眼立体視交差法こと秋月朗芳さんによる浪漫文学的コンタクティー論。なぜ日本人にコンタクトしてくる宇宙人はやたらと喫茶店に入るのか?



タグ:ASIOS
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『死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』(ドニー・アイカー、安原和見:翻訳) [読書(オカルト)]

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 そうして著者はついに、ロシアへと旅立ってゆく。ネットの情報(ノイズ)で汚染された泥の山をかきわけ、60年前に学生たちがみたままの純白の雪原を掘り起こすために。それは真冬のウラル山脈という到達不能な「未踏」を巡る過酷な探検であると同時に、ネット社会の「圏外」へと旅する、知の探検でもあったのだ。そして現代もなお検索不能な「未踏」は、暴風吹き荒れる白い雪原の向こう側に、確かに存在していたのである。
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単行本p.351


 1959年、ウラル山脈で起きた奇怪な遭難事故。通称「ディアトロフ峠事件」。経験豊富な登山パーティの若者たちが、全員、テントを内側から切り裂いて極寒の雪原に飛び出し、確実な凍死に向かってためらうことなく走り続けた。いったい彼らは何から逃げていたのか。そして遺体の異常としかいいようのない状態を、どう解釈すればいいのか。この謎にとりつかれた米国人ドキュメンタリー映像制作者が真相を追ってロシアに飛び、ついに現場に立つ。零下30度、極寒の冬山、そこで著者が見たものとは。
 単行本(河出書房新社)出版は2018年8月、Kindle版配信は2019年1月です。


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 その異様な死に様はこの事件が今なお未解決事件とされ、人々の興味を惹きつける最大の理由でもある。この事件のように、一次情報が少なく、しかもセンセーショナルな出来事の場合、報道や記事そのものが、都市伝説の温床となる。(中略)そこで著者は当時の記録を綿密に調べ上げて、事件担当者の変遷から調査方法、その発見の様子まであぶりだし、曖昧な情報を排除している。つまりこの記録を読めば、ディアトロフ峠事件における基本的な事実、少なくとも「公開されている事実」のほとんどは俯瞰できると言っていいだろう。
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単行本p.350


 ディアトロフ峠事件を真正面から扱ったノンフィクションです。1959年にウラル山脈に向かった若者たちの旅程、遭難現場を調査した捜索隊の体験、そして著者自ら現場に向かうまでの道のりが、さすがドキュメンタリー映像制作者が書いただけあって、まるで再現ドラマのように展開してゆき、最後まで読者を飽きさせません。翻訳も手堅く、というかまずタイトルが素晴らしい。直訳すれば「死の山」となるところを、一文字変えるだけで不穏さが段増しに。


 噂や憶測を取り除いた事実関係が詳細に記されていますが、最大の読み所は著者のほとんど狂気に駆り立てられたような旅。現場を自分の目で見る、そのためだけに貯金を使い果たしてロシアに飛び、極寒の冬山に命がけで立ち向かうのです。


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 2010年11月、初めてユーリ・クンツェヴィッチと電話で話してから三か月、ディアトロフの悲劇について知ってから九か月で、私は初めてロシアの土を踏むことになった。理想的なタイミングとは言えなかった。恋人のジュリアが妊娠七か月で、私たちは親になることの喜びと興奮を一から味わっているところだったのだ。しかし、子供が生まれたあとでは、この事件に割く時間はほとんどなくなるのもわかっていた。
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単行本p.57


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 気温は零下30度近い。膝まで積もる雪を踏みしだいて、ディアトロフ峠に向かう。この真冬のさなか、ロシア人の仲間たちとともに、8時間にわたってウラル山脈北部をトレッキングしてきた。目的地に到達したいのは山々なのだが、足を前に出すのがいよいよむずかしくなってくる。視界は悪く、地平線も見えない。空も地面も乳白色のベールに覆われているようだ。(中略)ブーツのなかで右足の指が凍ってくっつきあっている。早くも切断の悪夢が目の前にちらつきはじめる。
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単行本p.19


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 二度にわたってロシアに長期の旅行をし、2万4000キロ以上も踏破してきた。幼い息子とその母親のもとを離れ、貯金も残らず使い果たしたのは、すべてここへ来るためだった。そしていま、旅の最終目的地にあと1、2キロのところまで迫っている。その目的地こそホラチャフリ、この地に昔から住むマンシ族の言葉で「死の山」だった。ホラチャフリの東斜面で起こった1959年の悲劇はあまりに有名で、全滅したトレッキング隊のリーダーの名をとって、その一帯はいまでは公式にディアトロフ峠と呼ばれている。
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単行本p.20


 いわゆる謎解き本ではないのですが、最後の方でこれまでにいくつも提唱された説について検証してゆきます。


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 この事件の謎は煎じ詰めればこの一点だ――雪崩のせいでないとしたら、いったいなにがあって、九人は安全なテントを棄てる気になったのだろうか。
(中略)
 これまでのところ、私の戦略はただひたすら消去法だった。しばしば引用されるシャーロック・ホームズの原則――「不可能を消去していけば、どんなに突拍子もなく見えたとしても、あとに残った可能性が真実のはずだ」――に似ていないこともない。
(中略)
 不可能をすべて消去していったら、あとになにも残らなかったときはどうしたらいいのだろう。私の憶えているかぎりでは、シャーロック・ホームズはそれについてはなにも言っていなかったと思う。
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単行本p.265、277、286


 こうして既存の説をすべて「相応の確信を持って」否定した著者は、自らの体験を元に新しい仮説を立てることになります。それは読んでのお楽しみ。



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『日本昭和トンデモ児童書大全』(中柳豪文) [読書(オカルト)]

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 本書は、著者を含めた当時の子どもたちの頭から離れないほどのショッキングな内容を掲載した、昭和の“トンデモ”な児童書を紹介したものだ。恐らく今の世の中では、この手のコンテンツを子ども向けに出版するのは非常に難しいだろう。しかし、当時は、心霊、UFO、UMA、超能力、ノストラダムスの大予言などなど、ショッキングというか、オカルト的な内容が、テレビや本でバンバン紹介される全盛期であった。
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 戦慄の四次元ミステリー、世界の怪奇画報、円盤写真大図鑑、モンスター大図鑑、恐怖の予言大全科、ふしぎ人間エスパー入門……。子供の頃にドキドキしながら読んで、衝撃的なイラストに震え上がり、夜眠れなくなった、あの児童書の数々が、今蘇る! 正直、別に蘇らせなくてもいいのではないかとも思える「昭和トンデモ児童書」を実に90冊以上も紹介してくれる一冊。もちろん、あのイラストやこのイラストも掲載。ムック(辰巳出版)出版は2018年10月です。


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 あの頃の子どもたち(僕たち)は心が、想像力がまだまだ自由で、好奇心の塊だった。目の前の事象に具体的にどう対処するか(ハウツー)ではなく、一つの絵や話からイマジネーションを膨らませ、未知のものや未来について考えることに夢中だった。その姿勢に厳しくも優しく伴走してくれたのが、これらトンデモ児童書だったのだと思う。
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 というわけで、現代ではまず出せない煽情的でショッキングで奇天烈なオカルト系児童書がずらりと。一瞬「懐かしい」と思うわけですが、次の瞬間には「怖い」「やばい」「見なきゃ良かった」という、幼い頃の気持ちまでそのまま蘇ってくるのには驚かされました。

 こういう本をむさぼるように読んだ子どもがどうなるかというと、それから半世紀が過ぎても、いまだにUFO同人誌に関わって「地球空洞説の歴史」みたいな原稿を書いてたりするわけです。子どもを駄目にする有害図書だ、と非難されたら反論は難しいのではないでしょうか(エビデンスは私)。

 ちなみに平成最後のUFO同人誌『UFO手帖3.0』は、11月25日(日)開催の第二十七回文学フリマ東京 ク-38「Spファイル友の会」で購入できます。


[目次]

3大レーベル大特集

 ドラゴンブックス
  『恐怖と怪奇の世界 吸血鬼百科』
  『食糧危機を生きぬくための 飢餓食入門』
  『地球の危機を生きぬくための 生き残り術入門』
  『きみも悪魔博士になれる 悪魔全書』
  『なぞと怪奇の世界をさぐる ミイラ大百科』
  『20世紀最後のなぞに挑戦する 四次元ミステリー』
  『幽霊のAからZまでわかる 日本幽霊百科』

 ジュニアチャンピオンコース
  『なぞ驚異 世界のなぞ世界のふしぎ』
  『絵ときこわい話 怪奇ミステリー』
  『驚異の記録 あの事件を追え』
  『絵ときSF もしもの世界』
  『なぞ神秘 世界の秘宝をさぐれ』
  『ぼく滅作戦 人間の敵ショッキング情報』
  『なぞ驚異 七つの世界の七不思議』
  『なぞ怪奇 超科学ミステリー』
  『絵とき21世紀 大予言! 未来をさぐる』
  『きみならどうする? ゆうれい屋敷の探検』
  『推理クイズ あなたは名探偵』

 ジャガーバックス
  『日本妖怪図鑑』
  『世界妖怪図鑑』
  『魔術妖術大図鑑』
  『なぞの怪獣大図鑑』
  『これが科学捜査だ』
  『世界の超能力者』
  『地獄大図鑑』
  『怪奇! 日本ミステリー図鑑』
  『恐怖! スパイ大作戦』
  『決戦! 日本連合艦隊』
  『日本の特攻兵器』
  『ドイツ機甲軍団』
  『陸上航空海上 自衛隊図鑑』
  『第三次世界大戦 戦う自衛隊』

記憶に残る人気レーベル
 なぜなに学習図鑑シリーズ
  『なぜなに からだのふしぎ』
  『なぜなに びっくり理科てじな』
  『なぜなに びっくり動物』
  『なぜなに 世界の大怪獣』
  『なぜなに 世界のふしぎ』
  『なぜなに 大昔の人間』
  『なぜなに びっくり世界一』

ユニコンブックス
  『科学捜査 科学捜査なんでも百科』
  『ミイラ ミイラ・なぞをさぐる』
  『怪奇 実話! 62の怪奇スリラー』
  『スパイ スパイ術てってい解剖』
  『大恐竜 恐竜ものしり博物館』
  『人体 人体びっくり解剖』

世界怪奇シリーズ
  『世界の怪奇画報』
  『妖怪大図鑑』
  『円盤写真大図鑑』
  『世界の恐怖画報』
  『世界のスリラー画報』

ひばり書房 初期ハードカバー
  『怪奇城大図鑑』
  『UFOの恐怖 円盤大図鑑』
  『こわい怪談画報』
  『謎と恐怖の大図鑑』
  『きみもできる 不思議な術』

フタミのなんでも大博士
  『モンスター大図鑑』
  『世界の幽霊大図鑑』
  『日本の幽霊大図鑑』
  『世界の七不思議大図鑑』
  『ドラキュラ大図鑑』

大全科シリーズ
  『怪奇大全科』
  『恐怖の予言大全科』
  『妖怪大全科』
  『ショック残酷大全科』

衝撃!! トラウマ!? 名タイトル27選
  『UFOの秘密』
  『空飛ぶ円盤発見!!』
  『驚異! 謎の自然怪大特集』
  『ネッシーは生きている』
  『ふしぎ人間エスパー入門』
  『超科学のなぞ エスパー大行進』
  『怪奇』
  『大推理 古代史のなぞ』
  『推理大作戦 世界のなぞと怪奇』
  『続・世界の怪奇ミステリー』
  『恐怖、ミステリー』
  『図解 大地震がくる! 』
  『SOS地球人 滅びゆく地球より』
  『日本あやうし! きみたち日本人に警告する!!』
  『日本は沈没する』
  『大異変! 地球SOS』
  『地球の最期X年』
  『世界の妖怪図鑑』
  『世界のモンスター』
  『図鑑 怪談・奇談』
  『恐怖! 幽霊スリラー』
  『わたしは幽霊を見た』
  『ソロモン王の魔法術』
  『悪魔王国の秘密』
  『怪奇大魔法』
  『探検大作戦 世界の秘宝』
  『ショック! 写真構成 人体の怪奇大百科』

コラム
 1.親も安心の健全系!? 図書館の2大定番シリーズ
 2.マニアならではの鑑賞法!? 1絵柄の違いを密かに愉しむ
 3.マニアならではの鑑賞法!? 2微笑ましい絵にほっこりする
 4.昭和トンデモ系!? グッズコレクション1
 5.昭和トンデモ系!? グッズコレクション2
 6.こんなところにもトンデモが!? 少し古い時代の書籍や雑誌の付録



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『何かが後をついてくる』(伊藤龍平) [読書(オカルト)]

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 闇が失われつつある現在こそ、五官に作用する、原初的で不安定な妖怪について考える必要がある。闇への畏れと詩的想像力とを取り戻すこと。それは人間の本能を守ることだと、私は思う。
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単行本p.23


 「何かが空を飛んでいる」目撃体験がUFOの原点だとすると、「何かが後をついてくる」感覚体験こそが妖怪の原点。名づけられ、視覚的イメージ(妖怪画)が与えられる以前の、妖怪生成のもととなる感覚体験に焦点を当て、日本と台湾における妖怪のあり方を分析してゆく一冊。単行本(青弓社)出版は2018年8月です。


 ネットで発生する怪異譚をテーマにした『ネットロア』、台湾における怪談の流布をテーマとした『現代台湾鬼譚』の著者による、妖怪についての研究考察をまとめた最新作です。台湾の南台科技大学で伝承文学を専攻している教員ということで、日本の妖怪だけでなく、台湾における妖怪(および妖怪ブーム)も大きく取り上げられています。ちなみに旧作の紹介はこちら。


  2016年05月16日の日記
  『ネットロア ウェブ時代の「ハナシ」の伝承』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-05-16

  2014年02月06日の日記
  『現代台湾鬼譚 海を渡った「学校の怪談」』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-02-06


 今作では、名づけられる以前に存在したはずの感覚体験に焦点を当て、五官が生み出す「妖怪感覚」と口承文芸の関係を探ってゆきます。


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 私は、「妖怪」とは、身体感覚の違和感のメタファーだと思っている。その違和感が個人を超えて人々のなかで共有されたとき、「妖怪」として認知される。少なくとも、民間伝承の妖怪たちの多くは、そうして生まれたのだろう。

 夜道を歩いているときに背後に違和感を覚えたことがある人は多いだろうが、しかし、それは怪しいという感覚だけで――仮に「妖怪感覚」と呼んでおく――「妖怪」とはいえない。その感覚が広く共有されて、そこに「ビシャガツク」といった名前がつけられたとき、「妖怪感覚」は「妖怪」になる。重要なのは「共感」と「名づけ」である。(中略)こうした例から導き出されるのは、身体感覚に根ざした言葉から「妖怪」の生成過程と伝承動態を考えること、つまり、口承文芸研究の方面からのアプローチが重要だということである。
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単行本p.14、17


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 大事にしたいのは、名づけ以前の妖怪感覚である。中原中也の詩論を引用するなら「名辞以前」に、つまり「ビシャガツク」と名づけられる以前に、どのような感覚がそこにあったのか。背後に迫る何かが、妖怪なのか幽霊なのか、人なのか動物なのか、悪漢なのかただの通りすがりなのか、あるいは、単に気のせいなのか。それが認識されて解釈されるまでの刹那に、どのような心の動きがあったかが重要なのである。中原は「芸術というのは名辞以前の世界の作業」と述べているが、「妖怪」を生み出す源も、そうした詩的想像力である。「妖怪」は人々に共有されることによって生まれるが、体験そのものは個別的なものである。そのあとに「話す」「書く」という個人的行為があり、相手に伝えられ、共有されなければならない。広義の文学的営為といえるだろう。
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単行本p.21


 全体は序章を含む10章から構成されています。個人的には、第2章および第6章から第9章で取り上げられる台湾の妖怪と妖怪事情に感銘を受けました。


[目次]

序 妖怪の詩的想像力
第1章 花子さんの声、ザシキワラシの足音
第2章 文字なき郷の妖怪たち
第3章 「化物問答」の文字妖怪
第4章 口承妖怪ダンジュウロウ
第5章 狐は人を化かしたか
第6章 台湾の妖怪「モシナ」の話
第7章 東アジアの小鬼たち
第8章 「妖怪図鑑」談義
第9章 妖怪が生まれる島


『第1章 花子さんの声、ザシキワラシの足音』
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 視覚優位の時代の、すなわち文字言語の文化に属する人にとって、妖怪が「見える」というのは、各種テクストに表れたザシキワラシを構成する個々の要素を行動面も含めて統合し、頭のなかでモザイク状に組み合わせて一つのイメージを形作ることである。それはむろん、必ずしも文字を通してというわけではない。文字言語によって作られた精神では、思考のパラダイムがそうなっているのだ。聴覚や触覚に関するザシキワラシの行動さえも、視覚のバイアスを通して読み取られる。
 一方、聴覚優位の時代の、音声文化での「妖怪」は、五官を総動員して感知されるものだった。深夜に、横臥している身体に対して現れたザシキワラシは、主に、聴覚・触覚・視覚を中心にした全体として捉えられるのである。
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単行本p.46

 まず聴覚および触覚で感知される妖怪として「トイレの花子さん」と「ザシキワラシ」を取り上げ、視覚優位の時代における妖怪のイメージについて見直してゆきます。


『第2章 文字なき郷の妖怪たち』
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 実際、私が烏来で知り合ったキンキさん(中国名は謝金枝。2004年当時60代)という女性は文字を知らなかった。かろうじて自分の名が読み書きできる程度である。しかし、それでいて話し言葉としては、タイヤル語、日本語、台湾語、北京語の四つを自在に使いこなすのである。
 こうした事実をふまえなければ、「言葉が話せなくなる」状態の深刻さ、「(話し)言葉を奪う」妖怪の、真の怖さを知ることはできない。文字がない以上、話ができなくなることは、コミュニケーションの手段をすべて失うことを意味するのである。
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単行本p.56

 台湾北部の烏来郷における聞きとり調査を通じて、タイヤル族に伝わる「ウトゥフ」の位置付けと、無文字社会における妖怪のあり方を考えます。


『第3章 「化物問答」の文字妖怪』
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 まとめると、「化物問答」という昔話には文字が内包されていて、そこに登場する妖怪たちは、無文字文化と文字文化のあわいに生まれたといえる。まったく文字がない社会にも、文字が行き渡った社会にも、生まれえない妖怪たちであり、話型であった。
 そのように考えると、識字率が低い国や地域では、いまでもこの種の妖怪たちが跳梁しているのかもしれない。また、異文化折衝の際の言葉のすれ違いで、新たな妖怪が生まれているかもしれないのだ。
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単行本p.91

 実態と乖離し、暴走した言葉(文字)から生み出される妖怪たち。「化物問答」に登場する奇怪な妖怪たちを通じて、識字文化と妖怪の関係を探ります。


『第4章 口承妖怪ダンジュウロウ』
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「妖怪が話される場」とは、メタ的にいうならば「妖怪が生まれる場」でもある。その「場」は時代、地域や年齢、性別、階層などによって異なる。この点が今後の妖怪研究、ひいては口承文芸研究のうえで必要な視点になってくると思われる。
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単行本p.99

 他者に話されることによって発生する妖怪。妖怪ダンジュウロウを通じて、口承文芸としての妖怪のあり方を考えます。


『第5章 狐は人を化かしたか』
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 同じ現象(山中彷徨)を、同じ解釈装置(狐狸狢)で解釈すれば、話が似てくるのは当然である。「迷わし神」型の妖狐譚が異常に多いのは、話そのものの伝承のほかに、右に述べたような思考様式の伝承によって新たな話が生まれ続けていることが理由といえる。
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単行本p.125

 研究者にも手がつけられないほど報告例が多い「キツネ/タヌキに化かされた話」。不可解な体験に対する解釈装置としての狐狸狢の仕組みを分析してゆきます。


『第6章 台湾の妖怪「モシナ」の話』
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 いまの台湾は、妖怪革命の最中なのだろう。今後、モシナ像がどのように転換していくのか、それが台湾の人の精神世界にどのような影響を及ぼし、台湾の妖怪研究にどのような航跡を残していくのか、興味深いところである。
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単行本p.163

 台湾では大半の人が知っているが、日本ではあまり知られていない妖怪「モシナ(魔神仔)」と、台湾で現在進行中の妖怪革命についてレポートします。


『第7章 東アジアの小鬼たち』
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 妖怪に限らず、近代植民地政策による伝承の流入と流出、ならびに植民地統治終了後の当該地域の人々による伝承の扱い(異文化の流入を認めるか、それを排して「原」文化を復権させるか)は、デリケートな問題ながら注意を払う必要がある。ナショナルアイデンティティーの高まりのなかで、トケビは民族の象徴になりつつある。
 台湾のモシナと韓国のトケビを比較していて個人的にもっとも興味を引かれるのは、この点である。現代韓国のトケビにみられる民族主義的イデオロギーが、台湾のモシナにはない。
 今後、トケビが、朝鮮民族の象徴たりうる存在に成長するかは、まだわからない。さまざまな思惑を包み込みながら、いまはサブカルチャーのなかで、トケビは飛び回っている。
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単行本p.188

 台湾のモシナ、韓国のトケビを比較し、東アジア圏における妖怪のあり方を俯瞰します。そして、植民地支配による伝承の流入と解放後の対応という問題に踏み込んでゆきます。


『第8章 「妖怪図鑑」談義』
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 水木の死に前後して、相次いで興味深い妖怪図鑑が刊行された。一つは『琉球妖怪大図鑑』上・下、もう一つは台湾で刊行された『台湾妖怪図鑑』、ともに刊行は2015年である。台湾ではその後、妖怪図鑑の決定版というべき、『妖怪台湾』(2017年)も刊行された。
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単行本p.196

 台湾で発行された『台湾妖怪図鑑』『妖怪台湾』を通して、妖怪のビジュアル化とその意味について考えてゆきます。


『第9章 妖怪が生まれる島』
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 結局のところ、通俗的な「妖怪」という概念自体が日本的なものなのである。これは『台湾妖怪図鑑』や『琉球妖怪大図鑑』にもいえることだが、日本的な「妖怪」に近いものを、沖縄や台湾の文化のなかから選び出し、「妖怪」と見なしていく傾向がある。
 ここには微妙な問題が絡んでいる。通俗的「妖怪」が伝統を装い、地域アイデンティティーと関わるものであることは先に述べたが、それでは「台湾の伝統文化とは何か」ということが問題になる。これは、中国との差別化をはかる台湾人にとって重要なテーマである。
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単行本p.239

 台湾の「渓頭妖怪村」探訪記や、『台湾妖怪図鑑』『妖怪台湾』の内容紹介を通じて、台湾における妖怪文化について語ります。



タグ:台湾
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