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『田紳有楽/空気頭』(藤枝静男) [読書(小説・詩)]

 シリーズ“笙野頼子を起点に読む!”第6回

 引き続き、藤枝静男の代表作を読んでみました。この作家、および笙野頼子との関わりについて存じない方は、昨日の日記を参照して下さい。

 さて、笙野頼子は書評で次のように書いています。

「振り返って思う。あの時にもし先に「田紳有楽」を読んでいたら、私は雷に打たれて死んでしまっただろうと」

 「あの時」というのは、彼女が群像新人賞贈呈式で初めて藤枝静男に会ったときのことですが、ともあれ「雷に打たれて死んでしまっただろう」ですよ。そうそう書けるセリフじゃありません。

 笙野頼子をしてそこまで言わせる『田紳有楽』とはどんな作品なのか。ともあれ読んでみました。

 本書は、『田紳有楽』と『空気頭』という2つの中編を収録した文庫本で、単行本出版は『田紳有楽』が1976年(作者69歳)、『空気頭』が1967年(作者60歳)、私が読んだ文庫版は1990年に出ています。

 収録作は、いずれも私小説なんですが、一見しただけではとてもそうは思えない幻想的な作品となっています。

 先に発表された『空気頭』ですが、冒頭から「私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う」と、もはや写実主義から遠く離れた独自の「私小説」スタイルを追求することを宣言します。

 続いて、3つのパート(仮にA、B、Cとします)が並びます。

 パートAは、いわゆる私小説とか心境小説とか呼ばれる伝統的なスタイルで書かれており、結核で死につつある妻のこと、それを見る自分の心情を書いたものです。そしてパートCは、事実のみを淡々と客観的に書き記したような、写実的作品。

 この2つのパートにはさまれた最も長いパートBこそ本作品の中核で、ここは(妻が入院していてセックスできないためでしょう)性欲を持て余した“私”が、奇怪な幻想というか妄想にふけるというような内容になっています。

 文体も他のパートからガラリと変わり、トレパネーション(頭部穿孔)から人糞食に至るまで、奇怪で異常で猟奇的な“私”の振る舞いを、まるで医学報告のごとく微に入り細を穿って延々と書きつらねるのです。読んでいて不快な気分になる人も多いと思いますが、とにかく恐ろしい筆力で読者をとらえて放しません。

 パートBの迫力に比べると、パートAやパートCはいかにも退屈で、むしろうさん臭いというか空々しい、と感じるのが凄いところ。伝統的ないわゆる私小説(A、C)と、自分が到達した私小説(B)との違いを見せつけているわけです。

 そして、この幻想化は『田紳有楽』で頂点に達します。

 何しろ、焼き物たちが次々と私語りをするのです。金魚とまぐわう、空を飛ぶ、大蛇を殺す、人間に化ける、もう言いたい放題。しかも彼らの持ち主は弥勒で、そこに菩薩が現れ、酒を飲んで、人骨笛を鳴らして、ジャラン、ジャラン、ペイーッ、ペイーッ。

 何が何だか分からないと思いますが、狂躁的なカーニバル風の文体で次から次へと繰り広げられる語りの名調子は、これはもう実際に読んで頂くしかありません。

 恐ろしいのは、これも「私小説」だということ。読み終わって唖然としてから、焼き物も弥勒も菩薩も修行僧も、誰も彼も“私”の分身に他ならず、これが自我というものを多面的に立体的に表現した作品だということに気づいたとき、本当の衝撃が走ります。

 なるほど、笙野頼子の『だいにっほん三部作』の原点はこれかっ、と思いましたね。

 というわけで、生涯をかけて私小説を追求してきた作家の到達点を、そして後継者の原点を、それぞれ確認できる重要な作品集です。『悲しいだけ/欣求浄土』と合わせてどうぞ。

タグ:笙野頼子
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