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『海底八幡宮』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

シリーズ“笙野頼子を読む!”第48回。

 ようやく笙野頼子さんの最新刊を読みました。『金毘羅』、『萌神分魂譜』に連なり、ついに神と神との対話が書かれる『海底八幡宮』です。

 まず青白い表紙の神秘的な美しさに目を奪われます。波間を漂う無数の魂のようにも見え、(上下逆さまにすると)深海に降り注ぐマリンスノーのようでもある“何か”にタイトルがかぶさってくる構図。本文を読んだ後で見直すと、これがまさに「龍にもウミウシにも見える」、「極彩色で模様に満ちた」海底八幡宮の姿を描いたものであることが分かります。

 内容ですが、国家権力によって簒奪され海底に追いやられた神(亜知海)と、海底から陸に上がってきて人の姿になった神(金毘羅)、この両者の交感から始まって、様々な視点から「権力とは何か」ということが語られるというもの。

 原始八幡信仰の共同体がどのようにして権力によって服従させられ侮辱され歴史を捏造されたのかを亜知海が語れば、いかにして文壇や論壇に巣くう者たちが老猫とのかけがえのない大切な時間を奪ってゆくのかを金毘羅が語る。

 千五百年に渡る歴史と、私的な苦しみや闘争が共鳴して、古代と現代が結ばれてゆく。徴税と徴兵のために作られたシステムが、今なお個人の内面を圧殺し文学をなかったことにし続けている、そういう私たちの社会の構造があらわになる。

 ヤマト朝廷が、律令制国家が、そして明治政府が、権力がやってきたことは何も変わってないこと、そしてそれは今日においても本質的に同じであることが、二人の対話を通じて明らかにされるのです。

 大きな歴史の流れと、小さくともこの上なく切実でかけがえのない「私」。無数の死者の魂が織りなす巨大な存在と、老猫をいたわりながら文筆で闘う日々の生活。二つの視線が交わることで、そこにステレオグラム(立体視図形)のように権力というものの本質が浮き上がってくる様には圧倒されます。

 様々な要素が錯綜していて読み解くのに根気がいる『だいにっほん三部作』や、語られる内容そのものが難解な(と私には思える)『萌神分魂譜』に比べると、本書は比較的ストレートで分かりやすい作品だと思います。

 だって、社会と関わりを持てば、誰だって理不尽な目にあうでしょう。

 そこに至るまでの来歴とか、一人一人にはそれぞれ抱えている事情というものがあってそれは交換したり取引したり出来ないものであること、複雑で入り組んでいるものを簡略化して差異を無視して一つのキーワードでまとめてしまうと肝要が失われること、そういった重要なことをてんで無視して、なかったことにして、押しつぶして、単一のモノサシで単純に割り切った「分かりやすい」やり方や考え方を、合理的、効率的、正しいこと、当然でしょう常識的に考えて、などと強要され、文句を言うと、わがまま、空気が読めない、気が狂っている、モンスターなんたら、ということにされ、しまいには被害者側の「横暴」に対して加害者側が「毅然と立ち向かう」という構図にされてしまう。

 家庭で、学校で、職場で、役所で、町内会で、地域社会で。どこでもこういう理不尽はまかり通っているし、思い当たる体験をしたことがない人はまずいないはず。

 『海底八幡宮』は、このような理不尽について書かれた本です。誰もが当事者たる問題について、その構造を明らかにしてくれるのです。難しい内容ではありません。何かの迂遠な比喩ではなく、本当に、自分が所有しているもの(特に時間)をオカルトまがいの変な理屈で徴税され、自分の身体を(分割で)徴兵されているという実感、それを与えてくれる一冊。

 笙野頼子さんの作品を「難解」というイメージで避けている方にも、『おはよう、水晶-おやすみ、水晶』といっしょにお勧めしたい作品です。読めば分かるし、面白いし、感動するはず。生きてゆくために大切な(でも、わざと見えにくくされている)知識や洞察も得られる。読んだ方がいいというより、読まずに生きるのは危険だよ、と言いたい。

 なお続編『人の道 御三神 -人の道御三神といろはにブロガーズ』の刊行は来年になるそうで、既に本作においても原始八幡三女神についての伏線が張られているし、女神もこっそり登場してたりして、ものすごく期待が高まります。


タグ:笙野頼子
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