『戦後SF事件史 日本的想像力の70年』(長山靖生) [読書(SF)]
幕末からスタートして、第一世代SF作家たちが活躍した1970年代までの日本SFの歴史を概説した『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』の続編。幻想文学、ニューアカ、オカルト、コミック、アングラ演劇、前衛芸術など、隣接する分野との相互交流にも目配りしながら、終戦から今日までの日本SF史を読み解いてゆく。単行本(河出書房新社)出版は2012年2月です。
戦後の日本において、私たちの「SF的想像力」はどのように発展してきたのか。その欠如はいかなる事態を招くのか。
「SF的想像力は、敗戦も災後もリアルに描き出していた。リアルを欠いていたのはわれわれの日常のほうだった」(単行本p.10)
「想像力の欠如は犯罪である----未来を担保することで現在を豊かに消費しているわれわれは、そういう世界に生きている」(単行本p.271)
なぜ無謀な戦争を始めたのか、なぜ原発事故が起きてしまったのか、という本は山ほど出ていますが、さすがに「SF魂が不足していたから」と断言してくれるのは本書だけでしょう。
というわけで、終戦から今日に至る日本SFの歩みを、当事者の立場から解説してくれる一冊。話題になった『戦後SF事件史 日本的想像力の70年』の続編あるいは姉妹編ということになります。
SFを軸に、文学、幻想小説、前衛芸術、アングラ演劇、異端サブカル、コミック、アニメ、ニューアカ、オカルト、などなど様々な隣接ジャンルの動きとからめて解説してくれるのが嬉しいところ。思わぬ人物が橋渡しをしていたり、知らなかったことが次々に出てきます。
個人的には、「地球ロマン」、「オカルト時代」、「ムー」といったオカルト雑誌、あるいは「ぱふ」、「OUT」といった漫画やアニパロの雑誌が創刊された頃の話が興味深く読めました。脱芸術やアングラ演劇が盛んだった頃の話も面白い。80年代にいわゆるニューアカとサイバーパンクとオカルトがどう結びついていたか、みたいな話も、ふむふむ。
書かれているエピソードの数々も知らないことが多く。例えば、1970年に開催されたSF国際シンポジウムで来日したブライアン・W・オールディスが、豊田有恒に『リトル・ボーイ再び』(日本にもう一回原爆を落とすという娯楽イベントの顛末を書いた短篇)のことでかみつかれ、お詫びとして「服を着たまま琵琶湖に飛び込んでしまった」(単行本p.137)とか。へえぇ。
後半、80年代くらいになると、著者自身が一人称で当事者として語ることが多くなってきます。
ちなみに私は著者と同じ1962年に生まれています。1962年といえば、第一回日本SF大会が開催された年。翌年には日本SF作家クラブが発足。つまり、生まれたときから周囲はSFまみれ、SFにどっぷりつかるのをごく普通のことと認識して育ったあの世代です。
「SF界は、体育会系よりもずっと熱血青春だ」(単行本p.119)
という70年代SFファンダムの熱気も何となく覚えているし、80年代「浸透と拡散」の時代に至ってはまさに当事者。話題にあげられている事件や動向のいくつかについては、まさに現場にいたり、リアルタイムに見聞きしたり、青臭い議論をした思い出なんかも、つらつらと。懐かしい、というより、いきなり古傷に触られたような痛みと恥辱に震えた、といえば大袈裟でしょうか。
というわけで、前作と合わせて通読することで幕末から今日に至る日本SFの歴史が把握できてしまうという好著。オカルト、幻想文学、異端サブカルなど隣接するジャンルに興味の中心がある方も、SF側から見た相互交流や影響について書かれていますので、一読してみるとよいかも知れません。
戦後の日本において、私たちの「SF的想像力」はどのように発展してきたのか。その欠如はいかなる事態を招くのか。
「SF的想像力は、敗戦も災後もリアルに描き出していた。リアルを欠いていたのはわれわれの日常のほうだった」(単行本p.10)
「想像力の欠如は犯罪である----未来を担保することで現在を豊かに消費しているわれわれは、そういう世界に生きている」(単行本p.271)
なぜ無謀な戦争を始めたのか、なぜ原発事故が起きてしまったのか、という本は山ほど出ていますが、さすがに「SF魂が不足していたから」と断言してくれるのは本書だけでしょう。
というわけで、終戦から今日に至る日本SFの歩みを、当事者の立場から解説してくれる一冊。話題になった『戦後SF事件史 日本的想像力の70年』の続編あるいは姉妹編ということになります。
SFを軸に、文学、幻想小説、前衛芸術、アングラ演劇、異端サブカル、コミック、アニメ、ニューアカ、オカルト、などなど様々な隣接ジャンルの動きとからめて解説してくれるのが嬉しいところ。思わぬ人物が橋渡しをしていたり、知らなかったことが次々に出てきます。
個人的には、「地球ロマン」、「オカルト時代」、「ムー」といったオカルト雑誌、あるいは「ぱふ」、「OUT」といった漫画やアニパロの雑誌が創刊された頃の話が興味深く読めました。脱芸術やアングラ演劇が盛んだった頃の話も面白い。80年代にいわゆるニューアカとサイバーパンクとオカルトがどう結びついていたか、みたいな話も、ふむふむ。
書かれているエピソードの数々も知らないことが多く。例えば、1970年に開催されたSF国際シンポジウムで来日したブライアン・W・オールディスが、豊田有恒に『リトル・ボーイ再び』(日本にもう一回原爆を落とすという娯楽イベントの顛末を書いた短篇)のことでかみつかれ、お詫びとして「服を着たまま琵琶湖に飛び込んでしまった」(単行本p.137)とか。へえぇ。
後半、80年代くらいになると、著者自身が一人称で当事者として語ることが多くなってきます。
ちなみに私は著者と同じ1962年に生まれています。1962年といえば、第一回日本SF大会が開催された年。翌年には日本SF作家クラブが発足。つまり、生まれたときから周囲はSFまみれ、SFにどっぷりつかるのをごく普通のことと認識して育ったあの世代です。
「SF界は、体育会系よりもずっと熱血青春だ」(単行本p.119)
という70年代SFファンダムの熱気も何となく覚えているし、80年代「浸透と拡散」の時代に至ってはまさに当事者。話題にあげられている事件や動向のいくつかについては、まさに現場にいたり、リアルタイムに見聞きしたり、青臭い議論をした思い出なんかも、つらつらと。懐かしい、というより、いきなり古傷に触られたような痛みと恥辱に震えた、といえば大袈裟でしょうか。
というわけで、前作と合わせて通読することで幕末から今日に至る日本SFの歴史が把握できてしまうという好著。オカルト、幻想文学、異端サブカルなど隣接するジャンルに興味の中心がある方も、SF側から見た相互交流や影響について書かれていますので、一読してみるとよいかも知れません。
タグ:その他(SF)
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