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『とりとめなく庭が』(三角みづ紀) [読書(随筆)]

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 帰るって、場所ではなく状況なのだろう。とじつつあり、目前の言葉と出会いながら、新しさに怯えながら。でも、ずっと眠っていたいところを知ってしまったのだ。比喩ではない。
 変わることをおそれていた。知らないことはおろかで幼く美しい。知ることを知らないまま生きてきて、これからわたしはますますまぶたをひらいたりとじたりする。
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『あとがき』より


 旅、生活、思い出。生きてゆく日々を詩の言葉でつづった美しいエッセイ集。単行本(ナナロク社)出版は2017年9月です。

 まず印象に残るのは、旅の体験を扱ったエッセイ。軽い旅行記という感じではなく、詩人による言葉の旅です。


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 おととしの三月末にスロヴェニアを訪れた。旧ユーゴスラビアである。小さな飛行機が軋みながら雪の舞う夜の空港に着陸した。スロヴェニアも最近は異常気象で三月末に雪が降り続けることはめずらしいと、ほとんど毎日通ったパン屋のおばちゃんに教えてもらった。わたしは生まれてはじめて、しんしんという音を聞いたような気がした。しんしんと降り続ける雪に閉じ込められて、まるで学校の図書館で読みふけった童話の世界。まいったなあ、という気持ち。大人になっても知らないことはまだまだたくさんある。雪のなかの静けさと美しさ。
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『からだが記憶する雪』より


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 ザグレブ駅に到着する三十分ほど前に、越境のための入出国審査がおこなわれた。パスポートをとりだしてスタンプを押してもらう。飛行機のマークではなく、列車のマークが愛らしいスタンプを確認したわたしは、おもわずみちみちした。満ち足りている。自身の気持ちが満ち足りていて、それでいて、風景も感情もまわりのひとたちもたっぷりとあたたかいといったオノマトペがみちみちする。きゃらきゃらするが傍観だったら、みちみちするは主観なのだ。わたしの目線で、わたし自身が満たされて、且つ、たっぷりあたたかく、すべてが充足している。
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『温度を持つ言葉たち』より


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 次にくる列車に乗れば十五分ほどでマリボルへ着くというたやすさに安心して、駅のカフェでコーヒーを飲む。落書きされた赤い列車に乗り、移ろう景色を眺めようとしたら、切符を確認にきた車掌さんが「きみは反対の方向にすすんでいる。これはリュブリャナ行きだから次の駅で乗り換えて」とゆっくりとした英語で言った。
 隣の、よりいっそうちいさな、カフェも売店もないビストリツァ駅で途方に暮れていたら、雨が降りはじめた。駅員さんがやってくる。わたしはミスをしたのだと切符をさしだすと「きみのコンパスは狂っているね」と優しく笑った。それから、この切符は正しくないが正しいからこのまま乗ってよいと促す。
 ひとつしかないホーム。ふたつしかない線路のすぐわきで、老夫婦が畑を耕し、鳥がけたたましく鳴いている。雨は強さを増していく。
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『ビストリツァ駅』より


 まるでその場に連れてゆかれるよう。

 そして忘れがたいのは、過去の思い出を語ったエッセイ。子どもの頃に体験したこと、そして闘病のこと。


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あの夕方、なぜそのようなことをしたのかわからないけれど、生きていること自体が罪だと、ありありと察したのだ。演じて生きること、自分をごまかすこと。私は罪だ。幼くても理解した。白い猫のお葬式をおこなってから、あまり泣かなくなった。わざと泣くなんてばかばかしい。
(中略)
 魂を売らずに泣くことができる子供たちも大人たちも、わたしにとって畏怖を感じる存在だ。ほんのすこしうらやましい。ほんのすこしだけ。
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『わざと泣く』より


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 何度も引っ越しをしてきたが、必ず手元に残るものがあって、それらの多くは十数年前の奄美大島での闘病生活で使っていたものたちだ。例えば、海岸で拾った緑のガラス。波で研磨されて器のようになった瓶の底は、とりわけ目をひくものではないのだけれど、どうしても捨てられない。発病をきっかけにほとんどのものを手放して、もう一度産まれたような心地だったあの頃、なんということもない緑のガラスは大切な持ちもののひとつで、起床したらそこへ一日分の薬をいれていた。飲み忘れたら死んでしまうのではないかと怯えていた日々。
 きれいに洗ってから再び机の上に置く。今度は薬ではなく、外出する際に身につける腕時計を置く器になった。ひたすら詩を書き続けていた奄美での孤独な生活は、苛烈だったけれど必要だったのだろう。
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『緑のガラス』より


 全体を通じたテーマともいえそうなのは、知人とのつながり、他者への想像力。人間関係の基礎になる、しかしときとして軽視されがちな、他者との関係を、まっすぐに書いてゆきます。


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 わたしたちは誰ひとりとして人並みじゃないのだろう。三十五歳になったわたしは、まもなく三十六歳になる。感じ入ることも異なってくる。はじめて聴いたあの日、わたしは切実に共感したのだ。みんなは人並みに生きている。だから、わたしも人並みに生きたい。
 この部屋のカーテンは厚く、薄い緑と青が混じったように美しく澱んでいて、百合の花の模様をしている。その影が濃いから、外が快晴であることがわかる。影が白い壁のぎこちなさをあらわにしている。
 ありきたりな人間で、どこにでもいるようなわたしは人並みじゃない。いま机につっぷして想っている相手も、きっと人並みじゃない。郵便物を届けてくれる配達人も、スーパーマーケットの店員さんも人並みではなくて、みんな必死に生きている。うまく行きますように、と乞いながら。
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『全てが人並みに』より


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 わたしたちはお互いの目標を語り合った。わたしは詩人になること、亜希子は役者になること。わたしたちの目標はただの夢ではなくて、いつか実現すると信じていた。
 合格発表の日、ふたりそろって落胆して、そのまま江ノ島へ向かったことを忘れない。ふたり並んで浜辺に座りこみ、海を眺めていた。
 大学受験に失敗したからには冬の海が必要だった。根拠も何もないが、そのときは確かに必要だったのだ。そのまま逃亡しなければならないくらいの心境で海を眺め続け、世界が終わっても仕方がないとさえ感じた。あとから考えたら、志望していた大学の入学試験が不合格だったからといって死ぬわけではないし、他の道だってたくさんある。
 けれど、当時のわたしたちにはそれくらい深刻だったのだ。亜希子のお母さんから、
「帰っておいで」
 と電話がかかってくるまで、わたしたちはずっとそこにいた。すっかり日は暮れていた。
 わたしたちは別々の大学へ通い、それなりに充実し、すこしずつ連絡も途絶えていった。でも、それはお互いが自分のことに熱中しているから。そういうことまでわかりあえていた。
 気まぐれに、夏がきたらかき氷食べに行こうね、今度こそ花火大会に参加するね、などとメールをするも、なかなか実現しない。それでも、ふたりとも気にしない。親友なのだから。
(中略)
 今、彼女は文学座の座員になり活躍している。わたしはいくつか賞をいただいたが、報告しても驚かないのは亜希子くらい。わたしたちの目標はただの夢ではないから、それぞれが自分の道を進むのは当然なのかもしれない。
 第一詩集の扉に用いた写真に、海を眺める亜希子の後ろ姿がある。それを見るたびに、予備校に通っていた眩い一年間と江ノ島の風景を思い出す。
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『ふたり並んで』より


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多分、きっと、またすぐに会う。会うということを考えたとき、ひとびとは会うことができる。
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『会いたいと思えば』より


 どのエッセイを読んでも、言葉の強靱さ、美しさが際立っており、どうしても詩として読んでしまいます。何を書いても詩になる言葉を、ひとつひとつ味わうことが出来る、素晴らしいエッセイ集です。


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