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『蛇 日本の蛇信仰』(吉野裕子) [読書(教養)]

 シリーズ“笙野頼子を起点に読む!”第3回

 笙野頼子さんの作品を起点に読書の幅を広げるシリーズ。今回は、『太陽の巫女』を初めとする笙野作品にしばしば登場する“蛇神信仰”について理解を深めるべく、『金毘羅』や『水晶内制度』で参考文献として挙げられている本書を読んでみました。

 本書の主張は「古代日本においては蛇が広く信仰されていた。後に抑圧されて表面的には消えてしまったが、様々な蛇の象徴物、あるいは蛇の暗喩という形で、その痕跡が残されている」というものです。

 頭上に蛇を乗せた縄文土偶といった話からスタートして、神話(ヤマタノオロチ等)や伝承(蛇の祟り)に見られる、霊力ある蛇という考え、また蛇は脱皮することから死と再生の象徴と見なされてきたこと、などの説明はすんなり読めます。

 しかし、そこから先がどうも、こう、暴走が始まるのですね。

 山は蛇がトグロを巻いたものと見なされてきた。案山子は山の神なので蛇である。山の神格化は蛇信仰が形を変えたもの。家屋も蛇のトグロの象徴。樹木は幹が長いから蛇の象徴。鏡は蛇の目の象徴。したがって家や木や鏡を神聖なものとする考えは蛇信仰に由来する。

 こんな具合に、儀式や祭祀に使われるものが丸ければ蛇のトグロ(または卵)、長ければ蛇、木製なら蛇、鏡なら蛇、そもそも名称に“カ”の字が含まれていればそれは蛇の古語であるカカが転位したもの。三角形なら蛇のウロコ、多角形なら蛇の目。

 この調子でどんどん筆が走ってゆきます。これなら、何だって「蛇の象徴」と見なせてしまいます。

 さらには、神話に出てくる「ミソギ」は「身削ぎ」の意で蛇の脱皮を示す、とか「少彦名神(すくなひこなのかみ)が乗ってきた舟はカガミという植物だったから彼の正体は蛇」だとか「前方後円墳の形は蛇の象徴」といった具合になってきます。

 論証が増えるにつれてどんどん説得力が失われていくというか、はっきり言ってトンデモ本になってゆきます。

 実は途中から「これはトンデモ本だなあ」と苦笑しながら読み進めたのですが、しかし何でも蛇にこじつけようとする著者の情熱には心動かされるものがありました。少なくとも読んでいて楽しめました。

 というわけで、少なくとも、古代日本には蛇信仰があったこと、一部の祭りや儀式や神話にその痕跡が残されていること、までは納得できます。後は鵜呑みにしないで、話半分に読んで楽しむべき本でしょう。

タグ:笙野頼子
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