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『編集者ぶたぶた』(矢崎存美) [読書(小説・詩)]

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『ぬいぐるみの編集者が来たから夢だと思ったんでしょ?』
「は、はい……」
『ぬいぐるみの編集さんっているんだよ。前から噂に聞いてたの。すごく優秀で優しい編集さんなんだって。俺は会ったことないけど、友だちがこの間、パーティで話したって言ってた』
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文庫版p.138


 見た目は可愛いぶたのぬいぐるみ、中身は頼りになる中年男。そんな山崎ぶたぶた氏に出会った人々に、ほんの少しの勇気と幸福が訪れる。大好評「ぶたぶたシリーズ」は、そんなハートウォーミングな奇跡の物語。

 今回は、山崎ぶたぶたが出版社勤務の編集者として作家や漫画家を助けてくれる5つの物語を収録した短篇集です。文庫版(光文社)出版は2018年12月。

 ネタ出しから精神面のケア、転職相談まで、何でもサポートしてくれる有能な編集さん。しかも、打ち合わせや仕事の場でやたらと美味しい料理を食べさせてくれるのですから、もう誰かの願望全開。

 ぶたぶた二十周年ということで、いつもの「あとがき」に加えて、大矢博子さんによる『解説 ぶたぶた二十周年に寄せて』も収録されています。

 というわけで、ここに至っても「ぶたぶたがケラケラ笑っている。笑い声は聞こえるが、口は開いていない」(文庫版p.120)といった、長年の読者にとっても衝撃的な描写にまだまだ出会える「ぶたぶたシリーズ」、二十周年おめでとうございます。


[収録作品]

『書店まわりの日』
『グルメライター志願』
『長い夢』
『文壇カフェへようこそ』
『流されて』


『書店まわりの日』
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 ぽふぽふの手が、千草の握りしめて白くなった手に触れた。顔を上げると、ぶたぶたが小さな声でこう言った。
「大丈夫だから」
 それを聞いて、何が大丈夫なのか、と考えた。声をかけても大丈夫? それとも、昔の友だちみたいなこと言われても大丈夫? でもぶたぶたに千草の気持ちなんかわかるはずない。
 でも――彼が「大丈夫」と言うのなら……多分、何が起こっても大丈夫ということなんだろう。

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文庫版p.46


 初めての単行本出版ということで思い切って書店まわりをすることになった、人見知りが激しい漫画家。だが、過去の体験のせいで他人に声をかける勇気が出ない。そのとき、小さいけど頼りになる編集さんが、さり気なくサポートしてくれるのだった。


『グルメライター志願』
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「みんなおいしいから、全部食べたいんですよね~」
 と言いながら、本当に食べ尽くす勢いで食べていた。腹は……ぬいぐるみの腹は、膨れているのかいないのかよくわからない。あまり変わっていないように見える。
 なんなの、その腹は? ブラックホール!? しかもタピオカミルクティーまで飲んでるし。巨大なやつ。腹から染み出ないの!?
 絞ったらミルクティーが出てくるのだろうか……。つい怖いことを考えてしまう。

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文庫版p.77


 グルメ記事の取材に同行することになった、グルメライターに憧れる青年。台湾スイーツから始まって、カフェを何軒も回ってケーキやプリンを食べまくる。本職ライターさんが大食いなのはわかるとして、編集者が、ぬいぐるみなのに、食べること食べること。どこでもしこたま注文して、すべてきれいに食べてしまう三人。著者の地元感そして極楽感あふれるカフェ&スイーツ店めぐり。


『長い夢』
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 小説家であればすべてのジャンルに挑戦すべき――とまでは言わないが、書いてみることは決してマイナスにはならない。しかし恋愛ものはどうも書き出しから「なんか違う」と感じることが多く、キャラクターも自然に動かない。きっと今は書く時期ではないのだろう、と考えている。きっとその時期を待ちわびたまま、死んでいく物書きも多いのだろうな、と思うが、それは物書きの夢の一つなんだろう。「いつか書きたいものがある」と死ぬまで夢見るのは、ある意味幸せだ。

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文庫版p.113


 「驚かせてはいけませんので書いておきますが、私はぬいぐるみです」(文庫版p.102)
 自分のことを「ぬいぐるみ」という編集者って、どうよ。実際に会ってみると編集者は本当にぬいぐるみだった。これはあれだな、夢だな、夢。だったらこの際……。というわけで、誰にも話せずにいた「書きたい話」の相談を始める作家。さすがに夢の中だけあって、編集者が有能なこと有能なこと。会話しているだけで、するするとプロットが出来上がってゆくのだった。夢だけど(すべての作家にとって)、夢じゃなかった。


『文壇カフェへようこそ』
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「何かあっても、作品があればなんとかなりますよって言いました。いいものをどんどん書き溜めておきなさい、いつでも読んでもらえるようにしときなさい、と言いました。作家さんにとっては、書き上げた作品が一番の頼みの綱なんです。ぶっちゃけ他になんにもなくても、それがいいものであるなら、それで充分なんです。どこに行っても通用しますからね」

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文庫版p.186


 ひどいパワハラに苦しむ編集者が、ふらふらと立ち寄ったカフェ。食べ物が美味しいその店で、彼女は自分が探していたものと出会う。似たような境遇にある作家と編集者がつながる小さな奇跡の物語。


『流されて』
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「『流されるのがダメなんじゃなくて、その流れを信頼できるかどうかが大切』なんですって」
 その言葉を聞いて、かほりはすぐにぶたぶたの顔を思い浮かべた。今の流れは、彼が作っているようなものだったからだ。
 そして、彼なら信頼できる、と即座に思った。

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文庫版p.230


 偶然に出会った編集者から、モデルにならないかと打診された語り手。いやそんな、と腰が引けた彼女だが、その後もさり気なく勧誘される。今まで流されてばかりで生きてきた女性が、相手を信じて新しい道に踏み出すまでの物語。

 『文壇カフェへようこそ』もそうでしたが、性差別的な扱いを受けて傷つき苦しむ女性の話は、世相を思い出して、つらいものがあります。彼女たちは山崎ぶたぶたとの出会いによって救われるのですが、現実にはぶたぶたはいないので……。いや、そうでもないか。


『解説 ぶたぶた二十周年に寄せて』(大矢博子)より
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 この世界には、ぶたぶたさんはいない。でも「ぶたぶたシリーズ」がある。
 悩んでいるあなたが、辛い状況にいるあなたが、「ぶたぶたシリーズ」を読むことで少しでも癒され、そして少しでも前を向く気分になれたなら。この物語は、ぶたぶたさんそのものなのである。
 そして――実はこれが大切なのだが――あなた自身も、誰かにとってのぶたぶたさんになれるかもしれない。いや、気づかないうちに、もうなっているかもしれない。あなたにその自覚はなくても、あなたの真摯な言葉が、あなたの丁寧な暮らしが、あなたにとっては当たり前の心遣いが、誰かを変えているかもしれない。そんな「隠れたぶたぶたさん」が、この世にはたくさんいるのかもしれない。
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文庫版p.246



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