『会いに来てくれた』(『季刊文科』94号掲載)(笙野頼子) [読書(小説・詩)]
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というのも、――自分の肉体が女である事とそれが不本意であるという事、その葛藤の中で、私にとっては、女性作家に押しつけられる、期待されるテーマ、文章、女ジェンダーはどうしても無理だったから。若い頃それは特に辛く、しかし肉体も現実も女である事を否定できなかった。
それもあってその後も私は小説がうまく行かず、そんな中、師匠は気がつくと長く、入院されていた。
でもその頃から私は彼に「会う」ようになった。自分から師匠を勝手に理想化して、ずっと彼について考えるというのではなく、自然と向こうから「会いに来てくれた」。
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『季刊文科』94号 p.116
シリーズ“笙野頼子を読む!”第142回。
「心に性別はないが、人は肉体に縛られる。言語はそこからだ。」
『季刊文科』94号 p.121
鳥影社刊『季刊文科』94号の小特集『藤枝静男 没後三十年』に寄稿された作品。タイトルは2020年に出版された長篇『会いに行って 静流藤娘紀行』と対になっています。
2020年06月19日の日記
『会いに行って 静流藤娘紀行』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2020-06-19
この長篇をベースに、その内容を振り返りつつ、さらに「その後」を書いてゆくのです。ここ数年ずっと書いてきた新自由主義やグローバリズムへの批判と、性自認至上主義への批判が、私小説という領土のなかでひとつにまとまってゆく。原点、出発点を振り返りつつ、次の展開への予感に満ちた、重要な作品だと思います。
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――そもそも私の落選作は、師匠の評伝、または作家論と呼ぶにはあまりに厚かましい。それは自分と師匠のあるやらないやら判らない関係性を、ひたすら追求して、心の中の師匠、その真の姿を発見する。それで自分だけが良い気分になってゆくという仕組みになっている。作品と彼を支えた土地、人々等を媒介にして、自分側からの心の宝として残してゆく文、自分からも師匠に会いにいく目的で書いている。書くよりもそうして会う方が大切というか。
その上でグローバル化が人類をことに女や子供を危機に追い込んでいく今、私小説の自己、領土について、これから今よりも一層重要になって行く師匠の私小説について考えるものだった。
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『季刊文科』94号 p.127
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まあそれでも自分が女に生まれたという困難に掛けて、私は書いていて、それで一点越えられるかもしれないと微かな希望はまだ、持っている。ただそれをやったらラディフェミ系と言われ、師匠の読者とはもう一切、縁の切れる世界になる(と予想している)。
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『季刊文科』94号 p.117
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そもそも私小説とはまさにジェンダーとセックス(性交という意味ではない、体の性別、医学的な男女の、身体・性別)が違うという前提で書かれるべきものだ。肉体を魂に従属させていては書きえないものだ。その一方でグローバル化は肉体や地面を数字に化けさせて、本来の個々の人間の、文化の生命を奪っていく。文学も海外に通じにくいだけで私小説は消される。通じにくいからこそ貴重なその領土性は軽んじられてしまう。翻訳しやすいものは海外に売って部数が増やせるからと、グローバル化は文学をも劣化させようとする。
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『季刊文科』94号 p.121
というのも、――自分の肉体が女である事とそれが不本意であるという事、その葛藤の中で、私にとっては、女性作家に押しつけられる、期待されるテーマ、文章、女ジェンダーはどうしても無理だったから。若い頃それは特に辛く、しかし肉体も現実も女である事を否定できなかった。
それもあってその後も私は小説がうまく行かず、そんな中、師匠は気がつくと長く、入院されていた。
でもその頃から私は彼に「会う」ようになった。自分から師匠を勝手に理想化して、ずっと彼について考えるというのではなく、自然と向こうから「会いに来てくれた」。
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『季刊文科』94号 p.116
シリーズ“笙野頼子を読む!”第142回。
「心に性別はないが、人は肉体に縛られる。言語はそこからだ。」
『季刊文科』94号 p.121
鳥影社刊『季刊文科』94号の小特集『藤枝静男 没後三十年』に寄稿された作品。タイトルは2020年に出版された長篇『会いに行って 静流藤娘紀行』と対になっています。
2020年06月19日の日記
『会いに行って 静流藤娘紀行』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2020-06-19
この長篇をベースに、その内容を振り返りつつ、さらに「その後」を書いてゆくのです。ここ数年ずっと書いてきた新自由主義やグローバリズムへの批判と、性自認至上主義への批判が、私小説という領土のなかでひとつにまとまってゆく。原点、出発点を振り返りつつ、次の展開への予感に満ちた、重要な作品だと思います。
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――そもそも私の落選作は、師匠の評伝、または作家論と呼ぶにはあまりに厚かましい。それは自分と師匠のあるやらないやら判らない関係性を、ひたすら追求して、心の中の師匠、その真の姿を発見する。それで自分だけが良い気分になってゆくという仕組みになっている。作品と彼を支えた土地、人々等を媒介にして、自分側からの心の宝として残してゆく文、自分からも師匠に会いにいく目的で書いている。書くよりもそうして会う方が大切というか。
その上でグローバル化が人類をことに女や子供を危機に追い込んでいく今、私小説の自己、領土について、これから今よりも一層重要になって行く師匠の私小説について考えるものだった。
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『季刊文科』94号 p.127
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まあそれでも自分が女に生まれたという困難に掛けて、私は書いていて、それで一点越えられるかもしれないと微かな希望はまだ、持っている。ただそれをやったらラディフェミ系と言われ、師匠の読者とはもう一切、縁の切れる世界になる(と予想している)。
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『季刊文科』94号 p.117
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そもそも私小説とはまさにジェンダーとセックス(性交という意味ではない、体の性別、医学的な男女の、身体・性別)が違うという前提で書かれるべきものだ。肉体を魂に従属させていては書きえないものだ。その一方でグローバル化は肉体や地面を数字に化けさせて、本来の個々の人間の、文化の生命を奪っていく。文学も海外に通じにくいだけで私小説は消される。通じにくいからこそ貴重なその領土性は軽んじられてしまう。翻訳しやすいものは海外に売って部数が増やせるからと、グローバル化は文学をも劣化させようとする。
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『季刊文科』94号 p.121
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