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『水車小屋のネネ』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

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 姉は水車が動くのを確認すると、今度は内部装置ではなくネネのいる部屋に研司を案内して、止まり木の上にいるネネに、仕事よ、と声をかけた。ネネは、そんなことは承知だとでも言いたげにきっと姉を見返したかと思うと、内部装置と自分の部屋の間の窓がはまった引き違い戸の傍らの台に飛び降りて、隣の部屋を覗き込む。
 出会った頃、おそらく十歳と説明されたネネは、推定で四十歳になっていた。自分は小学二年から中年になったし、ネネももうおじいさんなんだなあ、と仕事に従事するネネの厳しい横顔を見つめながら律は改めて思う。水車が回り、内部装置が動く音を聴きながら、去っていった人たちのことを想い、ネネや姉や自分も含めたこれから去るかもしれない人たちのことを考え、やってきた人たちの顔を思い出した。言葉にならない感慨が胸の底で起こった。
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単行本p.458


 親から逃げるために妹を連れて家を出た姉。そば屋で働きながら、そこに隣接する水車小屋に住むヨウムのネネの世話をする二人。見知らぬ土地でなんとか生きてゆこうとするまだ幼い姉妹を、周囲にいる大人たちの善意が支えてくれるのだった。四十年の歳月が流れるなか人々のそれぞれの人生と善意をえがく長篇小説。単行本(毎日新聞出版)出版は2023年3月です。

 著者がこれまで書いた最長の長篇とのことで、ざっくりいって四つの中篇から構成されています。それぞれの中篇のあいだに十年の歳月が流れ、登場人物たちもそれぞれに十歳成長してゆきます。全員をつなげるいわば中心にいるのがネネという一羽のヨウム(非常に賢いことで知られる鳥)です。

 わずか八歳の律という子供が、姉である理佐といっしょに家を出て、そして始めての土地でネネやその周囲の大人たちと出会うというところから物語は始まります。




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 引っ越してきて二か月ほどが経ち、自分は働いて律も小学校に行かせて、なんとかやってはいるけれども、「なんとか」の域は出ていない。いつ出るのかも定かではない。
 引っ越してきた時よりもますます緑が濃くなった山脈と渓流の景色を車窓越しに眺めながら、自分はどのぐらい「なんとか」でいられるのかな、と理佐はぼんやり考えた。
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単行本p.106




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 陽が落ちる直前の渓谷を眺めながら、律は地元の駅へと帰っていた。恵まれた人生だと思った。母親の婚約者に家から閉め出されて、夜の十時に公園で本を読んでいた子供が、大人になって自分の稼ぎで特急に乗って、輝く渓谷をぼんやり眺めている。自分を家から連れ出す決断をした姉には感謝してもしきれないし、周囲の人々も自分たちをちゃんと見守ってくれた。義兄も浪子さんも守さんも杉子さんも藤沢先生も榊原さんも、それぞれの局面で善意を持って接してくれた。
 自分はおそらく姉やあの人たちや、これまでに出会ったあらゆる人々の良心でできあがっている。
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単行本p.383




 自分がこれまで生きてこられたのは周囲の人々の善意や助けがあったからこそ。だから自分も些細なことでよいから他人を助けたい。本作はこの感情にあふれています。そのいわば善意のバトンを受け継ぐことで、他の人々もまた救われてゆくのです。




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 その時聡が感じたのは、他人の来し方を耳にすることの気詰まりさではなく、本当のことだけを話してくれるとわかっている人と接する時の不思議な気楽さだった。聡の周りが全員嘘つきばかりだったわけではないし、現に今は嘘をつく必要のない生き方をしている人のほうが多いのだが、聡はあまりにも、自分の弱さを正当化するためだとか、誰かに罪悪感を抱かせるために口を開く人々の言葉を真に受けながら生きてきた。その人たちの保身に、どこまでも翻弄されながら生きてきた。
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単行本p.273




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 研司はネネを見上げて笑う。ネネの頭と研司の肩が夕日に照らされている。
「自分が元から持っているものはたぶん何もなくて、そうやって出会った人が分けてくれたいい部分で自分はたぶん生きてるって。だから誰かの役に立ちたいって思うことは、はじめから何でも持ってる人が持っている自由からしたら制約に見えたりするのかもしれない。けれどもそのことは自分に道みたいなものを示してくれたし、幸せなことだと思います」
 律は長い間何も言えなかった。悲しいのでもうれしいのでもない感慨が、自分の喉を詰まらせていることだけが明らかだった。
 陽が落ちきる直前に、それはよかった、と律はやっと言った。本当によかった。
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単行本p.438




 この世には確かに酷薄さや理不尽がまかり通っていますが、でも善意や博愛精神だって強い力として存在しています。そうでなければ、私たちは誰もまっとうに生きてゆけないことでしょう。誰もが他人の善意によって生かされている、仕事や責任を通じてそれを実感し自尊感情を育ててゆく人々の物語です。ともすれば世の中をシニカルに見たがる若者にぜひ読んでほしいと思います。明るく、ひたむきで、感動的な小説です。





タグ:津村記久子
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