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『薫香のカナピウム』(上田早夕里) [読書(SF)]

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 生き物が自らの意思によって命を燃やすとき、そこには、とても強い香りが生まれる。命の匂い。死の匂い。それが、この森を満たしている薫香の本質だ。林床から林冠まで----あらゆる動植物の生と死の匂いが重なり合い、混じり合い、拡散し、鮮やかな香路となって私たちを導いてくれる。生きて、死んで、土へ還る。たったそれだけの循環に、どれほど豊かな意味と価値があることか。森は言葉ではなく、匂いによってそれを教えてくれる。
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Kindle版No.3467

 熱帯雨林で樹上生活を送る人々。自然と調和して豊かに生きているように見える彼らだったが、しかしその存在は決して「自然」なものではなかった。人間としての自由と幸福をめぐって多様な価値観が衝突するなか、一人の少女が自らの未来を選択する。「オーシャンクロニクル」シリーズの著者が、林冠生態系で生きる人々の姿を描いた長篇SF。単行本(文藝春秋)出版は2015年2月、Kindle版配信は2015年2月です。


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我々は、もう何百年も、軌道上の施設と月面基地からの管理を続けている。地球赤道直下の熱帯雨林----君たちが暮らす地上四十メートルの樹上は、〈カナピウム〉と名付けられて、特に重要な管理領域となっている
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Kindle版No.2584


 カナピウム。ボルネオ島近辺の島に広がっている熱帯雨林の林冠生態系。そこで生活している人々が主役となります。枝から枝へと高速に移動し、嗅覚による空間把握に長けた一族。生き物が残す臭跡を、彼らは森の中を縦横無尽に流れる「香路」として把握するのです。

 愛琉(アイル)という名の少女の視点から、あるいは嗅点から、その生活が語られます。嗅覚や触覚を中心とする描写は瑞々しく、官能的。


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 むせかえるような緑と果実の匂いや、昆虫から滲み出る酸っぱい匂いが鼻をついた。ほんのりと甘い匂いを放っているのはオウムたちだ。哺乳類の汗臭さも漂ってくる。巨木の樹液と樹脂の匂いは、苔の匂いと重なり合って、より深く豊かな香りを放っていた。
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Kindle版No.3658

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濃い霧のように森全体を浸す芳香と、その中を道筋のように漂う香路は、決して人間の手では作り出せない。無数の生物が集合しているという、その事実だけが生み出す不思議な香りに満ちた世界なのだ。あれなしでは、森に住んでいる気がしない。必要なのは匂いだ。目に映る光景ではない。
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Kindle版No.2975

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生き物を産み、生き物を殺し、何千年もここにある熱帯雨林----。自分も、その生命の坩堝の中で暮らす小さな存在だ。あの鳥と同じくこの森しか知らず、ここで生き、いずれは他の生き物と同様に、骸となって林床に横たわるしかない。しかし、それは、穏やかな安らぎと喜びに満ちた日々でもある。
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Kindle版No.18


 まるで楽園のようにも感じられる森。しかし、もちろん彼らも「原罪」を背負っているのでした。

 愛琉は、自分の一族が、いや森に住む人間すべてが〈巨人たち〉と呼ばれる存在によって人為的に創られたということを知ってゆきます。自分たちは決して森の生態系から生まれた生物ではなく、何らかの目的でそこに組み込まれ、しかも常に〈巨人たち〉からの監視と介入を受けている、そうでなければ生存できない、繁殖すら出来ないのだ、と。


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 私たちは、本当は、この森に存在してはいけない生物なのだろうか。何か理由があって、ここに無理やり寄生しているだけなのか。相利共生が基本となる熱帯雨林の中で、私たちだけが異質な存在なのだとすれば、過去に何があって、そうなったのか。
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Kindle版No.1005

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 昨日まで当たり前だったことが、どんどん崩れていく。見慣れたはずの光景が、歪に姿を変えていく。
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Kindle版No.2031

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誰に何を訊ねても謎は深まるばかりだ。この世界は絡み合った蔓草のようで、どこを引っ張ればほぐれるのか、まったく見当がつかない。
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Kindle版No.992


 自分の意思や感情さえも、生態系に適応させるためにあらかじめ設計されているのではないか、という恐るべき疑念。愛琉の自己認識は激しくゆさぶられます。自分の心すら自分のものではないとしたら、何を信じればいいのでしょうか。


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誰かに仕組まれた結果だとは思わない。自分の意思で選び取った行動だと考える。心にそういう機能が組み込まれている。これは誰にも消せないんだ
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Kindle版No.2359

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私たちの本物の心はどこに。〈巨人たち〉に操作されない本心は、どこかに確かにあるのだろうか。
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Kindle版No.2914

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 私たちは作られた存在。徹底的に管理される構造体。
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Kindle版No.2952


 明らかになった事実を前に、多様な人々の価値観が衝突します。〈巨人たち〉の監視と介入を受け入れ、これまで通り自分たちの文化と生活を守りたい人。完全な自由を求めて戦う人。安全と生存のためさらなる介入や調整をも受け入れるべきだと考える人。

 また一方で、〈巨人たち〉も一枚岩ではなく、やはり様々な意見がぶつかっていることが分かってきます。


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〈巨人〉は本当に私たちの味方なのか。最も正しいのは、パトリか、光風か、フェルンか、クロエか。あるいは誰もが間違っているのだろうか。もしくは、全員が少しずつ正しいという可能性は?
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Kindle版No.1804


 どの価値観が正しい、誰それの意見は間違っている、といった結論へ誘導する話ではありません。むしろ価値観の衝突にこそ人間とその社会の本質がある、と感じられる物語です。

 いずれにせよ、愛琉は自らの未来を選ばなければなりません。何を犠牲にし、何を守るのか。愛琉の選択がどんな結果に終わるのかは誰にも分かりませんが、しかし、彼女はその運命を受け入れる勇気を持っていました。


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 何も知らなかった頃には戻れないが、だからといって、この森自体が大きく変わったわけじゃない。私たちは自分の手が届く範囲で生きて、動いて、死んでいくしかないのだから。
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Kindle版No.3166

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 さようなら、純粋で美しい生き物たち。
 私たちは血と泥にまみれる道と引き替えに、人間としての自由を摑むわ。
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Kindle版No.3752


 というわけで、海洋世界から熱帯雨林へと舞台は変わっても、やはり価値観の衝突を通して人間とは何かを問い続ける著者の作品。『SFが読みたい! 2015年版』で、「オーシャンクロニクル」シリーズについて書かれた文章は、本作にもそのまま適用できると思います。


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これはそういう世界での物語です。そんな世界でも生きる値打ちはあるのかと、登場人物たちが繰り返し問い続けている物語です。
無数の価値観が重なり、闘争や慈愛や絶望や希望が錯綜する混沌とした世界を、醜いと思うか美しいと思うかは読み手の感性に委ねられてしまうのですが、著者である私は、これを善悪や美醜の基準とは関係なく「小説として書く価値がある」と考えています。
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『SFが読みたい! 2015年版』より(単行本p.21)


タグ:上田早夕里
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